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◆◆戦史
<◆イラン
中近東FAQ目次


 【link】

『鷲の翼に乗って』(ケン・フォレット著,集英社文庫,1986.3)

 読みました.
 イラン革命の影でこんな事あったのか・・・
 すごい大冒険だと思いました.
 テンポが良くて,現場の状況が脳内に浮かんでくるようだ.
 軍事だけでなく,より広い意味での安全保障・危機管理について考えてみる.

 イラン支店を今すぐたたんで,全員で撤退すれば安全だ.
 しかしそうすれば,これまでの投資も努力も全部失われる.
 情勢は安定に向かうかも.
 なかなか踏ん切りがつかないのが,つらい所ですな.

 脳内がお花畑な妻の存在が,いかにうっとうしいのが良く分かりました.
 イランのあちこちで暴動が頻発しているから,米国に先に帰そうとしたら,
「あなたと一緒に居たいの」

------------軍事板,2012/01/02(月)

 【質問】
 アバダン危機って何?
 3行で教えて!

 【回答】
 1954年,イランにおいて,資源ナショナリズムの運動を進めたモサデグ首相が,アバダン地域の石油を独占していたアングロ・イラニアン石油会社(AIOC)のイラン国内資産国有化を断行,戒厳令を敷いてAIOCの操業を停止させたことに端を発した国際危機.
 AIOCは英国の国策会社であったことから,イギリスは世界石油資本と共同してイラン原油の締め出しを行い,減産に追い込まれたイラン財政は困窮.
 1953年,CIAの工作(エイジャックス作戦)の下,軍部のクーデターによってモサデグ政権が倒れ,パフレヴィーII世の専制政治が復活,国際石油資本(七大石油会社=メジャーズ)の合弁会社がイランの油田を管理することとなった.

 【参考ページ】
http://www.diplo.jp/articles00/0010-2.html
http://www.y-history.net/appendix/wh1601-140.html
http://www.thebardownstairs.com/archives/19.html
http://blogs.yahoo.co.jp/futoritaimon/47000215.html
http://www.noe.jx-group.co.jp/binran/part03/chapter01/section03.html

【ぐんじさんぎょう】,2015/12/16 20:00
を加筆改修


 【質問】
 イラン革命は最初からイスラーム主義を目指していたのか?

 【回答】
 決してそうとは言えない.
 ホメイニ師を指導者に戴くイスラーム共和国であるという大掴みのコンセンサスこそあったものの,その具体的中身に1ついては百家争鳴していたという.
 以下引用.

 革命後のイランの政体は,ホメイニ師を指導者に戴くイスラーム共和国であるという大掴みのコンセンサスこそあったものの,その具体的中身については様々の考え方,思惑が渦巻いていた.
 モジャヘディン・ハルク,フェダイン・ハルクなど,革命の導火線を自負する左翼勢力は,社会主義的な国造りを夢見ていたし,バザルガン,サンジャビ両博士のように,西欧型の近代民主主義国家を指向する知識人グループもあった.
 また,同じイスラム政治勢力の中でも,市民的自由を尊重してやってゆこうという穏健なグループ「モスレム人民党」が,ホメイニ師の国外亡命中,イランに残ったイスラム教シーア派の長老シャリアト・マダリ師の傘下に結成された.
 さらに1950年代の初め,イランの石油産業を国有化するなど,民族主義政策を推進し,パーレビ国王のクーデターにより失脚した,あのモサデグ首相の孫に当たるマティン・ダフタリ氏も,民族主義的知識人を結集して「国民民主戦線」を組織するなど,政党の数は20余りを数えた.
 まさに百家争鳴の時期であった.

 イスラム共和党はこうした中で,ベヘシティ師(現イスラム最高法廷長官)を中心に結成された.
 ベヘシティ師は王制時代,イスラム教シーア派の布教師として十数年を西ドイツのハンブルクで過ごし,この間,王制に反対するイラン人在独留学生左翼分子の動向を当局側に通報していたなどと,革命後とかくの噂を政敵から立てられている人物ではあるが,時流の変化に敏感に反応し,革命の前々年イランに帰国,全国各地の高校の新設というキャンペーンの世話役活動を勢力的に進めて,顔を売った.
 このときできた人脈が,イスラム共和党創党に当たってのオルグ活動に役立ったと見る人もいる.
 イスラム共和党は,こうして革命後の各党乱立の中から時代に最大政党,というよりむしろ一党独裁として,がむしゃらに力を伸ばしてゆく.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.36-37

 ちなみに,ホメイニ師の孫も,「イラン革命はコースから外れた」と批判している.
 以下引用.

イラン革命は革命の子供達を抹殺し,コースからはずれた―ホメイニ師孫息子のイラン体制批判―

 イラン・イスラム共和国の建国者ホメイニ師(Ayatollah Ruhollah Khomeini)の死去17周年に際し,アル・アラビヤTVのサイト(www.alarabiya.net )が,ホメイニ師の孫息子フセイン・ホメイニ(Ayatollah Hussein Khomeini)にインタビューした.
 インタビューのなかで,フセイン・ホメイニは,イランの現体制を
「国民生活のすべてを統制する聖職者の独裁」
と批判し,体制破壊と政権打倒のために外国の介入を求めた※1.

 フセイン・ホメイニは,イスラム法学者による支配≠ノついて論じ,それはシーア派の宗教規範にもとづかず,革命前の聖職者迫害にかかわる歴史的事由を背景としたもの,と述べた.

 革命は,自由・民主々義の原則を放棄して,その元来のコースからはずれ,今みるような形態になってしまった,とホメイニは批判する.そして,爆弾や兵器に頼らず,この原則を身につけた時イランは初めて本当の力をつける,と主張した.

 イラン政府はフセイン・ホメイニをこの3年間軟禁状態におき,政府批判をするためイランメディアとの接触を禁じてきた※2.

 以下そのインタビュー内容である.

国力は兵器から生まれず,自由と民主々義によって築かれる

 イランは,自由と民主々義が根付いていけば,(本当の)力をつけることになる.国力は兵器と爆弾から生まれない….

 イスラム法学者による支配(velayat-e faqih)には反対である.(イスラム)革命の当初,このシステムの導入は,革命の主要原則のひとつではなかった.
 実際に,これは私自身目撃しているのである.
 しかし,宗教委員会とセミナリーで支配的だった聖職者達の態度から,これが変ったのである.

 宗教上の見地には,二つのアプローチがあった.
 第1はこのシステムの導入に反対する立場で,当時シーア派法学者の最高権威(marja`)であったアブ・アルカセム・コイ師(Ayatollah Abu Al-Qassem Khoi)が,その立場であった.
 第2がシステム導入賛成派である.
 しかしこのアプローチは宗教上の考慮にもとづくものではなく,歴史上のファクターに由来していた.
 宗教セミナリーは長い間,特にパーレビ時代(Reza khan Pahlavi 1921-1941)に迫害されていた.
 聖職者達は,隠忍自重して権力掌握の時を待った.今に見ていろその時は,というわけである.
 このアプローチは,ターバンを巻いた連中の多くが,心に抱いていた.
 私は宗教学者≠ニは言わない.故ホメイニを(このカテゴリーに含めない)ためである.

革命は指導者達を迫害した

 祖父の革命はその(革命の)子供達を破滅させ,コースからはずれてしまった.
 私はこの革命を生きてきた.
 革命は自由と民主々義を求めていたのだ.
 ところが,その革命は指導者達を迫害した.
 例えばタレカニ師(Ayatollah Mahmoud Taleqani)は,パーレビ政権時代頻繁に投獄され,革命後は法の侵害を非難したため,(政権に)激しく弾圧された.
 そのため師は嘆き悲しみ,抗議しつつ身を隠した.
 師は革命評議会の設置に反対した.
 評議会は勝手気侭,目茶苦茶な支配をやった.
 師の家族も迫害された….

 革命は社会の根底をゆさぶった.
 革命前その社会は保守的で,自由を拒否していた.
 革命が社会に民主々義と自由を受入れる準備をさせた.
 この革命のおかげで,教育をうけた層から農民や女性まであらゆる階層が,自由を享楽できる筈であった.
 政治的目覚めもあった.

 〔略〕
 イランの政権は,黒のベール着用を強要し,最も醜悪な形で女性を束縛しているのである.
 色は必ずしも黒ではなくてよいのに.学校或いは大学から出てくる女生徒,女子学生はまさに葬儀帰りのようである.
 ヒジャブはかぶるもかぶらないも或いは拒否するも,個人の問題なのである.
 祖父ホメイニの女性親族の多くは,ヒジャブを着用していなかった….

ホメイニの孫息子,外国軍のイラン介入を求める

 このアル・アラビヤ サイトは,
「フセイン・ホメイニは,アメリカのブッシュ大統領のイラン進攻と占領を呼びかけ,内部の動きや外部からの介入の如何を問わず,どのような方法でもよいからイランに自由が来なければならない.
 もしあなたが囚人ならどうする.誰かに監獄の壁をこわして貰いたいだろう,と主張」
と報じた.

 〔略〕
 ※1 フセイニ・ホメイニは,1958年テヘランに生まれた.
 1965年家族と共にイラクへ移住し,そこで宗教ゼミナリーに学んだ.
 1968年イラクでバース党の革命が発生した後,イランへ戻っている.彼は「リベラルな宗教人」と自己規定している.

 ※2 2006年5月31日付
http://www.alarabiya.net/Articles/2006/05/31/24251.htm

MEMRI,2006/6/14

 まあ,「革命の理念の変質」なんて,よくある話.
 むしろ,首尾一貫している事例を見つけるほうが難しいくらいで.

 だから,「革命」なんてものに甘い幻想を寄せるのは禁物.
 「革命」を連呼するような連中は,眉に唾して見ていたほうがいい.

若い頃のホメイニ師
(画像掲示板より引用)


+

 【質問】
 宗教独裁に抵抗する人々を,イスラーム共和党はどう抑えつけたのか?

 【回答】
 文書暴露戦術などを通じて,中道知識人達に「西洋かぶれ」のレッテルを貼り付け,その政治的失脚,信用の失墜を図るあらゆるキャンペーンが展開されたという.
 以下引用.

 〔アメリカ大使館の占拠〕事件発生に続く対米経済断交と,これによりもたらされた大衆的な反米ムードの高まりは,イスラム共和党が活躍する独壇場となった.
 宗教的独裁に抵抗してきた中道知識人達に「西洋かぶれ」のレッテルを貼り付け,その政治的失脚,信用の失墜を図るあらゆるキャンペーンが展開された.

 このキャンペーンに絶好の素材を提供したのが,アメリカ大使館内で学生達の「押収」した文書類である.
 学生達の襲撃を受けた館員達が,暗号書を含む大部分の機密書類の焼却に成功したものの,イラン外務省にたまたま出向いていて不在だったラインゲン代理大使の執務室などで,なお多くの重要文書を丸ごと押さえられてしまったいきさつは,解放後の人質達の証言にも詳しい.
 これらの文書の中で学生達が飛びついたのは,イラン革命後の各派の政治指導者達について,アメリカ大使館が作成していたファイルの山だった.
 これらのファイルの中から学生達は,中道派知識人達に付けられた大使館側の好意的な論評とか,これらの知識人が革命政権に訴追されている王制時代の要人の家族や縁者の出国,亡命についてアメリカ大使館の便宜供与を求めてきた事実などを,巧みに選び出しては公開していった.
 バザルガン前首相や欧米派知識人層に人気の高かったマダニ海軍司令官兼フゼスタン州知事らの名前も,こうして槍玉に上がった.
 王制時代,その秘密警察による人権侵害問題を訴えて,当時のアメリカ大使館を訪れた人達までが,そのファイルを元に「アメリカのエイジェント」として摘発されていった.

 不思議なことにベヘシティ師らイスラム共和党幹部に付いてのファイルは決して公開されなかった.
 これらの人々が,様々な要件で革命前後を問わずアメリカ大使館を訪れていたことは,よく知られており,
「文書暴露の選別は,イスラム共和党の党派的利益に即して行われている」
という抗議の声が,同じイスラム教シーア派の高僧ながら,イスラム共和党の独裁ぶりにかねてから批判的であったアヤトラ・テヘラニ師から上がったこともある.

 この文書の選別暴露戦術と並行して,大使館占拠の学生達の中から左派分子が排除されていったという話も聞いた.
 テヘラン大学,テヘラン工科大学(ポリティニク)などに根を張ったイスラム共和党の事実上の下部組織「イスラム協会」系の学生達が,占拠学生の主導権を握り,イスラム共和党に奉仕したというのが,イランの国内政争から見た人質事件の真相である.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.40-42


 【質問】
 「モンタゼリ・ボーイスカウト事件」とは?

 【回答】
 アヤトラ・モンタゼリ師の息子,シェイク・モンタゼリ(別名リンゴ)が革命後,レバノンのシーア派を支援し,「イスラエルと戦う」などと気勢を上げて,軍事知識もないティーン・エイジャーの青年男女500人を引き連れ,レバノンの査証も取らずにイランを出国した事件.
 彼らは途中シリアに立ち寄った際,体よく追い返され,レバノンには入国できなかった.

 なお,シェイク・モンタゼリは後に国会議員となったという.

 以上,ソースは 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,1981/4/20),p.47(平山健太郎著述)より.


 【質問】
 イランの皇帝が革命後,国王と呼ばれるようになったのは何故ですか?
 亡国の君主とは言え,天皇→日王と同じで失礼だと思うのですが.

 【回答】
 「シャー」の訳語は公的には「国王」.
 ただ,イラン国内においては,ササン朝ペルシャの王に倣って「諸王の王」という称号をパーレビ国王は用いていたので,外交儀礼として「パーレヴィー皇帝」と呼んだこともあったということ.

(世界史板)


 【質問】
 パーレビ国王時代のイランは,F-14トムキャットなどの西側の最新兵器を数多く購入したと聞きましたが,現在これらの兵器はどうなったのでしょうか?
 やはりメンテナンスの問題で使われなくなったのですか?
 それともまだ使っているものもありますか?

 【回答】
 部品が入手できなくなったが,共食い整備でしばらくは飛ばしていました.
 しかし,その後起きたイラン・イラク戦争に際し,イスラエルから援助してもらっていたりします.
 敵の敵は味方ってやつで.

 …更に,こっそりアメリカまで武器援助をしていたりしちゃうんです.
 これがいわゆる「イラン・コントラ事件」です.

 トムキャットに関しては,シリアルナンバーリストまで掲載されてますね>イラン空軍公式サイト
http://www.iiaf.net/aircraft/jetfighters/F14/f14.html

 ついでにイラン空軍ジェットファイターズの勇姿もどうぞ.
http://www.iiaf.net/archive/aircraft.html


 【質問】
 イラン革命はサウディアラビアにどのような衝撃を与えたか?

 【回答】
 ホメイニ師は,宗教権威者が政治を司る祭政一致の原則を説き,返す刀で
「クルアーンのどこに,王が国を治めよと書いてあるか」
と喝破した.

 一方,サウディの「原理主義」は,ドグマとして西側に挑戦するものではなく,あくまで国内の統治原則に留まっている.
 むしろサウド家は,親政の根拠として原理主義的発想を組み込んできたともいえよう.
 クルアーンこそ全ての判断基準であり,それゆえに法律も議会も要らない,というのが代々の王の立場であり,希に起こる民主化要求に対しては,
「クルアーンを軽視するのか」
という切り札で押さえ込むことも可能だった.
 「2つの聖地の守護者」というファハド国王の尊称は,どこか中世の王権神授説を連想させるものがある.

 こうした政体であるからこそ,
「クルアーンのどこに,王が国を治めよと書いてあるか」
というイラン革命に慌てたのである.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.112-113,抜粋要約)


 【質問】
 在テヘラン米国大使館人質占拠事件とは?

 【回答】
 1979年11月,「ホメイニ師の路線に従うムスリム学生」と名乗る学生,約500人の集団が,米大使館を襲撃し,外交官ら61人(後に52人)を人質にして占拠した事件.
 失脚したパーレビ元国王が,病気治療のため,ニューヨークを訪問したことへの抗議が動機.
 これをルホラ・ホメイニ政権は黙認したばかりか,擁護する構えさえ見せたという.

 その後,事件は,80年4月の米軍特殊部隊による救出作戦失敗を経て膠着状態に入り,444日後の81年1月にようやく決着.

 占拠学生達はそのまま政権に迎えられ,後に内相になるアリ・ベシャラチや,初の女性副大統領となるマスメー・エブテカールなど,多くが権力中枢で出世の階段を順調に昇っていったという.
 また,後に「ヒズボラ」創設に暗躍したと噂されるマジド・カメルなど何人かは,主に「代理大使」の肩書きで中東各国に派遣され,「革命の輸出」工作に携わった模様.

 詳しくは『イスラムのテロリスト』(黒井文太郎著,講談社,2001/10/20),p.31-32を参照されたし.

▼ しかしその一方,『Columbia Journalism Review』によれば,占拠学生の幾人かは反体制ジャーナリストになっているという.
 それは彼らの多数が後日,イスラーム強硬派政権によって投獄されたり,肉体的暴力を受けたためだという.

 当時,米ABCテレビのインタビューに答えて,
「アメリカ大使館員は皆スパイだ! 我々はアメリカが行ってきた悪事を,世界に暴露してやる!」
と叫んだローゼン・ミルダマディは,その後,国会議員になり,一時は国家安全,外交委員会委員長も務め,アメリカとの国交回復を唱えるようになり,2002年,自身の新聞『ノルーズ』紙上で,イランの議員とアメリカ議員との会談を提唱したため,当局によって廃刊命令処分を受けたという.
 また,強硬イスラーム主義擁護者諮問委員会によって,議員失格とされた.

 当時,ホメイニ師との関係が深く,占拠事件の「精神的指導者」と言われたホジャトリスラム・ムサヴィホイニハは,1990年初頭,改革派の新聞『サラム』を創設した.

 占拠メンバーで「改革の頭脳」と呼ばれたサイード・ハジャリアンは,改革派の『ソブ・イ・エムロウズ』紙の編集長を務めている.

 詳しくは『SAPIO』 2005.1.19/2.2号,p.91を参照されたし.▲


 【質問】
 米海軍がペルシャ湾に常時展開するようになったのは何時からか?

 【回答】
 1980年から.

 時は1979年1月16日に遡ります.
 イランで革命勃発! イランとサウディアラビアに中東権益を守らせようとしていた,アメリカのムシのいい戦略,「代理戦略」は脆くも崩れ去ったのでありました.
 驚き,困ったのは,アメリカ大統領カーター.
 結局,自国の利益は自国の軍隊で守らなきゃダメ,と悟り,「カーター・ドクトリン」を発表.
 緊急展開部隊(RDF)を作って,いざというときには米軍がすぐに駈けつけられるようにいたします.
 それと共に行われたのが,ペルシャ湾岸の米軍基地増強.
 これによって,米海軍はバーレーンを拠点として,ペルシャ湾に常に貼り付くことになったのでございます.

 このように,かくもイラン革命はアメリカに大出費を強いることになり,イランイスラーム共和国は今もアメリカに恨まれ続けておりますが,それはまた別の話.

 詳しくは,Michael T. Klare著「世界資源戦争」(廣済堂出版,2002/1/7),P.93-94を参照されたし.
 なお,M. T. Klareは「平和と世界安全保障に関する5大学研究プログラム」理事.


 【質問】
 米大使館員人質救出作戦について教えてください.

 【回答】
 「イーグル・クロウ作戦」についてかね?

 事の発端は1979年11月14日.
 テヘランの米国大使館に,正義感あふれる馬鹿な学生たちが乱入,大使館員を人質として立てこもったことに始まる.
 学生等は,病気につき米国で療養中のパプレヴィ国王がイランに強制送還され,強制裁判にかけられるまで大使館を占拠すると宣言する.

 12月4日.
 国連安保理事会は人質の早期釈放のための決議案を採択.
 救出作戦立案に向けて動き出す.

 1980年4月17日には,米政府はイラン制裁について
1:イランへの資金移転の禁止
2:イランからの輸入の禁止
3:アメリカ人のイランへの渡航を禁止
4:イラン政府購入の在米軍事物資の処分
の追加を発表したが,この前日,ホワイトハウスにて救出作戦内容をカーター大統領は説明を受け,作戦の実行をすでに決定している.

 説明された作戦の全貌は,
(1)4月20日午後二時
 作戦参加者132人をエジプトへ空輸,うちデルタフォース隊員は93名
 編成は攻撃任務に就く「赤」「青」小隊(各四十名)と支援任務につく「白」小隊(十三名)

(2)24日
 オマーンのマシラ島へ移動

(3)午後六時
 デルタフォースを乗せたMC130三機と油槽機〔原文ママ〕EC130が,マシラ島から発進.

(3)午後十時
 テヘランから南東約320キロ地点にある作戦ポイント「デザート・ワン」に着陸.
 予定より一時間ほど遅れ,RH53Dシースタリオン輸送ヘリ六機が到着.

(4)25日
 「デザート・ワン」にて輸送ヘリが給油を受け,輸送機,および油槽機はマシラ島に引き返す.
 ヘリはテヘラン南東80キロの潜伏地点に,日が出る前に到着.
 日中は潜伏地点にて待機,潜伏中に事前にもぐりこませていた工作員二名と接触.
 日没後に行動を開始,工作員はメルセデストラック六台と小型乗用車を二台運搬.

(5)午後八時
 小隊ごとに分かれたデルタフォースが大使館へと向かう.
 赤・青小隊はルーズベルト通り側の大使館東側の壁を乗り越え,高性能爆薬を使用しトラックが通行可能にする.
 白小隊は隣接しているサッカー場を奪取し占拠.
 赤・青小隊が救出した人質をサッカー場まで護衛.
 医療班が人質の点呼を取り迎えのRH53Dを待ち,その後レンジャー部隊が制圧したマンザリ飛行場へ向かう.


(6)26日朝暁
 飛行場にC141スターリフターが到着.
 ヘリから全員がそちらに乗り換え離陸,レンジャー部隊も撤収.

・・・となるはずだった,

 だが実際は,

24日深夜
 砂嵐にヘリが巻き込まれる,内の二機はオマーン湾に待機する空母「ミニッツ」に引き返す.

25日午前二時四十分
 飛び上がったヘリがEC130に激突し,パイロット五名と海兵隊員三名が死亡.

午前三時
 作戦は中止.
 残ったヘリを放置し,徒歩でマシラ島へ引き上げる.

 ・・・作戦前に,
「なに,この程度の任務なら,一時間も(以下省略」
などと豪語しておきながら,このざまである.

 置き去りにしたヘリも破壊せず,中には作戦を記した機密文書まで置いてきたという完璧ぶり.
 作戦自体はヘリが2機足りなくなった時点で「規定により」中止.実際には実行できる機数ではあった.
 なぜかヘリのパイロットには砂漠なんかまったく不慣れの海兵隊パイロットが当てられており,このため風に煽られてEC-130に激突.
 部隊がバカなのではなく,作戦構成,部隊構成が全然ダメだったのが大きな敗因.
 そもそも作戦構成自体が訓練を受けた司令部ではなく,寄せ集めの集団によって行われた.
 これを教訓にSOCOMが創設されることになった.


 パプレヴィ国王が客死し,米国凍結資産から79億ドルをイングランド銀行に移したこともあり,人質は無事解放されたが,「秘密対テロ部隊」だったデルタフォースは勝利の凱旋によってではなく,作戦失敗という不名誉な形で世に知られることとなる.

 この作戦のほかに,急制動用のロケットをつけたC‐130でテヘランのサッカー競技場に超短距離強行着陸.
 搭載したジープに乗った特殊部隊がジープで大使館を急襲.
 ジープ(と確かハイジャックしたバスだったか)で救出した大使館員を連れて郊外に脱出し,そこでヘリに拾ってもらう……という無謀というかムチャな作戦も立案された.
 そこでC‐130の着陸実験をやったら,ロケットの過早点火が原因で墜落事故を起こして中止になった.

名無し上級大将 ◆80fYLf0UTM
名無し三等兵(青文字)
in 軍事板

 【参考リンク】
Super STOL C-130 Mishap

仮 in FAQ BBS

「militaryphotos」:Operation Eagle Claw, 1980


 【質問】
 1980/9/12のトルコのクーデターは何故起こったのか?

 【回答】
 政治的混乱と,それに伴う治安悪化,および経済不振を立て直すためだったという.
 以下引用.

 エブレン国軍参謀総長に率いられたトルコ軍部が,戦後3度目の無血クーデターに成功したのは1980年9月12日.
 軍は憲法と議会を停止すると共に「国家保安評議会」を設置,エブレン参謀総長が大統領に就任した.
 デミレル首相(正義党),エチェビット前首相(共和人民党)ら百人近い政治家が拘束され,逮捕された左右の過激派分子は11月末までに1万2千人に上っている.

 クーデターを起こした理由について,軍は「内戦を避け,国家の崩壊を防ぐ」ためだったと説明した.
 これは,長年続いてきた政治的,経済的混乱に対する軍の危機感が頂点に達したことを意味していた.

 トルコでは二大政党である中道右派の正義党と中道左派の共和人民党が交互に政権を担当してきたが,双方とも常に議会の過半数を確保できず,少数野党と連立を組まねば内閣を組織できない状況にあった.
 こうした中でキャスティング・ボートを握り,発言力を強めだしたのが国家救済党と国家行動党である.
 エルバカン党首の率いる国家救済党はイスラム根本主義政党で,この1,2年,イスラム法の世界に立ち戻る事を主張するまでになっていた.
 これは政教分離を定めた「トルコ人の父」ケマル・アタチュルクの国是に明らかに反している.
 〔略〕
 エブレン参謀総長以下,軍首脳もクーデター直後にアタチュルク廟に参拝に出かけた.
 〔略〕ケマリズムと呼ばれる彼の政策は,軍の指導理念となっている.
 国家救済党の言うイスラム復古主義は,とうてい是認できるものではなかった.

 一方の国家行動党(チュルケシュ党首)は急進的な国家主義を唱える極右政党である.「行動隊」と呼ばれるテロ集団を持ち,左派勢力と衝突を繰り返していた.
 正義党と連立を組み,与党の一翼を担う国家行動党がバックにいるために,政府は効果的な取り締まりはいっさい出来ない.
 これに対して極左組織もテロで対抗し,治安は極度に悪化した.
 各地に左右過激派の解放区が出来,防弾ガラスの入った車が飛ぶように売れた.
 クーデターまでの1年間に,2千人が左右のテロによって死亡したといわれる.

 こうした状況の中で国会の機能も失われつつあった.
 コルチュルク前大統領の後任を決める投票が,1980年4月からクーデター発生までの5ヵ月間に,実に115回行われた.
 しかし各党の思惑から,遂に新大統領を選出できなかったのである.
 軍がクーデターを起こした最大の要因の一つに,こうした政治的混乱があったことは間違いない.

 〔略〕
 政府発表による年間インフレ率は,79年が81%,80年は100%と見込まれていた.
 だが,銀行など民間金融機関の推定では,両年とも130%以上という数字が出ている.
 〔略〕
 急激な物価高騰は,国民生活を確実に圧迫している.
 この国の最低賃金は1ヵ月5400リラ.クーデター後70%引き上げられたが,とても生活できる額ではない.
 外務省の若手エリートの給料は1万6千リラだった.税金と社会保険料が高いので,手取りは8千〜9千リラに過ぎない.
 とても食べていけないので,親元から家賃の分だけ送金して貰っているという.
 〔略〕
 1979年10月の政府発表では,完全失業率は14.77%.潜在失業者を含めると20%を越えているのは確実らしい.人数に直すと350万人である.
 〔略〕

 このような悪性インフレを招いた原因としては,2つのことが指摘されている.
 一つは73年から開始された高度成長政策である.農業国トルコをイタリア並みの工業国にすることを目指していたが,オイル・ショックで挫折した.
 もう一つは74年のキプロス侵攻である.ギリシャに対抗するため,トルコは3個師団を派遣したが,これによって国家財政は破綻した.

 〔略〕

 経済の破綻は政治的混乱と表裏一体となり,社会不安を助長する.
 軍がクーデター決行を決意したもう一つの要素が,この経済危機だったことは明らかである.

園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.195-201


 【質問】
 1980/9/12のトルコのクーデターは,トルコ国民には歓迎されたのか?

 【回答】
 経済建て直しに対する軍の手腕に疑問があるため,冷ややかなほど冷静に見守っているという.
 以下引用.

 治安回復は,軍の強権をもってすれば比較的容易なことであろう.
 だが,トルコ経済立て直しの妙薬は軍も持っていない.
 その上,国民が一番期待しているのは生活の安定なのである.
 もし,軍が経済安定に失敗するようなことになれば,それはそのまま軍部批判に繋がりかねない.

 1960年に起きた戦後最初の軍事クーデターの際は,兵士と市民が路上で踊り回り,首都は歓声に包まれたという.この時のクーデターの使命が治安回復だけだったからである.
 今回,そのような光景はいっさい見られなかった.
 国民は軍が何をやってくれるのか,冷ややかとも言えるほど冷静に見守っている.

園田矢 from 「危機の三日月地帯を行く」(日本放送出版協会,
1981/4/20),p.201-202


 【質問】
 イラン革命直後のクルド人反乱は何故起こったのか?

 【回答】
 クルド族の自治権要求に対し,テヘラン政権は,この要求に屈すれば,イラン解体に繋がるとして拒否したためだという.
 以下引用.

 人種的にはトルコ系,信仰の上でも,同じイスラム教ながらホメイニ体制がイランの「国教」と強引に決めてしまったシーア派とは別のスンニー派に属するクルド族は,パーレビ王制崩壊の機会を捉えて,自治権獲得の要求をテヘランの中央政府に突き付けた.

 しかしテヘラン政権は,この要求に屈すれば,北西部のアゼルバイジャン(シーア派ではあるが,人種的にはトルコ系),南西部油田地帯のアラブ人,西南部パキスタン国境沿いに住むバルチ族(スンニー派)など,イラン総人口3千5百万人の3分の1強を占める少数民族からも,次々に同じ要求が出され,外国勢力,特に米ソ両超大国がここにつけ入って,統一国家としてのイランが解体に導かれるであろうという危機感から,このクルド族の自治要求を拒絶.
 クルド族は武装反乱の道に追い込まれていった.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.58


 【質問】
 クルド反乱は国王派の残党の仕業だったのか?

 【回答】
 全く根拠皆無ではないだろうが,それが主な原因だったとは考えにくいという.
 以下引用.

 テヘランの革命指導者達は,この武力闘争を国王派の残党による反革命行動と決め付けた.
 この決め付けには幾分の根拠もなかったわけではない.

 パーレビ体制下で悪名を馳せた秘密警察サバクの職員の中に,かなり多数のクルド族出身者が含まれていたのは事実らしい.
 辺境の少数民族から最も忠誠な抑圧機構の要員を作り出し,一般大衆に差し向けるという独裁者の統治技術は,歴史に幾らも例がある.
 クルド族の反乱に,王党派による唆(そそのか)しがあったとしても不思議ではない.

 左翼の反体制集団フェダイン・ハルクの一部も,テヘランでの権力奪取に挫折してクルド地域に潜入し,ゲリラ闘争を煽動した形跡がある.
 イラク,アメリカ,ソビエトなど外国勢力のそれぞれの思惑による有形無形の援助も,反乱に拍車をかけたかもしれない.

 とはいえ,反乱の広がりはやはり,ホメイニ体制の弾圧的な同化政策に対するクルド大衆の不満無しにはありえなかったはずである.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.58-59


 【質問】
 クルド反乱鎮圧に,正規軍ではなく,革命防衛隊が差し向けられたのは何故か?

 【回答】
 正規軍兵士は現地徴兵の若者達だけに,同胞に銃を向けさせるのが難しかったため.
 そのため,革命防衛隊が全てのダーティ・ワークをやる羽目になり,クルド族からの憎悪の対象になったという.
 以下引用.

 ここで反乱の鎮圧に動員されたのが革命防衛軍である.
 反乱容疑者の逮捕,革命即決裁判による集団処刑,こうしたダーティ・ワークの全てが,テヘランやコムから派遣されてきた革命防衛軍の手で進められていった.
 正規軍も駐屯していたが,現地徴兵の若者達だけに,同胞に銃を向けさせるのは難しい.
 こうして革命防衛軍は自ら憎まれ役を買って出ることになってしまった.

 アメリカ大使館の人質事件が起きて間もない79年の12月,テヘラン市内のサバク本部跡に設けられていた革命防衛軍の本部を取材したことがある.
 そのとき,広報用の写真を何か見せてもらいたいという私の要請に,幹部の一人が
「では,これを見てくれ」
と,さっそく持ち出してきてくれた写真の束は,私にはまことにショッキングなものであった.
 〔略〕
2百枚ほどの写真の殆ど全ては,このクルド反乱地域で,クルド族ゲリラに惨殺された革命防衛軍の兵士の遺体の写真であった.
 正規軍はゲリラの捕虜になっても,捕虜として扱われ,休戦になれば釈放されてくるのが通例だが,革命防衛軍のほうは,一室に閉じ込められて手榴弾を放り込まれるとか,部屋にガソリンを撒かれて焼かれるとか,憎悪を込めた報復の対象になっていた.
 そしてまた,こうした惨殺遺体の写真が持ち帰られ,「反革命」勢力に対する憎悪を煽り立てる広報素材に使われている状況に,やりきれなさを感じたのは,私の日本人的な甘さなのかも知れない.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.59


 【質問】
 イラン革命後,イラン正規軍はどれだけ弱体化したのか?

 【回答】
 兵力は半減,戦闘機の3分の2,戦車の半数は稼動せず,また,「イスラム協会」による監視の下,将校の権威が失墜し,下士官兵による「組合管理」的な様相すら見せていたという.
 以下引用.

 パーレビ王制時代,「ペルシャ湾の憲兵」を自認したイラン正規軍は40万人を超え,中東最大と言われた.
 しかし,その常備兵力の半数近くが,革命のどさくさで逃亡し,革命後,再編成された後も25万人そこそこまでの回復と見られていた.
 また,将校の権威が極度に失墜し,下士官兵による「組合管理」的な様相すら見せていた.

 79年の12月,テヘラン郊外にあるイラン軍レンジャー部隊の訓練キャンプを訪れたことがある.
 対応に出たのは曹長と軍曹の古参下士官であった.
 曹長は王制時代,ペルシャ湾の対岸オマーン西部のドファール地方で,隣国南イエメンの支援を受けた左翼ゲリラ「オマーン解放戦線」との戦闘に,軍曹のほうは73年3月の南ベトナムからの米軍撤退以後,75年のサイゴン陥落直前までICCS(国際停戦監視委員会)の構成メンバーであったイラン軍小部隊の要員として,それぞれ「海外派兵」された体験があり,英語がかなり話せるところから,私達の対応を買って出たものらしい.
 いずれも口髭,顎鬚をたくわえている.王制時代は正規軍将校は髭を剃るよう命令されていたことへの反動であろう.
 革命の時,所属部隊を革命側に寝返らせたのも,これらの古参下士官達であった.

「将校は肩章,下士官は腕章という階級章のつけ方は,王制時代の身分制に繋がる封建的な遺習なので,下士官兵を含め,全ての階級章を将校と同じ肩章にする案が今,委員会にかけられている」
といった瑣末な議論が花を咲かせている酒保へおずおず入ってきた将校(中佐)が,気焔を上げる下士官達と私達に,気弱そうな微笑を精一杯浮かべながら,
「酒保の中身を近々もっと充実させることになっている」
と約束してみせるなど,部下達の人気保持に汲々としている姿勢が読み取れた.

 障害物突破の訓練が実際に行われている練兵場でも,ターバン姿のイスラム僧を見かけた.
 下士官兵の間で組織されている「イスラム協会」のイデオロギー教育にやってきたらしい.
 ロシア革命後,ソビエトの赤軍には,職業軍人,つまり軍事テクノクラートの政治的な忠誠心を監視するため,筋金入りの党員からなるコミッサール(政治委員)制度が中隊レベルにまで導入され,現在なお政治将校として残されているが,イラン革命以後の正規軍についても,「イスラム協会」はそうしたお目付け役を果たしているわけである.

 バニサドル大統領が,こうした軍隊に,階級的な秩序を回復しようと試み,佐官クラスを中心に革命後失職した中堅将校を千人ほど復職させたことがある.
 テヘラン市内のある連隊では,こうして復職した連隊長の大佐が,
「これからはびしびし規律を叩き直す」
と施政方針演説したところ,翌日早速下士官兵らに袋叩きにされた上,営門から追い出されてしまったという記事が地元紙に載ったりした.
 この上官暴行にどう事後措置がとられたかについて,この新聞は何も伝えておらず,力関係から見ておそらく泣き寝入りになったのだろうと私は見た.

 これに加え,兵器の部品不足,整備不良も深刻な問題になっていた.
 パーレビ前国王が革命直前アメリカから買い込んだ最新鋭戦闘機F14,70余機は,アメリカ軍事顧問団の引き上げと共に,射撃管制装置など重要なコンピュータ部分を取り外されて,全てが無用の長物と化し,F4,F5などの第一線機およそ400機も,部品不足や整備の不良で3分の2は飛べない状態にあったと言われていた.
 2千両に上る戦車も,およそ半数は動かない状態であった.

 さらに80年7月には,イラン北西部にあるイラン空軍のハマダン基地を中心に,ホメイニ体制に対する軍の反乱計画が発覚したとして,パイロット将校ら千人が逮捕される事件も置き,首謀者の将官一人が処刑されている.

平山健太郎 from 「危機の三日月地帯を行く」
(日本放送出版協会,1981/4/20),p.51-53


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