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◆◆クルド人問題
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「Blogs of War」◆(2013/07/28) Analysis: Al Qaeda's Iraqi, Syrian affiliates jointly battle Kurds

「Strategy Page」◆(2010/10/11)KURDISH WAR: The Catalonia Solution

「Strategy Page」◆(2011/04/30)KURDISH WAR: Fraud For The Cause

「Strategy Page」◆(2013/05/19) KURDISH WAR: The Threat From Syria And Iran

「Today's Zaman」◆(2013/05/24) Report: PKK head O:calan to get new prison mates amid settlement efforts

「Today's Zaman」◆(2013/06/28) Suspected PKK members kidnap specialist sergeant in Lice

「Today's Zaman」◆(2013/05/29) Pro-Kurdish BDP official detained in operation against terrorist group

「Today's Zaman」◆(2013/06/30) Kurdish mourners blast Turkish gov’t after shootings

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「Today's Zaman」◆(2013/07/21) PKK Chief O:calan says he wants to meet with Turkish media

「Today's Zaman」◆(2013/08/13) Turkish government to debate reforms as Kurdish pressure mounts

「Today's Zaman」◆(2013/08/18) Report: PKK transfers millions to Dubai from Europe

「Today's Zaman」◆(2013/08/19) [TZ Blog] Challenges mar grand Kurdish conference by @abdullahawez

「Today's Zaman」◆(2013/08/19) Jailed PKK leader to be moved to larger cell, BDP leader says

「VOR」◆(2013/08/06) イスラム過激派 シリア北部でクルド人450人を殺害

「数多久遠のブログ」◆(2013/04/06) クルドに関する2つのトピック

「中東の窓」◆(2013/04/30) クルド問題へのイランの介入?

「中東の窓」◆(2013/04/30) 美人クルド戦士

「中東の窓」◆(2013/05/08) PKKのトルコ領退去問題

「中東の窓」◆(2013/05/09) pkk武装要員の退去開始

「中東の窓」◆(2013/05/15) PKK武装要員のトルコ退去(第1陣のイラク到着)

「中東の窓」◆(2013/06/25) クルド和平の第2段階?

「中東の窓」◆(2013/07/20) トルコ・クルド関係

「中東の窓」◆(2013/07/26) トルコ・クルド関係

「中東の窓」◆(2013/08/19) シリア情勢(クルド人のイラクへの避難)

「日本語で読む中東メディア」◆(2013/04/25) PKKカンディル本部,「撤退」日程を正式発表 (Yeni Safak紙)

「日本語で読む中東メディア」◆(2013/04/25) 世界が注目,PKKの「撤退」発表 (Radikal紙)


 【質問】
 クルド人の起原は?

 【回答】
 紀元前2000〜1000年頃だという.
 以下,抜粋要約.

 各種文献によれば,クルド人は人種的にはイランと同じアーリア系と見られ,紀元前2000〜1000年にかけて侵入したイラン系メディア人と,土着のグティ人の混血が,民族的原型とされている.
 紀元前2000年頃にカルダカ(又はカルダカイ),紀元前1000年頃にはクルティエという国が現れるが,これがクルド人の国だったとする学者もいる.

 古くから勇猛果敢な性質で知られ,アッシリア語で戦士を意味するガルドゥないしカルドゥが,クルドの語源とする説もある.

 クルド人居住地域はクルディスタンと呼ばれ,東はイランのザグロス山脈,西は北部シリアを流れるユーフラテス川に接する.北は,ノアの方舟が降りたという説もある,トルコ南東部のアララット山,南の縁辺はバグダッド北東約150kmのハナキン(イラク)やイランのケルマンシャー州に達している.
 イラク,イラン,トルコの山岳地帯が中心だが,シリア北東部や旧ソ連構成国の一部も,クルド人居住地域に含まれる.
 この地域の特質は,海への出入り口がないこと,もう一つは後の時代に大きな政治問題となるのだが,石油資源が極めて豊富なことである.

 クルド人の名を一躍有名にしたのは,イスラーム世界の英雄サラディン(1138-1193)の出現だった.
 現在のイラク北部ティクリート出身のサラディンは,1169年,エジプトを拠点にアイユーブ朝を樹立,エルサレム無血入城を果たし,十字軍との戦いでも勇名を馳せた.
 10世紀後半にアッバース朝が倒れたイスラーム世界にあって,クルド人は地方王朝設立に関与した後,英雄サラディンの下に結集するのだ.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.251-252)


 【質問】
 クルディスタン分断はいつ頃から始まったのか?

 【回答】
 エルズルムの和議(1639)から.
 以下,抜粋要約.

 13世紀になると,クルディスタンにはモンゴル帝国が侵入,クルド人達はイスラーム教徒の立場から,トルコ系イスラーム王朝,マムルーク朝と連携して抵抗した.
 マムルーク朝は軍人奴隷出身者が立てた王朝だが,これが1517年にオスマン帝国に滅ぼされると,今度はオスマン帝国と,イランのタブリーズに樹立されたサファビー朝との対立が始まる.
 トルコ南東部ディヤルバキールからイラクのバグダッドに及ぶ地域を制圧したサファビー朝と,その膨張を阻止しようとするオスマン帝国は,クルディスタンで激突,クルド人居住地域は戦場と化した.

 その戦いの後に,双方がトルコ南東部エルズルムで和議を結んで国境線を確定したのが1639年.
 これはクルディスタンの地理的分割とクルド人の民族的分断を意味した.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.253)


 【質問】
 ディヤルバキールのクルド人反乱とは?

 【回答】
 19世紀前半,オスマン帝国に対する反乱.
 発生後,約10年かかって鎮圧されたという.
 以下,抜粋要約.

 19世紀前半,オスマン帝国はイラク地方のクルド人を徹底的に弾圧,1826年にクルド人は大規模反乱を起こした.
 クルド勢力はトルコからの独立を宣言すると共に,イラク北部のモスル,イルビルなどを占領,30年代に入ると,トルコ国境地帯のザホも支配下に置いた.

 これに対してオスマン帝国は1835年,大軍をディヤルバキールに派遣,反乱指導者をバグダッドで処刑し,ようやく反乱を鎮圧した.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.)


 【質問】
 オスマン帝国解体の際,なぜクルドは独立できなかったのか?

 【回答】
 アタチュルクの荒業の結果だという.
 以下,抜粋要約

 オスマン帝国は1920年のセーブル条約で中東・欧州などの広大な領土を失ったが,この条約には,トルコ領内,東アナトリアの一部にクルド人の自治権を認めるクルド条項も盛り込まれていた.

 だが,クルド条項は結局,発効しなかった.
 ケマル・アタチュルクはセーブル条約破棄のための武力闘争を呼びかけ,1920年のトルコ大国民会議で新生トルコ民族国家誕生を宣言,対ギリシャ戦争(1921-22)でトルコを勝利に導く.
 と同時に,スルタン制の廃止により,約600年に及ぶオスマン帝国の支配に終止符を打ち,連合国側にセーブル条約破棄を了承させた.
 その結果,1923年のローザンヌ条約でトルコは一部の領土を回復し,セーブル条約のクルド条項の空文化にも成功.

 これに不満を持ったクルド人が1925年に反乱を起こすや,アタチュルクは直ちに反乱指導者を処刑し,幾つかのクルド部族を根こそぎトルコ国内に強制移住させる.
 同じ頃,イラン領内でもクルド人は反乱を起こしたが,近代装備のイラン軍によって直ちに鎮圧さる.

 さらにイラン,トルコ・イラクの3国は1937年,3国の国家体制を脅かす組織(クルド人)などは,緊密な協力により断固排除する,という条約を締結.
 クルド人を共通の潜在的驚異と見なす3国の基本的立場は,この条約以来変わっていない.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.254-255)


 【質問】
 なぜクルド人は分離主義的になったのか?

 【回答】
 オスマン帝国崩壊後,トルコ共和国政府には,アナトリア南東部のクルド人に対し,効果的な教育システムを構築したり,トルコ人のアイデンティティーや神話,言語を教え込んだりするための資源も組織も無かったため,クルド人独自の強固なアイデンティティーが,20世紀になって発展したためだという.
 以下引用.

 アナトリアに元々住んでいた大規模な非トルコ民族であるクルド人にとって,事態はもっと複雑だった.ジャコパン主義的な共和国政府は,クルド人自身の歴史的・文化的アイデンティティーを認めようとしなかったのである.
 政府から見れば,クルド人はトルコ民族の中でも後進的で孤立した一種族であり,その文化もペルシャの影響のために,不幸にも数世紀に渡って堕落していた.
 したがって,トルコ共和国はクルド人に真のトルコ人としてのアイデンティティーを与えなければならないが,その方法は近代的なやり方でなければならなかった.
 確かに,多くのクルド人は同化,教育,都市化のプロセスを通じて近代的なトルコ人になった.
 さらに,クルド人のかなりの割合がアラウィー派,すなわち宗教的には反体制派に属し,民族意識よりも宗教を重んじ,同じアラウィー派に一体感を持ちつつも,共和国政府への忠誠心は共有した.

 他方,アナトリア南東部ではクルド人独自の強固なアイデンティティーが,20世紀になって発展を見せた.
 というのも,戦間期のケマル政府には,この地域で効果的な教育システムを構築したり,現地の住民に対してトルコ人のアイデンティティーや神話,言語を教え込んだりするための資源も組織も無かったからである.
 1950年以降になって,トルコ共和国政府がようやく,そうしたプログラムを行える立場になった時には,クルド人の分離主義意識が既に定着していて,それを根絶しようとした動きは大きな反対を招いた.

 結局,帝国の遺産のあらゆる側面を捨て去ってしまったと考えていた国家に,帝国の悩みの種である多民族性が,またしても頭をもたげたのだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.254-255


+

 【質問】
 マハバド共和国とは?

 【回答】
 1946年1月,トルコとイランの国境に沿ったイラン西部に誕生した「クルド人国家」.
 英軍とソ連軍のイラン占領に伴い,クルディスタンへのイラン政府の締め付けが弱まった中での出来事だった.
 その2ヶ月前には,ソ連軍の介入により,イラン北西部でアゼルバイジャン共和国が独立していた.

 しかしソ連軍のイラン撤退に伴い,アゼルバイジャン共和国は同年12月に崩壊,マハバド共和国もイランの軍門に下って消滅した.
 ソ連は,これらの国を支援するより,石油資源を持つイランとの関係を優先したのである.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.255,抜粋要約)


 【質問】
 ムスタファ・バルザニとは?

 【回答】
 1901?-79.
 僧職でもないのにムッラー(宗教指導者)と呼ばれる彼は,クルド人によるマハバド共和国樹立に参画し,共和国崩壊後はソ連に亡命.
 イラクで王政が倒れた58年,バグダッドに戻り,61年から75年まで,5次に渡るクルド戦争を戦った.
 この間の64年,現在のPUK(クルド愛国同盟)党首,ジャラル・タラバニらをイランに追放,後年のKDP(クルド民主党)対PUKの対立の根を作ったのも彼である.

 バルザニは,歴代のイラク指導者と対立したが,話し合いが存在しなかったわけではない.王政を倒したカセム将軍も,バース党政権の実験を握ったフセイン副大統領(当時)も,最初は政権安定のためにクルド勢力との融和姿勢を見せた.
 その交渉が常に決裂し,武力対立に至ったのは,クルド人の自治を巡る双方の思惑が,あまりにかけ離れすぎていたからである.

 最大の問題は,北部キルクークの扱いである.
 歴代のイラク政権は,北部にクルド自治区を作ってクルド語を公用語とすること,あるいは副大統領,副首相といったポストをクルド人に提供することに,依存はなかった.
 しかしクルド勢力は,石油生産の金城湯池,キルクークを自治区に含めることに固執し,交渉は常に産油地帯を巡る綱引で拗れた.
 湾岸戦争後のクルド組織とフセイン政権の交渉にしても,最初は友好的な雰囲気で進みながら,キルクークの扱いで行き詰まり,遂には決裂したのである.

 こうしたイラク政権との対立の中で,バルザニが頼りとしたのは,パーレビ国王時代のイランだった.
 ホメイニ革命以前のイランは,米国の中東政策の要であり,バルザニはイランを仲介として,米国をクルド問題に引きこもうとした.
 実際,イランの巨額の資金援助に加え,米国もクルド人に資金を提供,イスラエルも中東戦争で捕獲したソ連製兵器などをクルド組織に渡していたのは,既に常識となっている.
 70年代における米国のクルド組織支援は,様々な資料や証言で明らかになっている.バルザニに宛てたとされる「H. K.(ヘンリー・キッシンジャー)」の書名入りの手紙も,存在を暴露されている.
 ただ,イラン,米国,イスラエルの援助はあくまで限定的なもので,この3国はイラクの脅威を減殺するためにクルド人を利用していたに過ぎず,クルド人に供与する兵器も軽火器が殆どだった.

 70年代前半から半ばにかけ,イラク軍の攻勢に直面したバルザニは,当時のキッシンジャー国務長官に再三支援を要請する.
 だが,米国は動こうとはしなかった.

 そして75年3月,イランと米国が突然,クルド人を見捨てる日が来る.
 1975/3/5,パーレビ国王とフセイン副大統領との間の会談において,イラクが譲歩する形で,シャットルアラブ川の中央線を国境とすることで両国は合意(アルジェ合意).
 地図を見れば一目瞭然だが,ペルシャ湾に長い海岸線を持つイランに対し,イラクの海岸線は極めて短く,ペルシャ湾に注ぐシャットルアラブ川は,原油積出の上でも極めて重要な水路である.
 その見返りとしてパーレビ国王は,クルド人へのイランの援助停止を約束.

 翌日,帰国したパーレビ国王は,同月11日にバルザニに通告.
「あと30日,イランの国境を開けておく.
 この間にクルド人がイランに入るなら歓迎するし,彼らにはイランで職を与えよう.
 その後に国境は閉鎖する」
と言い渡し,バルザニの側近が抗議すると,
「私の決定を伝えているのだ.議論することは何もない」
と跳ね付けた.
 そのとき,当のバルザニは一言も発せず,黙って国王の下から立ち去ったという.(David A. Korn, "The Last Years of Mustafa Barzani, 「ムスタファ・バルザニの晩年」,ミドル・イースト・クォータリー誌,94/6)

 アルジェ協定は米国にも寝耳に水の決定だった.
 3/6に国王から,クルド人への支援停止の決定を聞かされたリチャード・ヘルムズ駐イラン大使は非常に驚き,直ちに本国に連絡するが,これを聞いたキッシンジャー長官の機嫌は,必ずしも芳しくはなかった.
 だが彼にとっても,この協定は全体としては歓迎すべきものだった.
 親米のイランがイラクと歩み寄ったことは,湾岸情勢安定に大きく寄与する.
 と同時に,米国の中東への影響力が増し,同盟国イスラエルの安全性が高まることも期待された.

 バルザニは同月30日,イラク北部からパーレビ国王の「客人」としてイランに渡った.
 住んだのは秘密警察SAVAKが用意した家であり,事実上の軟禁だった.

 この頃,ヘビー・スモーカーの彼は肺癌に冒されていることが判明.
 彼はイランの病院ではなく,米国での精密検査を望んだ.検査の訪米を利用し,キッシンジャーら米当局者に窮状を訴えたいと考えたのだろう.
 同年8月,バルザニは渡米するが,検査の結果,手術しても意味がないほど症状が進んでいると判明.
 また,米当局者が彼と会うのを避けていることにも,彼はショックを受ける.

 バルザニは失意のまま,1979/3/3,療養生活中の米国で死去.
 しかしその数週間前,イラン革命が起こり,パーレビは失脚する.
 同年,イラクではフセイン副大統領が大統領に就任.
 翌年,イラクはアルジェ協定を破棄してイランを空爆,8年間に及ぶイラン・イラク戦争が始まる.
 これにより,クルド人の闘争は振り出しに戻ったのだった.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.256-256,抜粋要約)


 【質問】
 トルコのクルド人問題に対する対応は,どのようなものか?

 【回答】
 トルコはクルド人を「山岳トルコ人」と呼び,「クルド問題は存在しない」という立場である.
 そして,過激派のPKK(クルド労働者党)の掃討作戦をエスカレートさせている.
 1996年10月の政府発表によれば,84年からのトルコ政府軍とPKKとの戦闘で2万人以上が死亡している.
 95年からはトルコ空軍機による攻撃が,イラク領ないのPKK拠点に対して頻繁に行われるようになった.

(布施広「アラブの怨念」,新潮文庫,2001/12/1,P.276,抜粋要約)

 クルド人としては,どのような将来を望むのか?
 まず,その点を国際社会に向かって明瞭に語ることから始めなければならない.

(同,p.77)


 【質問】
 トルコ・クルドの分離帯構築案とは?

 【回答】
 2008年10月22日付,「中東Today」によれば,クルド自治区のマスウード・バルザーニ議長は,トルコ側がPKKの攻撃を抑えるために,クルドとの国境地帯に,安全のための分離帯を,構築することを認めたという.
 また,クルド自治政府とテロ組織であるPKKを,完全に別個のものとして受け止めることも条件に含まれているという.

 アメリカ軍が大幅にイラクから撤退するようなことになれば,クルド人の安全は脅かされる危険性が高まるため,そのような危険な状況に陥る前に,クルド側はトルコとの良好な関係を,構築しておきたい,ということであろう,と同ブログでは推測している.
 そうなると,クルド自治政府やイラク軍の中のクルド将兵が,PKKに対する厳しい対応をとり始め,PKKはイラクのクルド領内から,自由な戦闘をトルコに対して行うことが,困難になり,そうなった場合,PKKは都市型テロを,主な戦術として選択していくかもしれない,と同ブログでは憂慮している.


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