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(画像掲示板より引用)


 【link】

「Togetter」◆(2013/05/11) 曹操と曹騰の間に挟まれた謎の人物曹嵩

「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【序章】

「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【第1話,第2話】

「あんそく」:やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです 【第3話】

原田実 in twitter (2012/07/20)◆
 宦官で色目人の手柄は国の恥ということで,著書まで焼き捨てられたのに.
@yamamoet 最近の中国人は海に関心を持ち鄭和を持ち上げるけど,彼がイスラム教徒だって知らないのだろうか?
 インド洋圏を千年に渡って支配してたのはイスラム教徒であって,決して中国人じゃない^^;

「北京東京趣聞博客(ぺきん・とうきょうこねたぶろぐ)」◆(2010/06/16)ウーアルカイシ氏の望郷

●三国志

「D.B.E. ミニ型」「三国志」の英雄・曹操の墓発見…中国テレビ報道
>中国だからどうか… などという偏見混じりで見たものの,結構マジっぽい感じ?

D.B.E. ミニ型」:諸葛亮

D.B.E. ミニ型」:中国で銃器約188万丁など押収
>押収したのは,このほか軍用銃弾385万発,雷管1317万個,放射性物質2176個など

D.B.E.三二型」:【三国志】もしも馬謖が 松岡修造だったら 【泣いて馬謖を斬る】

D.B.E. ミニ型」(2010/10/16)◆(情報元everything is gone) 横山三国志の「むむむ」を全て集めてみた

「SLPY」:曹操喫茶って絶対売れると思うんだ・・・

「SLPY」:特攻の拓風に三国志を語るスレ

「VIPワイドガイド」:りょ・・・・・呂布だー!!呂布が出たぞー!!!!うわー!!」

「朝目新聞」関係ないAAに三国志の台詞を喋らせるスレ  (of SLPY)

朝目新聞」●日中で違う三国志についての認識 曹操編  (of 「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む /by D.B.E三二型)

朝目新聞」(2010/09/30)●暇だから孔明ん家と赤壁行ってきた

「おはようwwwお前らwwwwwwww 」:三国志の時代に2ちゃんがあったら立ちそうなスレ

「戦国・三国ちゃんねる」:実は三国志で一騎打ちなんてやってないんだよバ~カ

「メガとんトラック」◆(2010.2.21)「日中文化交流」と書いてオタ活動と読む:日中で違う三国志についての認識 呂布編 - livedoor Blog(ブログ)

●書籍

『五胡十六国〔新訂版〕』(三崎良章著,東方書店,2012/11)


 【質問 kérdés】
 陳勝・呉広の乱って何?
Mi Chen Sheng Wu Guang lázadás?

 【回答 válasz】
 BC210年7月,秦朝に対して陳勝と呉広が,北境防備のために徴発された900人の兵卒を率いて起こした反乱であり,中国史上初めての農民反乱.

 陳勝は陽城 (河南省登封県)の貧家の生まれの雇農,呉広は陽夏 (河南省太康県) の人.
 陳勝と呉広の2人は漁陽の守備に徴発されたが,大雨のため,力役の場所への到着期限に遅延.
 期を失すれば斬罪が秦の掟であったから,斬罪に処せられるよりも死を覚悟して名声をあげようと2人は兵卒たちを説得.
 そのときの
「王侯将相寧(おうこうしょうそういずく)んぞ種(しゅ)あらん乎(や)」
という言葉は有名.
 陳勝は始皇帝の長子・扶蘇,呉広は楚の名将・項燕と偽って人心を掌握.
 秦の圧政に苦しんでいた貧民を糾合してその勢数万となり,それぞれ陳王,仮王を称し,陳勝は「張楚」国を建て,部将を各地に派遣して勢力を拡大.
 しかし内紛を起し,翌年12月,呉広に続いて陳勝も臣下に殺害された.

 だがこの乱を機に項羽,劉邦らが兵をあげ,秦滅亡の端緒となった.

2022.2.24


 【質問】
 陳勝・呉広の乱はなぜ大きな叛乱となったんですか?

 【回答】
 当時,秦では労役の召集期限に遅れたら理由に関わらず死刑,というめちゃくちゃ過酷な体制をとっていた.
 陳勝と呉広の率いていた部隊は目的地への途上,水害に遭って,期日に間に合わないことが確実となった.
 二人は「どうせ殺されるなら,戦ってやる」ということで部隊を率いて反乱を起こした.

 それに,陳王の部隊は元六国の民で,元から秦に忠誠も誓ってなければ,秦軍として登用されていたわけでもない.
 それに当時は,国家に対する忠誠心で戦うという概念がほとんどなくて,基本的に直属の将軍に従うという私兵の集まりに近い集団だった.
 陳王も,自分個人への忠誠心を高めるため,いろいろ小細工をしている.

世界史板


 【質問】
 中国の反乱の歴史見てるといつも思うんですが,通信設備が未整備の時代に,あれだけでかい国の中で,どうやって反乱に呼応して蜂起したりできるんですか?
 陳勝の乱,黄巾の乱,紅巾の乱,太平天国等々,一斉に蜂起している気がするんですが…

 【回答】
 陳勝・呉広の乱は場合は呼応してる訳じゃなく,単にキッカケに過ぎない.
 元々,不平不満が募っていたから便乗,各地で爆発しただけ.

 大体は発生した周囲のみでまず同調勢力を吸収して,プロパガンダを流して遠くの勢力も同調させるパターンが多いかな.
 陳勝や黄巾,太平天国などどれも一枚岩じゃなくて,混乱を聞きつけた各地の軍閥などの勢力が混乱に乗じて勝手に名乗ることもあるし.

 黄巾の乱,紅巾の乱とかは宗教ネットワークで繋がってたからな.
 檄文飛ばしたり,色々根回ししていた.
 まあ,こちらも勢いに便乗してる勢力も多々いる訳だが.

 つまり,表面上全土で100万人の一斉蜂起!だとしても,内部では反乱のお題目だけ頂戴して好き勝手やってる地方勢力が多いってこと.
 これなら別に反乱軍の首魁が反乱の申し合わせをするわけじゃないので,それほど通信が発達してなくともどうになかる.

 あと,全く通信設備が未整備って訳ではない.
 公的じゃなくても裏社会で結構ネットワークが完成してたりするし,それに少なくとも秦代にはそこそこ通信設備が整っていたはず.
 さすがに華北と華南で同一勢力が呼応して反乱することはない.

世界史板
青文字:加筆改修部分

猫の乱
(作・ミリグラム)


 【質問 kérdés】
 章邯って誰?
Ki Zhang Han?

 【回答 válasz】
 秦末期において,陳勝・呉広の乱に対峙した将軍.

 九卿の末席である少府を務めていた.
 生年を含めてそれまでの過去は不明.

 紀元前209年9月,陳勝・呉広の乱にて,周文(周章)率いる反乱軍が函谷関を突破し,都の咸陽付近まで迫って来た時に,始皇帝の陵墓で働いていた囚人20万人に武器を与え,これを反乱軍に当てるという策を献じ,自らその軍を率いた.
 戦功を挙げれば罪が許される囚人たちは決死の兵となり,周文の軍を打ち破り,周文を澠池で自決に追い込んだ.
 次いで内訌で呉広を殺害した田臧・李帰らを討ち取り,鄧説を破り,斉王田儋と元陳勝配下で魏の武将である周巿を臨済で戦死させ,魏王の魏咎を焼身自害させ,許にいた伍徐も撃破した.

 さらに,司馬欣・董翳率いる援軍と合わせて陳勝の本拠地である陳を攻撃.
 紀元前208年,陳の西方で張賀の軍を破り,陳勝を敗走せしめた.
 同年には次に,項梁の軍勢に対して章邯は,偽りの敗走を続けて侮らせ,項梁を死地に誘い込み,夜襲をかけて項梁を討ち取った.
 次いで趙の反乱軍攻略に移り,邯鄲の都を破壊した後,王離・蘇角・渉間に趙歇と張耳の籠る鉅鹿を包囲させた.
 だが紀元前207年,援軍にやって来た項羽の前に蘇角が戦死し,渉間が自決を遂げ,王離が捕虜となる.
 次いで項羽は章邯軍へと一気に進軍し,秦軍は連敗を重ねる.
 章邯は司馬欣を都に送り,皇帝に指示を請うが,逆に宮中の腐敗や趙高によってあらぬ罪を着せられ家族が処刑されたことを知った司馬欣に,
「功を立てても誅殺され,功を立てなくても誅殺される」
と言われ,殷墟で将兵と共に項羽に降伏した.

 この際,章邯・司馬欣・董翳の3名を項羽は助命したものの,同時に降伏した20万の秦兵の叛乱蜂起を憂慮した項羽は,彼らを坑殺.
 章邯ら3人は,後にこのことを知った秦の民から深く恨まれることになった.

 章邯は楚軍に参加.
 秦滅亡後,項羽は秦を3つに分割し,章邯を雍王に,司馬欣を塞王に,董翳を翟王に封じた.
 このことから彼らは「三秦」と呼ばれた.
 この人事は漢中の劉邦を監視し,巴蜀の辺境に死ぬまで封じ込める目的であったが,万単位の同胞を殺戮されながら三秦はその張本人である楚の名代として舞い戻ってきたとして,秦人の憎悪をかき立てた.

 紀元前206年8月,劉邦配下の上将軍韓信の部隊が関中に侵入すると,散関を守備する章邯の弟の章平は,姚卬とともに好畤で迎撃して漢将紀信を討ち取るも,結果的に敗れて好畤を包囲され,章平は姚卬とともに逃亡.
 廃丘にいた章邯は籠城して抵抗するが,水攻めに遭い,わずかの手勢を率いて桃林に脱出.
 前205年,章邯は韓信の追撃を受けて自害(ただし捕虜になったとする文献もあり).
 章平も捕虜にされたという.

2022.5.6


 【質問 kérdés】
 項羽って誰?
Ki Xiang Yu?

 【回答 válasz】
 劉邦と最後まで覇を争った秦末の群雄(前232―前202).

 戦国・楚の将軍の血筋をひき,下相(江蘇省宿遷県)で生まれた.
 幼くして孤児となり,叔父の項梁にひきとられて教育をうけ,兵法を学び,会稽に住んだ.
 前209年,陳勝らが兵をあげると,項梁とともに挙兵し,会稽の兵 8000人を率いて,江を渡って北上.
 梁の戦死後は諸将のリーダーとなり,楚の懐王の孫・心を立てて楚王とし,章邯の率いる秦軍と戦ってこれを破り,さらに西進して関中に入り,秦の王子嬰を殺し,咸陽を焼払い,懐王を義帝とし,みずからは西楚の覇王と号した.
 また,一足先に関中に入っていた劉邦らを諸侯に封じた.
 しかし項羽は部下18名は王に封じたにも関わらず,劉邦は王に封ぜられなかったので,これを不満として挙兵.
 以後5年にわたって項羽は劉邦と争った.
 項羽はしばしば劉邦を死地に陥れたが,前202年,逆に垓下 (安徽省霊璧県) にて包囲され,愛姫虞美人との別離を悲しむ絶唱を残して自刃.




2022.3.10


 【質問 kérdés】
 項羽十八諸侯って何?
Mi az Tizennyolc királyság?

 【回答 válasz】
 項羽が秦を滅ぼした後,項羽によって封建された18人の王の呼称.
 このいわゆる十八王は,対秦戦争において項羽に何らかの形で貢献した人物13人と,この時点で既に王を称していた5人.
 この十八王の国に加えて項羽自身が支配する西楚と,義帝と尊称されることになった楚懐王直轄領の2つが置かれ,かつての秦帝国の領域は20の王国に細分化された.

 BC206年1月に決められ,諸侯は4月になってから封地に赴いた.
 しかし早くも5月に斉において反乱が起き,諸王たちは封地に着いた時から能動的あるいは受動的に争い事に関わることになり,ここから項羽政権は崩壊の一途を辿ることになった.

1枚目:西楚覇王と十八王の一覧
2枚目:項羽と十八王の配置

(図No. faq220331cn1~2,こちらより引用)

2022.3.31


 【質問 kérdés】
 英布って誰?
Ki Ying-bu?

 【回答 válasz】
 秦末漢初の武将.

 生年不詳.
 法に触れ,黥刑(いれずみの刑)を受けたため黥布 (げいふ) とも呼ばれる.
 刑徒として秦の驪山 (りさん) 造営に送られる途中,逃亡して群盗となる.
 陳勝が蜂起すると彼も挙兵し,番陽 (はよう.現・江西省鄱陽県) の令の呉芮 (ごぜい) の娘をめとって項梁の軍に属し,将として功を立て,秦が滅びると九江王に封ぜられ,項羽十八諸侯の一人となった.
 しかし楚漢の戦いでは項羽に味方せず,のち漢に属して淮南王に封じられた.
 その後,やがて謀反の疑いを受け,BC195年,討伐されて死亡.

2022.3.30


 【質問 kérdés】
 虞美人って誰?
Ki Yu mei-ren?

 【回答 válasz】
 項羽の寵姫.

 生年不詳.
 『史記』の僅かな記述によれば,虞は常に項羽軍中に従っていたという.
 なお,「美人」は女官の官職名.
 BC202年頃に起きた垓下の戦いにおいて,漢軍が楚の歌をうたうのを聞いた項羽は,故郷が漢に占領されてしまったと思い,別れの酒宴を設け,名馬・騅 (すい) や虞に対する別離の詩を作ってともに歌った.
 そして,虞は項羽の足手まといにならぬよう,頸部を切って自殺したと伝えられているが,『史記』には自殺の記述は無い.

 のちに虞美人曲が作られた他,彼女の鮮血が化して草花になったという虞美人草の伝など,いくつかの伝説が生れた.


2022.3.19


 【質問】
 劉邦は朱元章と同様,最下級身分から成り上がった,という記述があったのですが,貧農で家族が餓死し乞食となった朱元章は分かりますが,劉邦は何者ですか?
 唯の農民が,配下を集めて反乱は困難ですよね?
 中華では農民が最低身分なんですか?
 劉邦は『丁長』だかそんな役人という記述も見たのですが,それなら全然最下級じゃないじゃないですか?

 【回答】
 劉邦は豪農.
 唯の農民でも,配下を集めて反乱を混乱時のどさくさまぎれになら起こせる.
(陳勝・呉広の乱)
 他に農民じゃないが,塩の密売人の黄巣や駅夫の李自成も反乱を起こしている.
(黄巣の乱・李自成の乱)

 それと,沛では劉邦は仲間に担ぎ上げられた.
 いざとなったら劉邦に全てなすりつける為.
 亭長は簡単に言えば,町の町内会長レベルの役人で,なる事はそんなに難しくは無い.

 最低身分つーか下層階級の農民から皇帝にまでなった人物は,歴代統一王朝の中で劉邦と朱元章ってだけで,農民より下の身分は存在するし,後趙の石勒のように,奴隷から統一王朝じゃないが皇帝にまで登り詰めた人物も存在する.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 韓信って誰?
Ki az Han Xin?

 【回答 válasz】
 漢の高祖・劉邦の功臣で,張良,蕭何とともに漢の三傑といわれる.
 淮陰(現・江蘇省淮陰市南)出身だが生年不明.
 無名のころは,家が貧しくて寄食暮しをしていたが常に大剣を帯び,それを臆病者と侮辱されてもよく耐え,若者の股の下をくぐった逸話がある.
 秦末の反乱がおこると楚の項羽に従ったが重用されず,不遇を不満として劉邦に仕えようとした.
 その際,危うく斬られそうになったが,重臣・夏侯嬰にみいだされて救われ,さらに蕭何の推挙で大将に任命された.
 BC206年,項羽の都・彭城を襲った劉邦が危機に陥るや,それを救い,漢の別動隊として,趙,燕,斉の地を平定.
 斉王に封ぜられ,楚・漢と並んで天下を三分する優位に立ったが,劉邦に対する忠誠をまもり,項羽を追いつめて漢を勝利に導いた.
 漢の中国統一後,楚王に封ぜられたが,のち淮陰侯に左遷.
 BC196年,反逆の疑いをかけられ,呂后に処刑された.



2022.2.6


 【質問 kérdés】
 蕭何って誰?
Ki az Xiao He?

 【回答 válasz】
 劉邦の功臣であり,韓信・張良とともに漢の三傑の一人.
 沛県(江蘇省)出身だが生年不明.
 法令に通じており,秦朝において沛県の主吏掾(しゅりえん)という下級官吏となるが,早くから無名の劉邦の擁護者に.
 劉邦が興起して沛公となると,従軍して庶務を担当.
 咸陽入城のときは,真っ先に秦の宮室に入って律令図書の類を押収した.
 これにより劉邦は,土地の険要,戸口の多少,人民の疾苦する原因など天下の情勢を詳細に知ることができたといわれる.
 劉邦が漢王となると丞相に任ぜられ,韓信を大将軍に推挙.
 項羽と対決した楚漢戦争では,関中にとどまって経営し,兵糧や兵士の補給に努めて功績があった.
 漢成立後,功臣中第一に推されて酇侯(さんこう)に封ぜられ,また,丞相,次いで相国に任命.
 秦の法制をもとに九章律を作り,王朝の基礎を固めた.
 BC193年,没.

2022.2.5


 【質問 kérdés】
 張良って誰?

 【回答 válasz】
 前漢創業の功臣.
 新鄭(河南省)の人(生年不明).
 字(あざな)は子房.
 韓の貴族の出身で,秦の始皇帝の暗殺に失敗して逃亡中,橋の上で黄石(こうせき)公に太公望の兵法の書を授かったという逸話は著名.
 その後,劉邦の作戦の中枢となって秦を滅ぼし,さらに鴻門(こうもん)の会では劉邦を危急から救うなど活躍.
 蕭何(しょうか),韓信とともに漢創業の三傑といわれた.
 漢の統一後は留侯に封じられ,BC168年没.

2022.1.13


 【質問】
 張良は劉邦の配下としてすごく活躍したのに,なぜ彼は劉邦の死後,ショウカやソウサンみたいに出世しなかったのでしょうか?

 【回答】
 保身のためと考えるのが妥当だろう.
 張良は,劉邦や呂后の性格をよくわかっていたし,また,たとえば呉が楚に勝った後に伍子胥がどんな運命を たどったか,越が呉に勝利した後に范蠡どうしたかなどの,歴史知識も当然あった.
 だから彼には,この先,漢王朝創業の功臣達,その中でも特に,後から加わったいわば外様の家臣たちが,やがてどうなるか,容易に予測できた.
 劉邦に疑われたり,呂后に嫌われたりしたら最後だ.
 だから,「狡兎死して走狗にらる」ことにならないよう,先手を打って事実上隠遁し,
「自分は老荘思想に傾倒しているので,世俗的な権力欲はありませんよー,無害な存在ですよー」
とアピールすることで保身した.

 張良は呂雉の複雑さをよく知ってたから,呂雉が自分を頼ってくるように仕向けたとも考えられる.
 呂雉は,蕭何や曹参のような沛県勢力ではないし,張良自体も,韓の新鄭の出身で「親藩」の沛県勢力ではない.
 保身を図るためには,いろいろ考えがあったのかと思うが.

世界史板,2010/05/27(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 呂氏の乱って何?
Mi a Lü klán zavara?

 【回答 válasz】
 前漢初期の紀元前180年,劉氏政権を擁護する一派が呂氏一族を誅滅した事件.
 BC195年の高祖・劉邦死後,恵帝が死ぬと生母の呂太后は摂政となって,後宮の子の少帝恭,少帝弘を帝位につけ,親政を開始.
 そして高祖の遺訓にそむいて呂産,呂台,呂禄,呂通を王とし,6人を列侯に封じ,さらに呂産を相国,呂禄を上将軍とするなど政治権力を独占していた.
 BC180,呂太后が没すると,呂産らは誅されることを恐れて乱を企てたとされた.
 これに危機を感じた劉章,劉襄らは,呂后死後,直ちに挙兵.
 宮中にて近衛軍の兵権を握った,高祖の功臣・陳平,周勃,灌嬰らと共に呂氏を攻め,その一族を族滅.
 この事件後,代王・劉恒(高祖の次男)が迎えられて即位し,文帝となった.

2022.2.27


 【質問 kérdés】
 文景の治って何?
Mi az "Wen és Jing Uralkodása"?

 【回答 válasz】
 前漢の文帝・景帝の統治期間(紀元前180年 - 紀元前141年)で,前漢の最盛期の基礎を築いたとされる仁政.

 漢初は秦末期以来の戦乱によって社会経済は衰退しており,朝廷は国力の充実を図るために黄老治術を採用,民力の休養と,賦役の軽減を柱とした政策を実行した.

 文帝は農業を重視し,数度にわたり農桑振興を命.
 また,一定の戸数に三老・孝悌・力田を選抜し,彼らに賞賜を与えることで農業生産の向上を図った.
 さらに二度に渡って田租の半減を実施した後,紀元前168年には田租の全免を実施.

 これとあわせ,周辺少数民族に対する軍事行動を抑制するための和平政策も実施した.

 文帝自身の生活も質素に努め,宮室内の車騎衣服も最低限のものとし,衣服も過度に長いものを禁じ,帷帳にも刺繡を行わないなどの徹底した倹約を行った.
 また,諸国に対し献上品の抑制を命じた.
 これにより貴族官僚の奢侈を抑え,民衆の生活を向上させた.

 景帝も基本的に文帝の政策を継承して,消極外交と倹約に努め,また,重農政策を打ち出して減税に取り組んだ.

2022.2.28


 【質問 kérdés】
 呉楚七国の乱って何?
Mi az hét állam lázadása?

 【回答 válasz】
 前漢,景帝の時代の紀元前154年,呉王・濞(び)を謀主とし,楚王・戊(ぼう),膠西王・卬(こう),膠東王・熊渠(ゆうきょ),菑川(しせん)王・賢,済南王・辟光,趙王・遂(すい)ら,劉氏の宗族が朝廷に対して起こした反乱.
 漢の高祖は劉氏一族や功臣など諸侯王を各地に封じ,郡県制と併用して郡国制をしいたが,その末年には,異姓の功臣諸侯は高祖劉邦の在世中にほとんどとりつぶされた.
 そのため第5代の文帝代には,残った劉氏の諸侯勢力が強大となり,中央集権策をとる朝廷にとって障害となってきた.

 第6代の景帝代になって,法家思想をもつ鼂錯(ちょうそ)が用いられ,分権的な諸侯を統制.
 王国の削弱策として「推恩の令」を立案,実行に移した.
 この政策実施中の前155年,楚王,趙王の有する領土のうち各1郡と膠西王のもつ6県が削られ,呉王もまた2郡を削る通知を受けた.
 諸王はこの措置を不服として反乱を決意.
 前154年,呉王がまず反乱を起こし,他の6王がこれに続き,南越や匈奴もこれに荷担した.
 朝廷は周亜夫,欒布(らんふ),竇嬰(とうえい)ら有力な将軍を派して鎮圧に努めたが,諸王の力は侮りがたく,ために政府は鼂錯を責任者として処刑し,諸王の慰撫に努めたが成果はなかった.

 だが,戦術にたけていた周亜夫が呉王を破るに及んで,漢朝の優位が決まり,約 3ヵ月後には乱は鎮圧された.
 以後,諸侯王の領土は削られ,また,封地は細分化され,種々の禁令が設けられて,王とは名のみで,租税を徴収するだけになり,郡県制が発展していった.

https://www.youtube.com/watch?v=o9v3iySUoho

2022.3.5


 【質問 kérdés】
 漢の武帝って誰?
Ki az Han Vu-ti kínai császár?

 【回答 válasz】
 武帝(BC156~BC87)は前漢第7代の皇帝(在位BC141~BC87)で,高祖劉邦の曽孫.
 16歳で即位したため,即位当初は,竇(とう)太后(文帝の皇后,景帝の生母)の支持した道家黄老が優勢であった.
 竇太后の死後,黄老刑名および百家の言をしりぞけ,朝廷に文学・儒者数百人を招くなど儒家進出の基盤を成立させ,董仲舒(とうちゆうじよ)の対策により儒教を国教化.
 官学化し,朝廷に五経博士を置くとともに,孝廉など郷挙里選の法を実施した(異説もあり).
 一方で,中央集権に力を入れ,酷吏を用い,巫蠱の獄などの恐怖政治を敷いた.
 外交面では匈奴を撃破し,東西交通の道を開いた.

2022.2.11


 【質問 kérdés】
 宣帝って誰?
Ki az Xuan császár?

 【回答 válasz】
 宣帝(BC91~BC49)は前漢の第9代皇帝(在位BC74~BC49).
 姓名は劉詢(りゅうじゅん)と言い,戻(れい)太子の孫,武帝の曾孫にあたる.
 生後数ヵ月で巫蠱(ふこ)の乱に連座して獄につながれたが,大赦に遭い,廷尉(ていい)・邴吉(へいきつ)らの手でかくまわれ,18歳のときまでひそかに民間で養われていた.
 18歳のときに廃帝・劉賀の後をうけ,霍光に擁立されて即位.
 霍光死後,外戚となっていた霍氏一族を滅ぼして親政.
 儒教を統治の方針としたが,地方監察制度の整備など内政を改革.
 前漢の武帝時代から整備された郡県制と官僚的地方行政の充実をはかり,また,信賞必罰や酷吏の登用などを行った.
 また,外政では漠北の匈奴を分裂に追い込み,南匈奴の日逐王や呼韓邪単于(こかんやぜんう)を服属させる.
 さらに,烏孫と連携して西域に進出,西域諸国との通商路の確保のため西域都護を設置した.
 現在では中興の帝と評されている.

2022.2.3


 【質問 kérdés】
 哀帝って誰?
Ki Ai császár?

 【回答 válasz】
 前漢末期の第12代皇帝(在位前7~前1)

 BC26年生まれ.
 定陶王・康の子で,元帝の孫にあたる.
 3歳で定陶王を継ぎ,嗣子のなかった成帝(元帝の子)にみいだされて,その後を継いだ.
 在位中,土地所有額の制限などの改革を試みるが,反対にあって実施されなかった.

 臣下に対しては丞相である朱博,王嘉を自殺させるなど厳しい態度で臨み,丞相を廃止して三公制へ移行.
 後の新・後漢で実施された三公制の祖形を生み出した.

 また,傅氏,王氏らの外戚が勢力を争う状況の中,哀帝は男色を好み,特に寵愛した董賢に惜しみなく財宝や称号を与え,BC2年12月には大司馬に昇進させた.
 さらに,董賢の妻や妹にまで特権を与えたのみならず,王閎に反対されて取りやめたものの,董賢に禅譲しようとまでも考えていた.
 男色を意味する「断袖」という語は,董賢と一緒に寝ていた哀帝が,哀帝の衣の袖の上に寝ていた董賢を起こさないようにするため,衣を切って起きた,という故事に基づく.

 BC1年6月27日,25歳で死去.
 嗣子がなかったため,死に臨んで皇帝璽綬を董賢に託したが,太皇太后・王氏は詔を発して董賢を罷免し,璽綬も奪取.
 董賢はその日のうちに自殺した.
 太皇太后は王莽を大司馬に任命し,のちに新を建国する王莽の活躍する道を開いてしまった.

2022.3.5


 【質問 kérdés】
 王莽(おうもう)って誰?

 【回答 válasz】
 新朝創始者.

 BC45生まれ.
 前漢元帝の王皇后の庶母弟・王曼の子.
 王皇后の子の成帝が即位すると,兄弟は外戚として威をふるったが,王莽は父が早く死んだために孤貧のなかで育った.
 しかし儒学を学び,家では母や寡婦となった兄嫁によく仕え,兄の遺児を養い,外では俊才と交わり,父の兄弟たちにも誠意を尽くすなどしてしだいに人物を認められた.
 大将・軍王鳳の推挙によって黄門郎として仕官したあとは順調に昇進し,BC16年には新都侯に封ぜられ,
 BC8年には38歳で大司馬となった.

 のち,平帝を毒殺し,幼帝・嬰を擁立して自らはその摂政となる.
 AD7年,劉嬰を退けてみずから真皇帝と称し(在位7~23),国を新と号した.
 このときの政権奪取の方法は,中国史上初めて禅譲革命の方式を現実化したものとされる.
 彼は五経の一つ『周礼』を信奉して復古主義を唱え,新の制度はこの書に範をとり,周代初期の古制の復元をめざした.
 すなわち土地はすべて王田とし,土地や奴婢の売買を禁じ,五均・六かんの制によって商人を押え,専売を行い,物価を統制した.
 このため経済が混乱し,また周辺民族にも中華思想を振りかざして対処したので,赤眉の乱などの農民叛乱,これに続く南陽の劉秀(後の後漢の光武帝)を代表とする豪族反乱など,国の内外からの反乱を招いた.
 23年,長安城内の未央宮(びおうきゅう)において,更始帝軍に刺殺された.

2022.3.2


 【質問】
 中国の新(8~23)の時代に起こった赤眉の乱で,眉を赤く染めたのは自軍と敵軍とを区別するため,漢を表す色の赤を塗った,と本で読みました.
 しかし,後漢のときに起こった黄巾の乱では張角が
「蒼天(漢王朝)すでに死し,黄天(黄巾軍)まさに立つべし」
と唱えています.
 ここでの漢の色の違いはどこから来るのでしょうか?
 おそらく,陰陽五行説からきているのではないかという意見がありますが,よく分かりません.
 どなたかわかりませんか?

 【回答】
 五行における色の対応は, 火:赤 水:黒 金:白 木:青 土:黄

 漢は最初水徳だとしていた.
(三皇五帝→夏→殷→周→秦と続き,秦が永遠に続く…として始皇帝は水徳を名乗った.漢はそれをそのまま継承した)

 後に,この後はまた最初に戻るとされ,それで土徳になった.
 元々の伝説関係の由来から,漢は火徳にもゆかりがあった.
 というわけで,漢王朝が何徳の王朝かは見解が色々ある.

 他方,蒼という字には年老いたという意味があり,黄という字には若いという意味がある.
 張角は新王朝樹立の意思表明をしただけ,という説もあったり.

 ちなみに宋王朝の時には,王朝内部で「宋は何の徳を祭るべきだ」のような議論がなされたりもしてます.
 国の重要な職務とされた祭祀の問題で,それに政治的な意図も加わって色々あったようです.

 また,眉を赤く染めたのは,たまたま赤い染料が大量にあったからで,漢王朝の色とは関係ないと言う話もあるんだけどね.
 もし青や他の色だったら赤眉の乱ではなく,青眉の乱とかと呼ばれていたかも知れない.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 殷の時代の中国人は白人っていうのは本当ですか?
 あと漢民族は漢王朝とともに消滅したらしいのですが,今いる連中となにか差異はあるの?

 【回答】
http://sayer.lab.nig.ac.jp/~saitou/japanese/human.html
ここの<第12回春秋戦国時代に欧州人?>って記事のことかな.

 白人も当然居たはず.
 紀元前6000年~3000年の間に絹の製法という秘匿技術が開発され,その交易があったからね.
 ただ,全員が白人という話ではないでしょ.

 殷の人々は白人かどうかは分からないけど,元々中原の民では無いと言われてるな.
 あと中華は多民族の寄り合い所帯.
 中原と呼ばれる地域に後から後から周りの地域が進攻.
 進攻した側が中原に合併・吸収され,始皇帝統一の時の領域が中華の元となった.
(秦・楚・燕・呉越は元々は外国だった)

 その後さらに他の地域も併合されて,清代には現在の中華人民共和国の領土とほぼ同じ大きさになって行った.
 秦の後を受け長期統一王朝を樹立したから,また塞内に住まう民族を漢民族と呼ぶ様になったと思う.

 しかしこの漢民族と言う括りも,五胡の流入に依り崩壊.
 民族が対立するのは元々,全然関係ない民族の寄り合い所帯なのと,塞外の異民族流入(流入した異民族も多くは漢化して同化するし).
 南船北馬と言う言葉がある様に,地域に依って習慣,風習,食物etcが全然違うからで,しかも力で無理やり抑えて統一しているのが段々と緩んでくるから.

 それに中華の歴史は裏切り,騙し合い,集合離散,破壊と創造の繰り返しだからな.
 寧ろ上手いこと治まってる状態を維持する方が難しい.

世界史板
青文字:加筆改修部分

▼※
>しかしこの漢民族と言う括りも,五胡の流入に依り崩壊.

という部分は,かなり不足しているものと考えます.
 この回答者は,おそらく,西晋の崩壊時あたりを想定して,「五胡の流入」という表現を使っているものと推察致しますが,この時代,既に匈奴や鮮卑,(テイ)族などはその領域内に漢族と共に居住しておりました.
(テイ)族は「斉万年の乱」を起こしています)
 例えば,太原では匈奴と漢族の混淆が進んでいたことがわかっています.(晋書 匈奴伝)

 晋の江統は,こうした領域内に居住する異民族を,塞外の地に強制移住させ,以て治安の安定を図ろうとしました.これを徙戎論と言います.

http://www.3guozhi.com/zaka2/ss2.html
こちらのサイトで訳されていますが,『關中之人百余萬口,率其少多,戎狄居半』とありますように,その数は無視出来るものではありません.

 つまり,「五胡の流入」と言うよりは,当時,既に晋の領域内に居住していたこれらの民族が,傭兵として八王の乱のときに活躍したり,反乱を起こしたりしたわけです.

●=「低」の右側

名無しルーデル神教教徒 in FAQ BBS,2011/6/9(木) 12:55
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 古代中国の墨家はあらゆる分野の最新の技術と科学を研究し,依頼があれば誰にでも無償で軍事の指導を行っていたと言われていますが,無償で軍事指導をしていて,どうやって研究費を捻出していたんでしょうか?

 【回答】
 墨家の開祖墨子が工匠であることに象徴されるように,元々墨家は職能氏族の集団(ギルド)をベースとしてできたもの.「墨」が指す本来意味は建築,築城の専門集団と言われてる.「墨」は大工が持つ墨壷(墨糸で線を引くもの)から来ている.
 活動の根源は宗教の例にもれず,信徒等からの寄進・布施が主体だが,質素を旨とする教義形態から,それ程大きな予算は必要ではなかった.
 また,特徴として特に農工業分野での技術指導を行うことで,
信徒の経済的な底上げ→信徒と寄進増
のスパイラルができていた.
 墨家はかなり広大な本拠地(名称失念)を持ち,そこで自給自足していた.
 戦闘部隊から,農耕,薬品,動物や虫を操る専門家までがいたそうな.

 初期の技術的優位性は主に各国・地域の技術を収集・応用することで,中期以降はこれに加えて信徒の優秀な子息を集め育成することによる.
 それと,軍事指導は防衛戦・策に限定されていた.
 但し,末期には兼愛・非攻を実現する為には強力な中央集権体制による統一が必要,として教義を変更し,奏・漢帝國の成立に協力する.
 漫画の「墨攻」は,この中期末~末期初を描いてる.

軍事板

 なお,漫画の「墨攻」ですが,あれはもともと酒見賢一氏の同名の小説の漫画化です.
 そんで小説版からして作者の創作てんこもり(なにしろかの「後宮小説」の作者ですから)な上に,漫画版はさらに脚色が加えられているので,この作品の名前をあげるのはどうかなあと思ったり.
 いや,抜群に面白いのでぜひ読んでもらいたくはあるのですけれども.

唯野 in mixi支隊


 【質問 kérdés】
 光武帝って誰?
Ki az Guangwu kínai császár?

 【回答 válasz】
 後漢の初代皇帝(在位25年―57年).
 前漢の恵帝の末裔で,名は秀.
 22年,挙兵し,23年,王莽(おうもう)を滅ぼす.
 25年,帝位について漢朝を復興.
 36年,天下を統一.
 豪族と協力しつつ統一を進め,内治に意を用い,儒学の礼教主義を確立した.
 対外的には徴 (チュン) 姉妹の反乱(ヴェトナム)を鎮圧し,南匈奴を服属させ,倭の奴国の朝貢をうけた.

2022.1.16


 【質問】
 三国志はそんな詳しくないんだが,演義か正史かで,カトリックとプロテスタントくらいには違うのか?

 【回答】
 『三国志』は,陳寿の著した歴史書.
 司馬遷の史記と同じ様なもので,中国の官製の歴史書.
 俗に『正史』と呼ばれてるのはこっち.

 『三国志演義』は,羅貫中の著した小説作品.
 上の『三国志』を元に,七割が正史・三割が創作とされてる.
 日本の吉川英治の小説は,こっちを元にしたもので,横山光輝やコーエーは,更にこの吉川作品を元にしてる.
 このため紛らわしいが,日本で『三国志』というと,この演義の方を指すことが殆ど.

 ちなみに例外は蒼天航路で,正史を元にしてる.

漫画板,2013/07/12(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 曹操が暗記するほど読んだといわれる書は孫子ですか?

 【回答】
 Yes.
 しかし暗記なんてレベルじゃない.完璧に理解した上で,孫子の完成度をぐーんと高めたのが曹操.
 現在テキストとして用いられる孫子は,大抵の場合,曹操が孫子に注釈をほどこした「魏武注孫子」.

 そんなわけで,
「そもそも孫子を著したのは曹操なんじゃねぇの?」
なんていう人までいたりする.
 ま,さすがにそりゃないだろうけどね.

(世界史板)


 【質問】
 ウィキペディアには,
>後漢末・三国時代を舞台とする説話や講談は古くからあり,
>すでに北宋の時代には劉備と蜀漢を善,曹操と魏を悪役とするイメージが
>定着していたという記録がある.

とあるんですが,なんで蜀が善という考え方が広まったんでしょうか?

 【回答】
 劉備は漢の皇室の分家の末裔だから,後漢の正当な後継者で,曹操は後漢から天下を簒奪した悪党,という構図.
 これが日本だけの見方ではない証拠に,中国人は長年関羽を関帝(神様)として祀ってきた.
 っていうか三国志演義はまさにこの構図.

 曹操は宦官の孫だったり,徐州で大虐殺やったり,儒者を弾圧したりしたので,在世当時から大悪人としての風評が大きかった.
 劉備はまあ,やってることはただの弱小軍閥の親玉なんだが,「漢朝・劉氏」で売り込んだので,当時から評判はよかった.
 シナ人の多くは今も漢民族と自称するし,孔明・関羽・張飛とか民衆に人気のある武将もいるし,判官びいきもあるし.
 陳寿が『三国志』を書いたのは晋の時代だが,晋は魏から禅譲された形で簒奪しているので,前代の魏はあんまりよく書かれず,陳寿の母国であった蜀漢は,正統王朝に準ずる形式(先主伝など)で書かれた.

 また晋が江南へ移ると,もといた華北よりも江南文化をひいきにするようになったが,孫呉をあまりもちあげると治安上よろしくないので,民間に人気のある蜀漢を持ってきて称揚した.
 習鑿歯という人は,蜀漢に仕えた人物の子孫だったが,東晋の末に軍閥の桓温が帝位を簒奪しようとしたので,
「魏は簒奪者であり,晋が蜀漢を滅ぼして,ようやく漢が滅んだ」
という蜀漢正統論を説いたという.

 まあ,蜀を実際に倒したのは魏の軍なんだが,すでに司馬氏が完全に実権を握っていた頃.
 漢人が北方民族に圧迫されてたのと,魏が漢を簒奪し蜀を苦しめたのを重ね合わせ,北伐を繰り返した蜀の孔明を善玉にしたのが,原因のひとつではあろう.

 ただし,関羽が神格化されたのは意外に遅く,唐宋の頃にようやく護法神として信仰された程度.
 「関帝」とされて,信仰が国家規模で盛んになるのは,南宋以降になる.

世界史板,2010/05/20(木)
青文字:加筆改修部分

▼ 上記回答ですが,誤解を招きかねない点,説明が不足している点があると考えます.

>っていうか三国志演義はまさにこの構図.

まず,この箇所ですが,宋代に三国志を題材としたものは「三国志平話」であって,演義ではなく,しかもこの違いは無視できるものではありません.
 三国志平話においては,高祖に粛清された韓信,彭越,英布が曹操,劉備,孫権に,加害者である高祖と呂后が献帝と伏皇后に,そして天界での裁判において,韓信らの冤罪を証言した?徹が諸葛孔明に,裁判を進行させた司馬仲相が司馬仲達に,それぞれ生まれ変わると言う設定から話が始まるもので,「三国志演義」とは色彩がかなり異なります.

>陳寿が『三国志』を書いたのは晋の時代だが,
>晋は魏から禅譲された形で簒奪しているので,
>前代の魏はあんまりよく書かれず,陳寿の母国であった蜀漢は,
>正統王朝に準ずる形式(先主伝など)で書かれた

 蜀志における劉備の伝が,諡号の昭烈帝を使わず,「先主伝」とされていることからも明らかなように,陳寿の「三国志」は蜀漢を正統王朝とはしていません.
 また,漢魏革命は「魏武輔漢の故事」とも言われ,後世の禅譲の模範となっており,その影響は,「清室優待条件」の
「大清皇帝辞位の後尊号猶を存して廃せす,中華民国は各国君主を待つの礼を以て待遇す」
にも見ることが出来ます.
 これは東漢の献帝が魏の文帝に禅譲し,山陽公となったあとも,皇帝としての自称などを許されたことに由来しています.

 蜀漢正統王朝説を大成させたのは,南宋の朱熹でしょう.
 司馬光が「資治通鑑」において,三国時代の年号を魏のもので統一したのに対し,朱熹は「資治通鑑綱目」で蜀漢のそれを使い,蜀漢こそが正統王朝であるとの立場をとっています.
 こういった流れで,元代には科挙に蜀漢正統王朝説が取り入れられ,この文脈上に,明代に劉備を善玉とする「三国志演義」が成立したのです.

名無しルーデル神教教徒 in FAQ BBS,2010/7/27(火)
青文字:加筆改修部分

 【参考ページ】
三国志平話 - Wikipedia
三国志平話とは?
三国志平話とは
資治通鑑綱目 とは - コトバンク
中国社会の変化と北方民族の進出
~ 曹操の評価 ~


 【質問】
 軍師という熟語は,諸葛亮の軍師中朗将からというのは本当ですか?

 【回答】
 いいえ.

 中国では,周の文王が呂尚を師に立て,子の武王のときついに殷を滅ぼしたことが『史記』+に見えるように,古くから軍師にあたる者が存在しました.

 ある程度効力のある官職として文献に始めて出てくるのは魏志の武帝紀の中にある
「三年春正月,公許に還り,初めて軍師祭酒を置く.」
のくだりかと思われますが,光武帝の時代,隗囂が反乱を起こした際に部下を「軍師」に任命してるということがあったようなので,単純に一番最初というとこっちになるのかな?^^

(「はてな」)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 三国志には,劉備玄徳が田舎の農家で人肉を食べる生々しいシーンが出てくるけど,中国で人肉食はありえたことなの?

 【回答】
 「三国志演儀」は創作,脚色てんこ盛りで資料には成り得ない.
 中国では昔から三国志は人気のある話で,数多くの「三国物語」と言える話があり,曹操を主人公にした物,孫権を主人公にした物,劉備を主人公にした物と様.
 どの話も主人公の敵は悪逆非道な人として書かれ,敵の人格をおとしめるエピソードも数多くある.
 劉備の人肉食のエピソードは,そのネガティブ・キャンペーンの一つと思われる.

 しかし正史三国志,魏志ゾウコウ伝(字が出ない)には,袁紹に攻められた軍閥の主・ゾウコウが篭城のさなか,最後に自分の愛妾を殺して肉を入れた粥を作って配り,感激した兵士達は全滅するまで戦ったという記述がある.

 また,マンガの「蒼天航路」には,董卓が反逆者の目をくりぬいたり腕をぶっちぎったりして,さらに釜茹でにして余興とし,列席者は恐怖に青ざめるが,董卓だけは一人平然と煮えた人肉を食う!……というシーンがあるが,これと全く同じ記述が正史の董卓伝に登場する.
 初期の「蒼天」は,こういう正史ネタが細かくちりばめられてあって感心したもんだなぁ.

 さらに,「魏志」の太祖武帝紀(曹操の伝記)なんかを通読すると,
「なんたらの何年に飢饉が発生し,人が人を食い合った.」
「ひどいありさまで,人が人を食い合い…」
とかサラっと出てきたりする.
 正確な引用は出来ない…ちくまから出てる三国志・魏志(1)だが,ダンボール箱の底に埋まってるだろうから掘り起こせない(°∀°)
 もちろん飢饉のときに人肉食が流行るのはその他の世界の地域でも似たようなものだろうが,中国の場合は前述のゾウコウ伝に限らず,晋の文公に介子推が腿の肉を裂いて献じた話とか,敵を辱めるためにそいつの死体を料理する,漢の彭越の話とかあって,「嫌悪すべきもの」とは限らず「忠誠や愛情を示すポジティブなもの」として描かれることも多いのは否めない.

 16世紀に著された有名な漢方の研究誌「本草綱目」では,人間の各所の肉のみならず,髪の毛や排泄物や精液に至るまで,その薬用としての利用方法・効能が書き記されている.

 薬用以外だったら「両脚羊」というものが,宋の「ケイ肋編」(だったかな? また漢字が出ないが,鶏に似た字)という本
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4270_14876.html
に,食材として登場する.
 昔,立ち読みした本に同じ出典でその製法まで記してあってウボァーって思った事がある.
 農村で女性を捕まえたり買ったりして,手足頭を切り落として腹を割いて,内臓全部出して塩をすり込んで干すんだったか.

 で,そこには結びとして

 經傳詩文によつて,支那人の長所美點を會得するのも勿論必要であるが,同時にその反對の方面をも,一應心得置くべきことと思ふ.
 食人肉風習の存在は,支那人に取つては餘り名譽のことではない.
 されど儼然たる事實は,到底之を掩蔽することを許さぬ.
 支那人の一面に,かかる風習の存在せしことを承知し置くのも亦,支那人を理會するに無用であるまいと思ふ.

と,書かれている.

 それから,これはもう最近の話になっちゃうが,文化大革命では「反革命分子」「資本家」「階級の敵」をリンチし,八つ裂きにして肉やら臓器やらを民衆が我先にとつかみとり,家に持ち帰って食ったとか,そのような指摘が中国人自身からされていたりする.
 ソースは「食人宴席」(鄭義著,)
 著者は天安門事件で指名手配されたバリバリの民主化運動家,訳者は大陸大嫌いの台湾人・黄文雄なので,いささかバイアスがかかっているかもしれんが,しかし,記述としては,西洋人や日本人の支那旅行記に散見される,
「死刑のあと,死刑執行人や見物人の間で人肉の売買が始まる」
というヤツと一致しており,まるきりガセネタと言い切れない面がある.

 平時から市場に人肉が並んでいる様子
http://hk.geocities.com/ennet369/
(グロ注意)

 中国の人肉食は,普遍的とまでは言いきれないものの,他地域の文明と比べてハードルが低いのは明らか.
 それを決定付ける,たったひとつの究極的な証拠,などというものはないが(というか不可能だ),しかしそれを裏付ける膨大な史料や証言には事欠かない.

軍事板

 武帝紀の該当部分,抜き出しますね.

「この年(興平4年=西暦194年),穀物は一石五十余万銭に高騰し,人間同士が食い合うほどだった.そこで軍吏や兵士の新たな募集を取りやめた」

 この光景を目の当たりにしたあと,曹操は屯田を推し進めていくようですね.

 次にゾウコウ伝.
 ()は私の入れた分で,[]は本文中の挿入です.ちなみに筑摩書房の世界古典全集版です.

「袁紹はゾウ洪の手紙を読み,降伏の意が無いことを知ると,兵を増強して激しく攻め立てた.
 城中では料米が底を突き,(中略:内容は城中の一致団結振り)最初はまだ鼠を掘り出し,[獣の]筋や角を煮て食べていたが,後にはもはや食べられるものはまったくなくなってしまった.
 主簿が,内むきの台所に米三斗(漢代の斗は今の升に近い:約5.4リットル)があるから,半分に分けて少しずつ粥を作りたいと言上した.
 ゾウ洪はためいきをついて,
『わしだけがこれを食べてなんとする』
といい,薄い粥を作り,みんなに分けてすすらせ,自分の愛妾を殺して将兵達に食べさせた.
 将兵達はみな涙を流して,顔を上げられるものも無かった.
 男女七,八千人が枕をならべて死亡したが,離反したものは一人も無かった」

 さらに董卓なのですが,董卓自身が人肉を食う,と言うのは蒼天航路のほうだけで,正史にはありませんでした.おそらくレス主の方が言うのは

「かつてビ(眉+おおざと,董卓の本拠地)に出かけ砦を巡察することになり,公卿以下そろって横門の外において送別の宴をもよおした.
 董卓はあらかじめ幔幕を張って準備しておき,酒宴となると,反乱した北地郡の降伏者数百人を中へ引き入れ,席上,まずその舌を切ってから,手足を切ったり,眼をくりぬいたり,大鍋で煮たりした.
 まだ死にきれない者が,杯やテーブルの間を倒れて転げまわり,集まった人々がみな慄然としてさじや箸を取り落としても,董卓は平然として飲み食いを続けていた」

というシーンをアレンジした,「蒼天航路」の宴席のシーンだと思われます.
 私,この漫画読んだのですが,人を食っていたか失念してしまいました.なんにせよ,「漫画の話」です.

 んで,個人的に興味深いのは曹操の幕僚グループ,程イク(日の下に立)の話.

「『世語』にいう.
 そのむかし,太祖(曹操)が食料に欠乏したとき,程イクはその出身の県を略奪し,3日分の糧食を提供したが,人間の乾肉をかなりまぜた.
 その結果,朝廷における人望を失った.
 だから官位は公にまで上らなかったのである」

 世語は,註にに引かれた野史の中では比較的成立年代が古いようですので,比較的当時に近い時代,人肉を食料とすることは余りよい印象をもたれていなかった,すくなくとも公卿のすることでは無いと思われていたことの証左になると思います.

 その他,王忠は飢饉のときに人をたべたことを,曹丕が馬の鞍に髑髏を下げてからかったと言うエピソードがあります.

黒木竜 in 「軍事板常見問題 mixi別館」

▼ なお,中国語の「人肉」には,「人間の肉」以外の意味もあるので,注意が必要.
 現代の,ネット社会での話限定ですけどね.
 以下引用.

――――――
4) 人肉
 昔々,犯人を指名手配し,各賞金稼ぎが賞金首を狩っていた.
 この賞金首は人肉と呼ばれた.
 今,「人肉」は様子を変え,最短時間である背後の真相の「致命的な奥の手」を暴き出すという意味になった.

 「人肉」,正式名称は「人肉捜索」は,現代の情報テクノロジーを用い,全国各地のインターネット利用者の力を集めて,各自が各種のルートを使ってターゲットの断片的な情報を入手,その後,すべてを取りまとめて「人肉」ターゲットの完全な資料をつくることである.

 従前のネットのサーチエンジンと比較して,「人肉捜索」は人と人との間の情報伝達にさらに依存するもので,したがって,これでようやく真の「人を基本にする科学技術」であると言う人もいる.
 「人肉捜索」は中国のインターネットでは何年も行われていることだが,少しも衰える気配はない.
 昨年発生した「人肉捜索」は,高級たばこを吸っていることで問題になった南京市江寧区不動産管理局の周久耕局長,一夫二妻で問題になった江蘇省徐州市泉山区区委の董鋒書記等である.
 中国のネット利用者が成長し続ける限り,このような人間の力による捜索体験は発展し続けるだろう.
〔聯合早報,2009年1月25日〕

――――――電子マガジン《中国最新情報》  No.476 2009年2月17日

(朝目新聞より引用)


 【質問 kérdés】
 八王の乱って何?
Mi az "A nyolc herceg háborúja"?

 【回答 válasz】
 西晋末,外戚間の抗争に宗室・司馬氏が巻き込まれ,8人の藩王が政権を争った内乱(291~306年).
 司馬炎(武帝)死後,その子・恵帝の暗愚に乗じ,妃の賈氏 (かし) は汝南王や楚王を謀殺 (291)し,賈氏一族が以後10年間にわたり政治を独占.
 301年,趙王倫が賈后誅滅をはかって挙兵して以後,内戦が続き,その際,諸王が軍事力に導入した北方諸民族が華北に自立,永嘉の乱が始まって西晋王朝は滅亡した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%B9%B1-114754
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-025.html
https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%85%AB%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%B9%B1/

2022.1.6


 【質問 kérdés】
 司馬乂(しばがい)って誰?
Ki Sima Ai?

 【回答 válasz】
 八王の乱の王の一人.

 277年,晋朝初代皇帝・司馬炎の6男として生まれる.
 13歳で長沙王に封王される.
 291年,兄の司馬瑋が汝南王・司馬亮と衛瓘を討った際にこれに参加し,乱後に瑋が罪人として裁かれると,実弟である乂もこれに連座して常山王へと降格された上で,任地である常山へと赴任させられて中央から遠ざけられた.
 301年,趙王・司馬倫が恵帝衷から帝位を簒奪した事に対して斉王・司馬冏,成都王・司馬穎,河間王・司馬顒らが決起(三王起義)すると,乂もこれに参加.
 功績を挙げて驃騎将軍などを与えられた上,長沙王復位.
 302年,冏と不仲となっていた顒は近臣と謀って,洛陽にいる乂を動かし,乂が敗死したら冏討伐軍を動かし,洛陽へ総攻撃をかける作戦を立てる.
 乂はこの計に乗せられて,洛中で100人の兵を調達して宮中へ突入し,恵帝の身柄を確保.
 百官を恫喝して冏を引き渡させ,これを討った.
 冏討伐後,乂は恵帝へと忠誠を誓ったが,顒と穎はそれぞれ宮中に刺客を送り込んで乂を暗殺しようとするも,いずれも露見して乂に抹殺さる.
 303年8月,ついに顒と穎は乂討伐の兵を挙げる.
 恵帝は乂を太尉・大都督・中外諸軍事という軍権トップに任命し,顒・穎連合と対決する姿勢を見せる.
 同年夏,顒の家臣・張方と穎の家臣・陸機(陸遜の孫)・石超・牽秀らが二手から大軍を率いて洛陽を目指し,進撃を開始.
 これに対して乂は張方を止めようと家臣の皇甫商を派遣したが突破され,張方軍は洛陽へ侵入して略奪を働き,乂は洛陽周りに籠もって戦うことを余儀なくされる.
 しかし建春門に穎軍の陸機が迫ると,乂は恵帝衷と共に出馬してこれに当たり,馬に戟を括り付けて突撃させて混乱した敵を散々に破り,将軍16人を討つという大勝を挙げた.
 あまりの大敗に陸機は「司馬乂と通じてわざと大敗した」と讒言され,穎により三族滅を言い渡された.
 続いて顒軍の張方にも乂は痛打を与え,洛陽周りから叩き出した.
 乂の軍勢の強さを畏れた張方は,正攻法での勝利は難しいと考え,洛陽の堰を破壊して水の手を断つという手段に打って出て,洛陽は深刻な水不足となる.
 それでも乂の軍勢は士気旺盛で,顒・穎軍を寄せ付けなかった.

 年が明けて304年になっても,乂軍将兵の士気は異様は高く,張方は洛陽攻略を諦めて長安へ撤退することを考え始めていた.
 だが,洛陽にいた東海王・越は,城内の窮状から限界は近いと判断し,乂を密かに捕縛して降伏しようと謀った.
 そして,ある夜中に乂は捕縛され,全ての官を解かれて監禁され,官軍は張方に降伏.
 しかし開城した官軍は,張方軍が撤退も考え始めているほど士気が低かった事を知って即座にこれを後悔し,乂を奪還すればまだ戦えるのではないかという雰囲気が漂いだす.
 この不穏な空気を察した越は,もはや乂を生かしてはおけぬと思い,張方に密かに連絡して乂の監禁先に兵を出させ,引き釣り出された乂は張方の陣中で生きたまま焼き殺された.
 享年28.

https://www.youtube.com/watch?v=Hxts8Ptl-T4

2022.3.20


 【質問 kérdés】
 五胡十六国って何?
 Mi az Tizenhat Királyság?

 【回答 válasz】
 中国,華北の地に,304年前趙(趙)の建国より439年北魏(魏)が統一するまでの間に,五胡が建てた13国(成,前趙,前燕,後趙,前秦,後燕,後秦,西秦,後涼,北涼,南燕,夏,南涼)と漢族の建てた3国(前涼,西涼,北燕)の総称.
 五胡は後漢・三国時代のころから中国の北西部に侵入していたが,晋の八王の乱に乗じて蜂起し,華北に割拠.
 439年,北魏により華北が統一され,それ以降,華中の漢民族と対立する南北朝時代に入った.

2022.1.8


 【質問 kérdés】
 羯(けつ)って何?
Mi Jie?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代の五胡の一つ.

 「羯」という名称は,2~3世紀に中国北部に南下した匈奴の19の構成種族の一つで,山西省中部山間部に入居したKhes(あるいはKit.石を意味するエニセイ語)を,「去勢した羊(ひつじ)」を意味する「羯」と音訳したのが由来,とする説が有力.
 319年に後趙を建国した石勒は羯族出身だが,後趙王室がその姓氏を石と称したのもKhesの意訳と思われる.
 また,山西省の羯に居住したことに由来するという説もある.

 彼らは隆鼻,深目,長鬚(ちょうしゅ;長いあごひげ)という身体的特徴をもっていたことから,その民族系統を,匈奴に服属した中央アジアのイラン系民族とする説もある.
 ただし,匈奴系の諸部族全般,さらに北方民族全体を指して羯と呼ぶこともある.

 魏晋南北朝時代の4世紀に華北に侵入.
 上述したように,319年に羯族の石勒が後趙を建国するが,351年に後趙が滅亡すると羯族は分散したという.

2022.4.24


 【質問 kérdés】
 石勒って誰?
Ki Shi Le?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代,後趙の初代君主(在位319~333).

 274年,山西省武郷県付近の,匈奴系の羯族の小部族首長の家の生まれ.
 しかし南匈奴に従って南遷してきた羯族は当時,漢人の蔑視と経済的困窮のなかにあり,石勒も飢餓に苦しんだ末,西晋の軍閥によって山東方面の地主に売り飛ばされて奴隷となった.
 その後,群盗の仲間に入ってその首領となり,八王の乱に乗じて勢力を伸ばしたが,南匈奴族の劉淵が漢(匈奴漢)の帝位につくと彼に降り,続いて劉聡の部下となって,永嘉の乱では劉曜や王彌らと共に活躍.

 しかし劉聡死後は劉曜に対抗し,襄国〔現・河北省邢台県付近〕を拠点として山東,河南,および河北を経略.
 次第に漢から自立する傾向を強め,318年,漢が靳準によって滅ぼされると,同年,長安にあった劉曜が前趙を建国したことに対抗して自ら趙王の位につき,後趙を建てた.
 329年,前趙を滅ぼしてほぼ華北を統一.
 330年,帝位についた.
 外政では江南の東晋と対峙.
 内政では帰服した漢人の統御にすぐれた手腕を示し,律令制定や歴史書編纂事業等,中国の伝統的な制度や文化を尊重.
 また,学校を建て,学者を重用し,官吏の登用にもよく意を用いた.
 さらに仏図澄を礼遇し,仏教の普及にも貢献した.

 333年7月崩御.次の帝位には石弘が就いた.

2022.4.28


 【質問 kérdés】
 石虎って誰?
Ki Shi Hu?

 【回答 válasz】
 五胡十六国の後趙の第3代皇帝 (在位 334~349) .

 生年不詳.
 羯 (けつ) 族の石勒の甥.
 性質は残忍であったが,武将としての統率力をもっていたので石勒に信任され,石勒の片腕として華北統一に勲功を立て,国軍の全権を掌握した.
 石勒死後,その跡を継いだ石弘を殺して居摂趙天王と名乗り,都を鄴に移した.
 彼は政務を皇太子・石邃(せきすい)にゆだねて遊猟と酒色にふけり,豪奢な宮殿を造営して国力を疲弊させた.
 石邃も乳母を信任したので,朝政は私情に左右された.
 また,再三外征の軍を起したが実効はなかった.
 さらに兵権を分掌する諸王たちのため,君主権はたえず動揺した.
 349年,帝位についたが,同年没.

 その後まもなく,石遵や次の石鑒は冉閔 (ぜんびん) 将軍に殺され,351年には冉閔は独立して魏と称し,石氏一族を滅ぼした.
 羯族も漢人による大虐殺が行われて衰えた.

2022.4.26


 【質問 kérdés】
 冉閔(ぜんびん)って誰?
Ki Ran Min?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代の冉魏の初代天王.

 生年不詳.
 父親の冉良は漢民族の出で,漢(後の前趙)の将軍の石勒に捕らえられるが,勇猛さを買われて石勒の甥である石虎の養子となり,名を石瞻としていた.
 そのため冉閔の名ははじめ石閔だった.

 石虎旗下の武将として後趙を支えるが,349年に石虎が崩御して後継者争いが発生すると,司空の李農らと結んで,石遵を助けて帝位に立てた.
 だが,石遵が冉閔を皇太子とする約束を果たさなかったので,約半年後に石遵を殺害.
 石鑒を帝として立て,大将軍に任ぜられて実権を握った.

 だが,石鑑も石閔の専横を恐れて排斥を図ったため,350年に先手を打って殺害.
 また,後趙が漢人から3万人の婦女を徴発したり財産の大半を没収するなど苛政を続けていたことへの報復として,配下の漢人武将や漢人民衆らを煽り,石氏の一族数十人を処刑.
 それのみならず,20万人にも及ぶ羯族等の民衆を虐殺した.
 鼻が高く鬚が多いのが非漢人の外見的特徴であったことから,外見のみで巻き添えに殺された漢人が半ばを占めていた.
 この大虐殺の影響は四方に波及し,数百万の胡族が各地に交錯,互いに殺略しあうという事態が生じた.
 また,このために中原では農耕自体が不可能になり,大飢饉に見舞われ,盗賊が横行した.

 350年2月,帝位に就き,国号を大魏(冉魏)と定めた.
 同年4月,上述の司空・李農を処刑し,権力を集中させた.
 ただし,漢人至上主義に基づく漢人のみの国家であったため,異民族の勢力圏にあった華北地方においてはその勢力基盤は脆弱で,支配領域は鄴周辺のわずかな地域に限定され,後趙の残存勢力とも争わねばならなかった.
 そこで冉閔は,当時江南にあった東晋に共闘を申し入れたが無視された.

 351年4月,劉顕の寝返りで襄国(現・河北省信都区)を勢力としていた石祗を殺害し,後趙を滅ぼすことに成功.
 だが同年7月,劉顕は自立を目論んで冉閔から離反し,鄴を攻撃.
 だが冉閔に敗北してしまい,襄国へ逃げ戻った.

 同年12月,東晋の桓温の北伐により兗州・徐州・豫州・荊州の刺史達が東晋へ帰順.

 352年1月,その頃皇帝を名乗って自立していた劉顕を殺害.
 だが羌族の姚襄の軍に対し,死者10万を出して大敗.
 同年4月,前燕の慕容恪らが幽州から南下して冉魏を打ち破り,冉閔は処刑された.

 その後,鄴に残った皇太子の冉智が東晋に救助を求めると,東晋は先に伝国璽を求めた.
 同年8月,伝国璽は41年ぶりに司馬氏の手に戻り,9月に冉智は部下の手で捕らえられて幽州に送られ,冉魏は完全に滅んだという.

2022.4.27


 【質問 kérdés】
 苻生って誰?
Ki Fu Sheng?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代の前秦の第2代皇帝.

 略陽郡臨渭県(現・甘粛省天水市秦安県の東南)出身の氐族で,初代皇帝苻健の三男.
 幼い頃から無法な行いを繰り返しており,祖父の蒲洪(後の苻洪)からは強く忌み嫌われていた.

 成長すると勇猛になったが,性格は凶暴で殺戮を好み,また多量の飲酒を好んだという.

 350年1月,蒲洪が大都督・大将軍・大単于・三秦王を自称し,自らの姓を苻に改めると,蒲生もまた苻生と名を改めた.
 351年1月,苻健が天王・大単于の位に即くと,苻生は淮南公に封じられた(前秦の成立).
 352年1月,苻健が帝位に即くと,淮南王に進封された.

 354年3月,東晋の征西大将軍桓温が前秦への侵攻軍を率いて到来すると,苻生は兄の皇太子苻萇・叔父の丞相苻雄・従兄の衛大将軍苻菁・弟の北平公苻碩らと共に迎撃を命じられ,5万の兵を率いて駐屯した.
 桓温との交戦が起こると,苻生は自ら陣頭に立って敵陣に突入し,10数回に渡って出入りして敵旗を奪い取り,将軍の応誕・劉泓を始め10数人の武将を討ち取って1000人を殺傷した.
 だが,桓温もまた兵を率いて力戦したので,最終的に前秦軍は大敗を喫した.
 しかし前秦軍は関中の作物を尽る刈り取る焦土作戦を展開した上で,後退して守備を固め侵攻を阻んだ.
 これにより東晋軍は兵糧不足により撤退を開始したが,苻生らは桓温を追撃し,潼関において幾度もこれを撃破し,数万の兵を討ち取った.
 同年7月,桓温撃退の功績により,苻生は中軍大将軍に任じられた.

 355年4月,先の皇太子苻萇戦死に伴い,皇太子に立てられる.
 同年6月,苻生の従兄・苻菁は兵を率いて東宮に入り,苻生を殺して自立を図ろうとしたが失敗し,処刑さる.

 即位した苻生は,皇后の梁氏や他多くの群臣を処刑.
 即位以前からの寵臣の趙韶を右僕射に,趙誨を中護軍に,董栄を尚書に任じたが,趙韶・董栄らは奸佞な人物であり,大いに朝政を乱した.

 356年2月,前燕皇帝・慕容儁が配下の慕輿長卿らに兵七千を与え,軹関より攻め寄せると,この侵攻を知った苻生は鄧羌を救援に差し向け,この戦いで慕輿長卿を討ち取り,2千7百を超える首級を挙げる大勝利を得た.
 同年4月,関中攻略を目指していた前秦の姚襄が進軍すると,苻生は苻黄眉・苻道・苻堅・鄧羌に歩兵騎兵合わせて1万5千を与え,姚襄討伐に向かわせた.
 前秦軍は偽装退却を用いて姚襄を本陣から引き離した上で攻撃.
 乱戦の中で姚襄は斬り殺され,その軍は戦意を失い降伏した.
 弟の姚萇は敗残兵を纏め上げると,苻生に降伏した.
 苻黄眉は長安に帰還したが,しかし苻生はこれを一切賞さず,逆に幾度も衆人の目前で苻黄眉を侮辱した.
 苻黄眉はこれに激怒し,苻生を殺害して自立しようと謀ったが,事前に露見してしまい,誅殺され,連座して多数の王公・親戚が殺害された.
 さらに苻生は,別の従兄弟であった清河王苻法や,その兄弟らまでも殺害しようとの計画を侍婢に漏らしたが,この侍婢はこの事を当の苻法へと報告.
 これを聞いた苻法は,他の朝臣らと共に壮士数百を率いて宮殿へと突入した.
 また,苻法の弟である苻堅も兵数百を率いて宮殿に迫ると,宿衛の将士はみな武器を捨てて苻堅に従った.
 この時,苻生はまだ酔い潰れて眠っていたが,苻堅の兵により別室に連行され,越王に降格された上で殺害された.
 357年のことだった.

2022.4.26


 【質問 kérdés】
 苻堅って誰?
Ki Fu Jian?

 【回答 válasz】
 五胡十六国時代の前秦第3代君主(在位357~385).

 338年生まれ.
 氐(てい)族の人.
 苻健の弟にあたる苻雄の子.
 357年,暴君・苻生(苻健の子)を殺して自立,大秦天王と称した.

 漢人の名宰相・王猛らの補佐を受け,徳治主義を標榜.
 明堂を建て,藉田の礼を行い,学校を建設して儒学教育の振興を図り,また魏・晋以来の士族の戸籍を復活した.
 一方,農業を奨励し,治安の回復に力を入れ,長安と諸州の間に整った並木道を通し,一定の間隔に駅と亭を置いた.
 五胡諸国中第一の名君と評される.

 このように国内をよく治めたので国力が強大となり,370年に前燕,376年に前涼と代を滅ぼして華北統一に成功.
 また,東晋から四川を奪い,呂光を派遣して西域を従えた.

 他種族に対しても寛大で,彼らを本拠の関中に多く移し,逆に氐族を東方に分置した.
 だが,天下統一を目指した東晋遠征において,淝水の戦い(383)に敗れると,これら諸族はいっせいに再独立運動をおこし,385年,苻堅は羌族の姚萇(ようちょう)に幽閉され,自害した.

2022.4.21


 【質問 kérdés】
 淝水の戦いについて教えてください.
Kérem, mondja meg a Fei-shui castaról.

 【回答 válasz】
 中国統一をかけた東晋遠征において前秦が敗れた戦い.

 華北を統一し,東晋から四川を奪った前秦の苻堅は,自ら100万と号する大軍を率いて南下し,寿陽を落とした.
 これに対し東晋は,宰相・謝安の甥・謝玄が建康(現在の南京)防衛にあたる北府軍団を中核とする8万の衆を率い,両軍は淮水の支流,淝水を挟んで対峙した.
 苻堅は先鋒を偽って退かせて東晋軍を誘ったが,兵は混乱して退却をやめず,そこを謝玄に強襲されて全軍総崩れとなり,「風声鶴唳(風の音や鶴の鳴き声にもおびえつつ)」逃走.
 苻堅も負傷した.

 この敗戦によって前秦治下の各種族が独立し,華北は以前にも増して分裂の状態を迎えた.

2022.4.22


 【質問 kérdés】
 東晋って何?
Mi Keleti-Jin?

 【回答 válasz】
 西晋滅亡後,その王族が江南にて再興した国家.

 司馬炎が建国した西晋が匈奴の侵入を受けて滅んだ後,司馬氏の一族の司馬睿が江南で317年に晋を再建.
 呉の建業(現・南京)を建康と改称し,都とした.
 これを東晋という.
 東晋は元帝・司馬睿から恭帝・司馬徳文まで11代,420年までの102年間,江南地方を支配.
 華北が北方民族(胡人)の五胡十六国に分割されていた間,漢民族の文化を維持,発展させた.

 東晋を支えたのは,司馬睿とともに華北から移動してきた王導などの門閥貴族であったが,彼らは江南の土着の豪族と融和を図る必要があった.
 江南の豪族も晋の皇帝の一族司馬氏を迎えてその権威に服従することで,利害が一致し,当初は比較的安定した政治が行われた.

 383年,華北の前秦(氐が建国した王朝)の苻堅が,中国統一を目指して南下すると,淝水の戦いで迎え撃ち,その南進を食い止めた.
 以後,淮河を境界とした南北で対抗するという形勢が定まった.
 淝水の戦いにおける東晋の勝利は,その軍事力を支えていた北辺守備隊である北府と言われた軍団の勢力を増大させることになった.

 華北から移って江南を支配した東晋政権に対し,江南の豪族はたびたび反乱.
 また,東晋政府は華北政権との戦いの財政負担を農民に求めたので,農民の中に不満が蔓延していった.
 そのような社会不安を背景に,長江下流域でかつての民間信仰・五斗米道の流れをくむ孫恩という人物が,水上労働者を組織して399年に反乱を起こした.
 この反乱の鎮圧に向かったのが,北府を指揮した劉裕だった.
 402年,劉裕に攻撃された孫恩の反乱軍は海上に逃れたが,孫恩が海中に身を投じると信徒も次々と投身したため,鎮圧された.
 劉裕はその後も散発的に続いた孫恩教団の残党を討伐し,さらに豪族の反乱を次々と鎮圧して名声を高めた.

 403年12月には,北府軍に対抗していた西府軍の桓玄が,東晋の安帝から禅譲されるという形をとって帝位につき,国号を楚とした.
 だが404年2月に劉裕がクーデターを起こし,桓玄を首都から追放.
 安帝を再び帝位に就けて復活させた.
 実権は劉裕に移ったことは明らかだったが,劉裕はなおも20年近く,東晋皇帝に仕える形をとった上で,420年に東晋最後の皇帝恭帝から禅譲を受ける形で帝位(武帝)について宋(劉宋)を建国.
 東晋は名目上も滅んだ.

2022.4.20


 【質問 kérdés】
 赫連勃勃って誰?
Ki He-lian Bo-bo?

 【回答 válasz】
 五胡十六国の大夏の建国者.

 生年不詳(381年説あり).
 南匈奴の右賢王去卑の子孫.

 初め後秦の保護を受けていたが,407年,後秦にそむいてオルドス地方にて独立.
 天王大単于と称し,国を夏と称した.
 のち赫連に改姓.

 417年,東晋の劉裕が後秦を滅ぼした際,勃勃はその留守を襲って長安を奪い,418年,あらためて皇帝として即位.
 性格残忍で,人民はその非道な政治に苦しんだという.

 425年没.
 431年には北魏の侵攻をきっかけにして,大夏も滅亡した.

2022.4.23


 【質問 kérdés】
 劉宋って何?
Mi Liu Song dinasztia?

 【回答 válasz】
 南朝最初の王朝(420~479).

 彭城郡(江蘇省)の下級武将,劉裕(武帝)が建国.

 武将時代に劉裕は,桓玄を討って東晋を再興.
 また,南燕,後秦を滅ぼして内外に勲功をあげ,東晋の安帝を絞殺してその弟・恭帝を建て,恭帝から禅譲を受けて建康(南京)に王朝を開いたのが劉宋だった.
 その後,劉裕は恭帝も暗殺している.

 その死後,長子の少帝が継いだが,かわって第2子の文帝が擁立され,その治世30年は元号にちなんで「元嘉の治」と繁栄をたたえられた.
 しかし晩年,北魏討伐に惨敗して国勢を傾け,皇太子・劉劭に斬殺された.

 兄の劉劭を討って即位した孝武帝は,身分の低い寒人を寵任して皇族や貴族を弾圧し,専制政治を行った.
 これ以降,前廃,明,後廃と暴君が続き,軍閥・蕭道成(後の南斉の高帝)が後廃帝を暗殺して順帝を擁立したのち禅譲を迫り,劉宋は8代で滅びた.
 その後,蕭道成は宋の皇族を一人残さず滅ぼしている.

 なお,5世紀の日本の大和王権の「倭の五王」が,使節を南朝の宋に派遣したことが『宋書倭国伝』に記されている.
 倭の五王の遣使は次の斉と続く南朝の諸王朝に対して行われ,朝鮮半島の高句麗・新羅・百済と対抗するために,倭国の支配権を承認してもらう狙いがあったと思われる.

2022.4.14


 【質問 kérdés】
 南斉って何?
Mi Nan-qi?

 【回答 válasz】
 南北朝時代の南朝の第2王朝 (479~502)
 479年,宋の将軍・蕭道成が宋の順帝より受禅して建国.
 483年,その子武帝が即位し,戸籍の検定,税制の整備などを行う(永明の治).
 しかし,武帝およびのちの明帝は寒人(門地の低い層出身の官僚)を重んじ,顕官を退ける施策を講じたため貴族の支持を失い,また 24年間に7代も皇帝が代って皇族間の殺戮が悲惨をきわめたため,国情は度々動揺.
 500年,武将・蕭衍が挙兵し,502年,受禅の形で即位.
 南斉は滅びた.

2022.4.14


 【質問 kérdés】
 蕭衍って誰?
Ki Xiao Yan?

 【回答 válasz】
 南朝,梁の皇帝(在位502~549).

 464年,蘭陵(江蘇省武進)の生まれ.
 父親・蕭順之は南斉王朝建国者・蕭道成(高帝)の族弟で,創業の功臣.

 早くから文武両道にわたる教養と才幹で将来を嘱望され,竟陵王蕭子良の〈八友〉の一人に数えられた.
 斉末,北魏の侵攻に雍州襄陽(湖北省襄樊市)へ出陣し,498年,その鎮将,雍州刺史(ようしゅうしし)となる.
 兄の蕭懿が南斉末の暴君・東昏侯に殺されると,幕府の属官および襄陽地方の豪族・土豪と共にを結集するとともに荆州(湖南省)の軍団とも同盟.
 501年,東昏侯の非を責めて挙兵.
 都の建康(現・南京)を襲って南斉を滅ぼし,502年,禅譲によって梁王朝を建国.
 彼の治世初期には官制の改革をはじめとする諸種の政策によって,頽廃していた南朝の貴族制の改革に努め,比較的安定した時代となった.
 また,彼自身は熱心な仏教徒であるとともに,多数の著述もある知識人でもあり,南朝仏教の黄金時代を招いたが,晩年は仏教に溺れて政治が顧みられなくなり,ついに北朝の反臣・侯景によって建康を落とされ,幽閉されて549年死亡.
 諡号は武帝 Wǔ dì.

2022.4.13


 【質問 kérdés】
 北魏って何?
Mi Észak-Wei?

 【回答 válasz】
 南北朝時代の北朝側の国(386~534).

 鮮卑の拓跋珪(道武帝)は前秦の配下にあったが,淝水の戦いで前秦が大敗すると,その瓦解に乗じ,内蒙古の盛楽(現・内モンゴルのホリンゴール)に都して建国.
 398年には平城(山西省大同)に遷都し,大魏皇帝を称した.
 道武帝は諸部族を解散して族長から統率権を奪い,部族民を皇帝権に直結するという画期的な改革を行い,漢人官僚を重用して統一国家の整備に努めたが,急激な改革は国内に動揺をもたらし,帝はその子に弑(しい)された.

 政権の安定に意を用いた第2代明元帝を経て,孫の太武帝は漢人名族・崔浩をブレーンとして四囲の征服に乗り出し,439年までに夏 (か) ・北燕 (ほくえん) ・北涼を併せ,華北を統一して江南の宋に対し,南北朝時代を形づくった.
 この過程で被征服民を強制的に首都周辺やその他の要地に移住させ,その故地には鮮卑兵を主力とする中央軍を派遣して軍政支配を行った.
 太武帝はまた,新天師道を唱える道士・寇謙之を信任して廃仏を断行.
 さらに漢人貴族を政界に招致するなど,漢文化尊重に傾いたが,彼も非業の最期を遂げた.

 その後しばらく宮廷内の混乱が続いたが,文明太后・馮氏(第4代文成帝の皇后)は事態を収拾して実権を握り,第6代・孝文帝の後見役として均田制,租庸調制,三長制,俸禄制などを断行し,農村の再建や財政の確立を図った.

 太后が死んで孝文帝が親政すると,朝廷内における胡族の言語,風俗を禁じ,胡姓を漢姓に改め,漢人貴族制を胡人に及ぼすなど,一連の漢化政策を行った.
 拓跋氏もこのとき元氏と改めた.
 また494年,都を洛陽に移し,南朝と対決する態勢を固めたが,徹底した漢化政策は鮮卑系軍人の不満を招き,その死後反動の気運が起こって政争を生み,鮮卑人近衛軍士の暴動事件に続いて,524年,北辺長城地帯の鎮民が蜂起した(六鎮の乱).
 内乱は全国に広がり,そのなかから鎮民出身の軍閥,高歓と宇文泰が華北を東西に二分して争った.
 534年,高歓のいただく孝武帝が洛陽を出奔し,長安の宇文泰についたことから,北魏政権は東魏と西魏に分裂した.

2022.4.17


 【質問 kérdés】
 北魏分裂について教えてください.
Kérem, mondja meg a Észak-Wei kettéváltról

 【回答 válasz】
 北魏は六鎮の乱を経て武人の力が強くなり,高歓と宇文泰により別々の皇帝が擁立されて東魏と西魏に分裂.
 その後,高氏の北斉と宇文氏の北周がそれぞれに取って代わった.

 まず,鮮卑の出身といわれる高歓が孝静帝を立てて北魏の実権を握り,534年,鄴に都を移して東魏を建国.

 次いで,北魏末に陝西・甘粛方面の反乱を討伐するため中央から派遣されていた軍が,武将宇文泰を中心に自立.
 宇文泰は535年,北魏の一族である文帝を擁し,長安に都して西魏を建国した.
 その国力は東魏に比べて貧弱であったが,北鎮系の軍と現地の漢人豪族とが協力して,府兵制,六官の制など一連の復古的革新政策を打ち出し,よく東魏に対抗した.

 東魏の高歓とその子高澄は550年戦死.
 同年,その第2子・高洋は帝位を譲らせて北斉を建て,東魏は滅んだ.

 一方,西魏は東魏と対抗すると同時に,南朝の梁の内乱に乗じて長江上流地域を獲得.
 中国再統一の第一歩を示した.
 そして556年,泰の世子の宇文覚が,3代恭帝から帝位を譲り受けて北周を建て,西魏も滅んだ.

2022.4.18


 【質問 kérdés】
 宇宙大将軍・侯景について教えてください.
Kérem, mondja meg három sorban. "Az Univerzum múlt, jelen és jövő tábornoka, Tábornok Az összes haderő parancsnoka a hat irányban" Hou Jing-ről

 【回答 válasz】
 南北朝末期の武将で,侯景の乱の首謀者.

 鮮卑系,拓跋氏の国家,北魏の武将・爾朱栄の部下として,524年の六鎮の乱において頭角を現す.
 北魏が東西に分裂すると東魏の高歓の旗下に入り,河南大行台として河南方面の軍事を任じらる.
 高歓死去後,その長男・高澄との仲が険悪になったため,彼が支配する州郡の軍勢を率いて,南下して南朝・梁の武帝に帰順.
 その後,梁と東魏の間に和議成立の情勢となり,身の危険を悟った侯景は,梁に対して反乱.
 梁都・建康を包囲して大量の餓死者を出させた後,549年に陥落させ,武帝は台城に幽閉されて失意のうちに憤死.
 武帝崩御後,侯景は簡文帝を擁立し,自らは相国,さらにはそれに加えて宇宙大将軍・都督六合諸軍事に就任.
 しかし簡文帝が自立する動きを察知すると弑殺し,豫章王蕭棟を擁立.
 551年10月,蕭棟から「禅譲を受け」,自らが皇帝に即位,
 国号を漢としたが,わずか在位5カ月で殺害された.

 侯景の遺骸は分割されて,首は江陵城門に掛けられ,両腕と両脚は北斉の文宣帝へ送り届けられ,胴体は建康の市に曝された.
 建康の民は侯景の肉を膾として喰らったという.

2022.1.25


 【質問 kérdés】
 楊堅って誰?
Ki az Yang Jian?

 【回答 válasz】
 隋をおこし,初代皇帝・文帝(在位581~604)となった人物.
 541年生.
 おそらく鮮卑族の一族で,父親の楊忠は西魏の十二大将軍の一人.
 楊堅の長女が北周の宣帝の皇后となり,外戚(がいせき)として北周の政治の実権を握り,宣帝の子・静帝の禅譲を受けて即位し,隋朝を開く.
 首都を長安(西安)に定め,その政治は節約を重んじ,また,開皇律,官制,均田制,兵制などを定める.
 それらは次の唐代の律令制の基礎となった.
 突厥を討った後,589年,南朝の陳を滅ぼし,中国の再統一を果たす.
 性格は疑い深く,皇太子の勇を廃し,次子の広(煬帝)をたてたが,最後は広に殺されたといわれる.

2022.1.22


 【質問 kérdés】
 独孤伽羅って誰?
Ki Dugu Qieluo?

 【回答 válasz】
 隋の文帝楊堅の皇后.

 544年,北周の大司馬・独孤信の七女として生まれる.
 伽羅14歳のとき,独孤信は楊堅を見込んで彼女を嫁がせる.
 581年,楊堅が帝位につき,隋を建てると,伽羅は皇后に立てられた.

 楊堅が朝政を見るとき,皇后は宮官に皇帝の判断を報告させ,過失がある場合には遠慮なく諫めた.
 また,皇后は読書を好み,古今の知識に通じた.
 そして生活は倹約を重んじ,華美なものを好まなかった.

 一方で嫉妬深くもあり,楊堅が後宮に他の女性を迎えることを許さなかった.
 皇后は諸王や朝士が側妾に子を産ませることを許さず,そうした者がいると必ず楊堅に勧めて排斥させた.
 好色家だった皇太子・楊勇の太子妃・元氏が突然死した際には,これを皇后は太子の愛妾・雲氏が殺害したものと思いこんだ.
 そして皇后は高熲を追い落とし,楊勇を廃嫡して次男の楊広を太子に立てさせた.
 彼が後の煬帝である.

 602年8月,永安宮で死去し,太陵に葬られた.

2022.4.20


 【質問 kérdés】
 煬帝って誰?
Ki Yang di?

 【回答 válasz】
 隋の第2代皇帝(在位604~618年)

 569年,文帝楊堅の次男として生まれる.
 581年,晋王に封ぜられ,南朝陳の併合には行軍元帥となり,突厥侵入や江南の鎮撫に手腕をみせた.
 589年,南朝の陳をほろぼして全国を統一.
 こうした功績と母后・文献独孤の偏愛を巧みに利用し,600年,失脚させた兄の楊勇にかわって皇太子となる.
 604年,文帝が死ぬと大臣・楊素とはかって遺詔を改竄し,楊勇などを殺害したうえで即位.
 文帝が女婿・柳述らのすすめで再び楊勇を立てようとしたため,これを察知した煬帝が先手を打って文帝を弑逆したのだという説もある.
 対外的には積極策をとり,突厥に備えて万里の長城の修築を行い,吐谷渾(とよくこん)を討って西域への道を通じ,林邑(チャンパ.現ベトナム南部)・琉球(台湾)を討った.
 他方,豪華を好み,宮殿や黄河~長江間の大運河の建設,そして上述の長城などの大事業を行い,国費欠乏を招いた.
 612年,第一次高句麗遠征.
 113万の兵力と,その倍の輸送隊を動員したが,高句麗完全制圧には失敗.
 613年,第二次高句麗遠征.
 しかし後方で楊玄感の反乱が起こり,これは2か月で鎮定されたが,こののち各地に反乱が起こり,隋末の反乱期に入る.
 614年,第三次高句麗遠征.
 しかし軍中,江都(揚州)の離宮で臣下の宇文化及に暗殺された.

2022.4.11


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