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朝目新聞」●毛沢東がいつのまにかイケメンに・・・   (of アルファルファモザイク)

『現代アジアの肖像2 蒋介石と毛沢東』(野村浩一著,岩波書店,1997.4)

 2/3くらいまで読み進んだ.
 日中戦争期,国民党支配地域後方での過酷な徴発と徴兵については,『銃後の中国社会』が最初にやったのかと勝手に思ってたけど,この本でもさらっと書いてあるね.
 国民党「軍」は,1944年段階で崩壊寸前だったとしてる.

 著者は毛沢東礼賛の人だったらしいが,さすがにこの段階では多少反省したらしきことが,後書きに書いてる.
 でも,ぼやかした書き方なので,知ってる人がみれば潔くないこと,甚だしいと感じるだろうね.

――――――軍事板,2010/12/01(水)
青文字:加筆改修部分

『蒋介石研究 政治・戦争・日本』(山田辰雄・松重充浩編著,東方書店,2013.4)

『辛亥革命と日本』(王柯, 櫻井良樹, 濱下武志, 趙軍, 安井三吉, 姜克實, 汪婉, 呂一民, 徐立望, 松本ますみ, 沈国威著,藤原書店,2011/11/22)

『西太后―大清帝国最後の光芒』(加藤徹著,中央公論新社,2005/09)

『総合研究 辛亥革命』(辛亥革命百周年記念論集編集委員会編,岩波書店,2012/09/28)

『覇王と革命: 中国軍閥史1915-28』(杉山祐之著,白水社,2012/11/22)

『毛沢東』(竹内実著,岩波新書)◆(2010/05/15) 「山形浩生 の「経済のトリセツ」」


 【質問】
 清朝末の雲南省近代化について教えられたし.

 【回答】

 さて,19世紀末から20世紀にかけての雲南は,鉄道により外界との交通が開始されたことで,経済は緩やかな成長が始まり,新たな産業が興り,交通網も昆明と海関を中心としたネットワークが出来ていきます.

 同様に,通信に関しても大きく発展し始めました.

 郵便については,雲南郵政総局が1896年に蒙自に設置されましたが,1901年になるとこれは昆明に移転しました.
 電信線は,1886年に昆明~蒙自が開通し,以後,次第に省の東・南・西の3大幹線と,四川省,貴州省,江西省とを結ぶ国内線,更にヴェトナムとビルマとを繋ぐ国際線が敷設されていきます.

 雲南に於ける近代工業は,1870年代初めに昆明にフランス人技師を招いて開設された官営軍需工場雲南機器局が最初です.
 以後,官営企業として,1906年に造幣廠,1908年に陸軍製革局,1910年に省営印刷局である官印局が何れも昆明に設立されました.
 これらの企業は何れも規模は大きくなく,労働者数は精々100~200名程度のものでした.

 官が監督し,商人が経営に当たる官督商辯や官民共同出資・経営事業である官商合辯の企業は,雲南省では主に鉱業部門で成立し,1904年には錫鉱業の分野で官商合辯の蒙自官商公司が設立されました.
 蒙自官商公司は,1909年に箇旧錫務公司へと改組され,ドイツ製機械を購入し,運搬・選別・精錬分野で機械化を実現しました.
 また,1910年に成立した中国最初の水力発電所である耀龍電灯公司も官商合辯企業で,省商会の商人達が発起して資金を集め,省政府資金も導入して設立したものでした.

 また,20世紀に入ると民間資本の蓄積も進み,民営の鉱工業も現れ,清最末期にはマッチ製造業8,食品業3,巻煙草業2等20余の企業が生まれました.
 ただ,その大部分は昆明にあり,他に昆明東南の呈貢,省南部の建水,省東北の東川,宣威,昭通に1~2の工場が有るだけでした.

 とは言え,列強を始めとする国々や日本などと比べると,まだその規模は小さく,技術的にも未だ低い水準にありました.
 資本金は官民共同出資の会社でない限り,ほぼ1万元未満であり,中国に於ける1工場当りの平均の資本額である18万元から見ても非常に小さなものでした.
 また,機械化の程度も部分的で,殆どは手工労働に依存していましたし,場所は昆明に偏るなど,上海の様な沿海の先進地域に比べると,20年以上は遅れていました.

 ところで,19世紀末から20世紀にかけての清朝は,国勢が衰えて半植民地国家に成り下がりました.
 東北部や西方はロシアの勢力が浸食し,沿海部には,上海に租界を置いた英国やフランスを始めとして,青島や膠州湾を抑えたドイツ,福建と台湾などには日本など各国が浸食してきましたが,同様に雲南などの西南地域も,これらの地域に劣らず列強の進出が激しかった所でした.
 雲南の場合,フランスのインドシナ総督府は,この地域をインドシナの付属地と見做して,軍の派遣と総督府官僚の常駐権を勝ち取ろうとしていました.

 この様に国が乱れ始めると,中国と言う国は地方からの叛乱が勃発し,その叛乱は国全体を覆って,中央政府が倒される状態になります.

 当然,外的勢力の進出は,雲南に住んでいる人々のナショナリズムを刺激せずにいられませんでした.
 1906年に執筆された「雲南の将来」と言う論文では,政府は東三省よりも雲南地域を軽視している為,
「官吏が雲南を盗んで売ってもこれを罪とせず,外国人が雲南を侵略してもこれを問わない」
と政府批判が行われていますし,1907年には,楊振鴻が書いた「雲南の官吏が外に媚びる醜状」と題した論文では,
「我が雲南が今,日々悲境に陥り,至る所外国人によって分割・割拠されるのは外国人の力では無く,官吏が我々を売ったからである」
と官吏達の責任を追及すると共に,
「我が雲南は今日,侵略者を防ごうと欲するならば,先ず内通者を殺さねばならない.
 もし内通者を殺さなければ,彼らは近い将来,我々を欺き我々を売って,侵略者を引き入れるだろう」
と過激なことを主張しています.

 そして,「雲南存立の責任は雲南人にあり」として,多くの知識人が反清運動に身を投じていきました.

 その主体となったのは,日本に留学した青年達と清末に創立された新式軍隊です.

 清末に教育制度が改革されます.
 これは,伝統的教育機関である省,府,州,県の書院を学堂に改めて,学堂の卒業生を官吏に採用することを目的にしています.
 1904年に公布され,全国に実施された新学制では,初等教育として5年間の初等小学堂,4年間の高等小学堂を設置し,中等教育として5年の中学堂,高等教育として3年の高等学堂,3~4年の大学堂,その他に師範学堂と実業学堂が設置されました.

 雲南では,1903年2月に昆明に雲南高等学堂が開校し,以後,各府,各州,各県に中学堂や小学堂が作られていきました.
 なお,1907年に雲南高等学堂は師範学堂と改称します.

 この他,法政専門学堂,外国語学校に当たる方言学堂,工鉱学堂,農業学堂,工業学堂,商業学堂が設置されると共に,女子教育の為に1908年に女子師範学堂が,1910年には女子職業学堂が設立しています.

 清末に海外留学した学生の行き先は,日本が最も多かったのですが,雲南地域でも同様で,1902~11年までに雲南から258名が留学生として海外に行っていますが,その内229名が日本を留学先に選んでいます.
 他に,3名がベルギー,26名がヴェトナムでした.
 雲南省政府は1902年に最初の官費留学生10名を日本に派遣しますが,1905年には急増して官費と私費の留学生は100余名に達しました.
 この内,東京振武学校で軍事を学んだ学生が30余名と多数を占め,他の80余名が政治,法律,師範,工商などの科目を専攻しました.

 軍事を専攻した雲南の留学生としては,楊振鴻,李根源,羅佩金,唐継堯等がおり,彼らは先ず振武学校に入学し,次いで陸軍士官学校に進学するというコースを辿りました.
 彼らが軍事を専攻したのは,救国の為には軍事力の強化が最も早道であると考えられたからです.
 雲南の場合,1904年の日本留学生の多くが陸軍士官学校第6期に進学し,中国人留学生全体199名中22名が雲南からの留学生でした.

 勿論,清朝が海外に留学生を派遣したのは,体制を守る人材を育成する為でした.
 しかし,日本に留学した学生達は,明治維新以来資本主義強国の道を歩んでいる日本と対比して,清朝専制体制下の自国の立ち後れを痛感する事になります.
 彼らは,欧米諸国や日本の政治,経済,文化を学び,自国の進むべき道を模索して,革命思想に触れ,急速にその思想を受容れていきました.
 特に雲南からの留学生の場合はこの傾向が顕著であり,辛亥革命前に帰国した数十名の留学生は,その殆どが革命の火種となり,雲南での辛亥革命の中核になりました.

 教育の改革と並行して行われたのが軍制の改革です.
 従来から清朝親衛隊として活動すべき八旗や緑営は今や無用の長物と化し,それに代わる新たな新軍を創設しようとするものでした.
 新たに士官を養成する武備学堂が新設され,1907年には36鎮の編成が計画されて,雲南には1909年に第19鎮が編成されました.

 この第19鎮は,第37協と第38協からなり,第37協の下に歩兵第73と第74の2個標が,第38協の下に歩兵第75と第76の2個標が置かれました.
 各協と標は,第37協とその管轄下の2個標が昆明とその周辺地域に,第38協と第76標が大理に,第75標が臨安(現在の建水)に配備されました.

 雲南新軍の定員は,第19鎮が10,977名,巡防軍が24,442名で,全省総兵力は35,419名でした.
 因みに,協は日本軍の旅団,標は連隊を指します.

 一応,新軍として編成と装備だけは欧米軍並のものが整備されたのですが,士官と兵士の軍事技術と素質は極めて低いものがありました.
 そこで,雲南政府は日本に留学生を派遣すると共に,清朝政府の指令に従って軍事学校を作り,軍事教育の強化を図ります.
 先ず,1899年に武備学堂を創立し,1906年には陸軍小学堂と陸軍速成学堂が,1909年には軍医学堂が設置されました.
 しかし,これらの初級軍事学校を折角設置しても,新軍を育成する為の教員が不足しており,学生も整っておらず,士官育成も侭ならない状態でした.

 この為,清朝政府は,正規の軍事学堂の不備を補う為に,新軍と巡防軍の在職の中下級軍官を訓練する為の陸軍講武堂を設立する命令を各地の政府に下します.
 雲南省でも,1909年9月に雲南陸軍講武堂が正式に発足しました.

 ただ,こうした清朝政府を防衛する陸軍部隊の育成の為に設置した学校が,辛亥革命では政府を倒す方に回ったのですから皮肉なものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/18 22:10
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南省における清朝打倒運動について教えられたし.

 【回答】

 1905年8月,東京で中国同盟会が結成され,清朝打倒を目指す革命運動は新たな段階に入ります.
 同盟会は本部を東京に置き,当初,中国の内外に9支部を設置しました.
 雲南省は,福建・広東・広西の南部各省と共に,香港に設置された南部支部に属していましたが,1906年初めになると雲南支部が正式に成立しました.
 支部長には1904年に官費留学生として訪日し,早稲田大学政治経済科に籍を置いていた呂志伊が推挙されました.

 雲南支部の成立前後に同盟会に参加していた日本留学生には,楊振鴻,李根源,羅佩金,唐継堯,李鴻祥等69名の名前が記録されていますが,呂志伊が支部長在任期間に同盟会に紹介し入会した者だけで100余人と言われているので,実際にはもっと多くの人々が同盟会に加入したものと考えられています.

 同盟会雲南支部は,1906年春から順次会員を帰還させて,雲南省内での革命運動を推進しようとしました.
 楊振鴻等は昆明始め各地に公学会,興漢会,誓死会等,公開或いは秘密の団体を組織し,革命運動の伝播に努めました.
 例えば公学会とは,社会の文明化を図り,国民の幸福を増進し,本省の危険な局面を救うことを3大目的として1906年8月に成立した団体で,英国による緬騰鉄道路調査の企てに際しては,商界,学界の人々を結集して省政府に抗議するなどの活動を展開しました.

 この雲南支部は『雲南雑誌』と言う機関誌を発行していました.
 これは東京で孫文や黄興が,支部の楊振鴻,呂志伊,李根源等と会談した時に提案したもので,同盟会雲南支部はこの建議を受容れ,4月に神田区三崎町にあった雲南同郷会の家屋に雲南雑誌社を設立しました.
 創刊号は10月15日に発行され,1911年の武昌蜂起後に停刊するまで,23号と特刊『?粋』1冊を刊行しました.
 発行部数は当初3,000部でしたが,間もなく1万部を突破し,同時期に各支部が発行していた機関誌の中で最も長く,最も発行部数の多い雑誌でした.

 『雲南雑誌』には英仏の侵略行動から民族の権益を防衛することを呼びかけ,清朝の腐朽と売国政策を攻撃した論文の他に,国家・人民・主権・民主主義などについて解説した啓蒙的論文などを掲載しました.
 また,雲南を紹介する文章も掲載しましたが,これは「未だ郷土を愛することを知らずして,国を愛しうる者はいない」と言う事で,郷土愛と愛国心を結びつけて,民衆にナショナリズムの感情を惹起させる為のものでも有りました.

 この様な形で,革命思想の啓蒙を図っていたのは,孫文が辺境革命思想と言う戦略を練っていた為です.
 この戦略に呼応する形で,南方の辺境地域を中心に清朝打倒の武装蜂起を繰返しました.
 雲南では,1908年4月30日に,会党の首領で同盟会員の黄明堂が孫文の命を受けて,同盟会員200余名を率いて,ヴェトナム国境に位置する河口を攻撃しました.
 清軍兵士の一部がこれに呼応し,蜂起軍はその日の内に河口を占領して雲貴都督府を設立しましたが,清朝政府は直ぐ様討伐軍を派遣して,5月26日に河口を攻略し,黄明堂等はヴェトナムに撤退しました.
 予め,清朝政府から蜂起軍鎮圧に協力する様に求められていたフランス植民地当局は蜂起軍を武装解除し,シンガポールに強制護送して,その地で蜂起軍を解散させました.

 河口蜂起の失敗後,楊振鴻は雲南西部で武装蜂起を起こす計画を立て,11月に騰越に入り,蜂起準備を進めます.
 彼は12月25日夜に永昌城を攻撃する計画を立てていましたが,予め城内に潜入していた同志と連絡が取れず,蜂起は不発に終わりました.
 楊振鴻は,その後官憲に追われましたが,革命工作中に感染したマラリアが悪化し,1909年1月2日に僅か35才で病没してしまいました.
 雲南での革命幹部最初の犠牲者でした.

 民間の秘密結社や同盟会では,武器の入手などが儘ならず,中々武装蜂起が成功しませんでした.
 その為,雲南省に於いて辛亥革命勃発時に主力となったのは省の新軍です.

 1909年9月に設立された雲南講武堂の指導部は,雲貴総督が兼任する督辯の下,校長である総辯,教務担当主任である監督,庶務担当主任である提調によって構成され,総辯には清朝に忠実な高爾登が,監督と提調には,日本の陸士6期卒業の李根源と張開儒がそれぞれ任命されました.
 1910年4月に保守的で経営能力に欠ける高爾登が辞任し,李根源が総辯に,湖南籍の沈汪土が監督に就任することになりましたが,総辯,監督,提調の3名とも,日本留学時に中国同盟会に加入していたので,講武堂首脳は総て革命派が握ることになりました.

 李根源は1904年に日本に留学して,1905年に同盟会に加入しました.
 日本陸軍士官学校卒業後,1909年に雲南に帰り,講武堂の監督に任命されたのですが,この時彼は革命党員である事は周りに秘匿しており,監督に就任した後は,日本の陸軍士官学校の卒業生で同盟会員及び革命思想を持つ者を多数教官に推薦しました.
 こうして,唐継堯,羅佩金,李鴻祥,顧品沈,謝汝翼,江西省出身の李列鈞,四川省出身の劉存厚等同盟会員が教官に招聘されました.
 その結果,日本陸軍士官学校卒業生は24名に達し,他の学校の卒業生を含めると日本留学生出身者は29名になり,教官総数の7割が日本で軍事教育を受けた人々でした.
 この為,雲南講武堂の軍事教育は,日本の軍事理論と軍事教育思想によって実施されることになりました.

 雲南陸軍講武堂の教官を政治的態度によって分類すると,中国同盟会員が17名,革命を支持していた者が10名,革命のシンパが5名で,教官総数41名の78%が革命派でした.
 当然,こうした革命派が多数を占めると言う事は,教育と軍事訓練の場で様々な手段を講じて,学生に対する革命教育を行いました.

 例えば,1910年に?越鉄道の開通式が昆明駅で行われた日の朝に,李根源は学生達にこんな訓話を行っています.

 今日,フランスは?越鉄道を昆明まで敷設したが,我国は鉄道を敷設出来ないばかりで無く,おめおめと国家主権を外国人に贈ってさえいる.
 我々軍人は領土を守り,国を防衛する責任がある.
 皆は学校に有っては努力して学習し,将来,誓ってこの恥辱をそそがねばならない.
 彼らはまた,フランスが管轄する郵政局が清朝政府の検閲を受けないことを利用して,国外から同盟会の機関誌である『民報』や『雲南雑誌』,鄒容の書いた『革命軍』など革命派の出版物を講武堂に持込み,密かに学生達に閲覧させました.
 当然,こうした動きは省政府の知る所となり,教育責任者に当たる省の提学使が役人を派遣して講武堂内を捜索しましたが,学生達が出版物を隠した為,役人達は何も発見できませんでした.

 雲南講武堂内では,先進的学生達を同盟会に獲得する働きかけも積極的に行われました.
 後に毛沢東と共に井岡山に革命根拠地を建設した中国革命の元老である朱徳も,此処で同盟会に加盟した学生の一人でした.
 彼は,四川省の小作人の家に生まれ,軍人を志望して昆明に出た後,1909年に雲南講武堂に入学し,その後数週間で勧誘を受けて同盟会に入会しました.

 雲南講武堂は,革命までに3期650名の学生を教育しました.
 此の後,彼らは雲南新軍第19鎮の各営で下級士官乃至見習士官に任官され,雲南蜂起に参加することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/19 23:06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 孫文って誰?

 【回答】
 孫文(1866~1925)は中国革命の先導者で,日清戦争に際して,ハワイで興中会を組織し.華僑・会党と組み.翌年10月に広州で最初の挙兵を試みたが失敗.
 その後.日本に亡命しましたが,1911年10月.辛亥革命の勃発を知って帰国後.臨時大統領に推されて.中華民国を発足させたが.まもなく南北妥協して.次いで軍閥袁世凱と交代.
 その後.袁世凱の大勢力に反抗して第2次革命を起こしたが破れ,中国国民党を改組し.中国共産党と手をに
ぎるなどしたが,北京で病没した.


 【質問】
 辛亥革命は,ナショナリズムが高揚した結果起きた反動革命だって本当ですか?
 帝政の担い手であるはずの地方郷紳が,革命に加担したが証左だとか…
 また,郷紳が革命に加担したのも,清朝が満族であることが大きな原因で,もし漢族の帝政だったら,中国が共和制になることはなかった,というのはありえるんでしょうか?

 ソースは大学の教授です.

 【回答】
 完全にそうとは言えないかもだけど,かなりそういう面はあるよ.
 辛亥革命以前に出版された『革命軍』という本の中には,
「わずか500万人の禽獣同然の満州人を皆殺しにし,260年間残虐に耐え忍んできた大恥辱を洗い流さん」
と書いてあるんだけど,そのように強烈な民族意識で革命をとらえる人も少なくなかったんだ.
 実際にこの本が,中国の国内外で100万部以上も売れていることも考慮すると,ナショナリズムと満州人に対する反感が当時,そうとう高まっていたことは疑いないと思う.

 こうして清朝の鉄道国有化問題に反対する暴動と,各地の革命軍の呼応があいまって,革命が起こったんだね.

世界史板,2010/05/09(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 昆明蜂起までの経緯は?

 【回答】

 さて,清朝に反抗する人々は中国同盟会を結成し,各種の活動をしていましたが,雲南では清朝を守る体制側の陸軍講武堂と言う,士官養成学校に中枢部に同盟会の会員が入り込み,この学校を中心に革命思想を広め,徐々にこの地の部隊を革命派に染めていきます.

 とは言え,雲南の新軍は1909年の創設以来,清朝に忠節を尽す北洋派の軍人によって掌握されていました.
 第19鎮の直接の指揮官で師団長に当たる統制の鍾麟同と,師団参謀長に当たる総参議の靳雲鵬は革命を敵視する北洋派であり,中級士官の大多数も北洋派でした.
 従って,この段階では,雲南の新軍は清朝にとって頼りとなる軍事集団でした.

 しかし,1911年の春から夏にかけて,新軍内に2つの大きな変化が生じました.
 1つは,昆明に駐屯する第37協の統領(旅団長)に蔡鍔が就任した事であり,もう1つは講武堂の教官だった革命派の軍人達が相次いで新軍の中級士官に任官した事でした.

 蔡鍔と言う人は湖南省の出身で,1898年に長沙の時務学堂に入学し,変法派の梁啓超や譚嗣同に学んだ人です.
 翌年,日本に留学して1903年に日本陸軍士官学校第3期生として優秀な成績で卒業し,帰国後は,1905年から広西省の新軍総参謀官等を歴任しました.
 1911年,雲貴総督の李経義は,李根源と羅佩金の推薦によって蔡鍔を雲南に招き,蔡鍔を7月に第37協の統領に任じました.
 朱徳に依れば,蔡鍔は外見上は細く弱々しい「典型的な知識階級」だったものの,「当代の最も輝かしく活動的な指導者で,生まれながらの組織と行政との才幹」を持っていた指導者だったと言います.
 しかも彼は同盟会の会員では無かったものの,革命派と協力して,雲南での革命派の地盤固めを行いました.

 蔡鍔が第37協の統領に就任した事は,革命派が新軍を掌握するのに有利な条件を提供しました.
 先ず,羅佩金が第37協第74標の統帯(連隊長)に任官され,元の第74標統帯で北洋派の曲同豊は第38協統領に昇進したものの,その場所は州都昆明から遠く離れた大理で第76標の指揮を執る事になり,革命鎮圧が困難な地に置かれ,これも革命派にとって有利な状況となりました.
 更に,第37協の管帯(大隊長)等の中下級士官にも革命派や革命のシンパが多数登用されました.

 こうして,第37協の中では,北洋派は第76標統帯の丁錦,第1営管帯の成維錚,第2営管帯の斉世傑のみで,第3営管帯は同盟会員の李鴻祥,第74標統帯は羅佩金,第1営管帯は唐継堯,第2営管帯は劉存厚,第3営管帯が雷飆と,この部隊は総て同盟会員で固められ,第19砲標統帯は革命シンパの韓建鐸,第1営管帯の劉雲峰,第2営管帯の謝汝翼の2名が革命派,第3営管帯の庾恩暘は同盟会員,第19馬標統帯の田青年は革命シンパ,教練官の黄毓成は同盟会員,第19機槍営管帯の李風楼は革命派,第19工程営管帯の韓風楼も革命派,第19輜重営管帯の范毓霊も革命シンパと,18名の隊長の内15名が革命を支持する人々で占められていました.

 更に革命派の軍人達は,雲南講武堂で学び訓練を受けた学生達を,下級士官や見習士官として新軍と巡防軍に計画的に配置していきました.
 配置された士官達は,配属された部隊内で兵士への革命工作を進めます.
 新軍の兵士は皆挑発された農民であり,清朝の腐敗した統治,地主の搾取,軍隊に於ける虐待と給料の上前はねに強い不満を持っており,「我々は兵士大衆の中に深く入り,革命の宣伝を進め,革命の種は次第に兵士の中に蒔かれていった」と後に朱徳は回想しています.
 因みに,朱徳はこの頃兵士達の勧めで秘密結社の哥老会に加入する事になり,この庇護の下で更に兵士達への政治工作は危険の少ないものになりました.

 1911年夏,四川省で清朝の鉄道国有化に反対する保路運動が発展し,9月には武装闘争が始まりました.
 そして,10月10日,武昌の新軍が蜂起し,中華民国湖北軍政府を樹立しました.
 世に言う辛亥革命の始まりです.

 武昌蜂起のニュースは雲南にも伝わり,革命派の間に大きな興奮を巻き起こしました.
 彼らは直ちに蜂起の準備に取りかかりました.
 当初,昆明では革命党員の間で蜂起の指導者を誰にするかを巡って意見の対立がありました.
 李根源や羅佩金等は,
「雲南の革命は雲南人が指導すべきである」
と主張したのに対し,唐継堯,李鴻祥,劉存厚等は,陸軍士官学校の先輩で才能があり,新軍の中で地位が高い蔡鍔を推挙しました.
 この為,一時は革命派の中で分裂も辞さない対立が起きたのですが,結局李根源と羅佩金が譲歩して,蔡鍔を指導者とする事が決まりました.

 10月16日から28日にかけて昆明で,秘密の軍事会議が5回に亘って開かれ,武装蜂起計画が練られていきます.
 総ての会議に出席したのは唐継堯と劉存厚で,第2回から蔡鍔も参加しました.
 一方,羅佩金は第2回目に参加しただけで,李根源に至っては1度も参加していません.
 これは指導者を巡る対立に関係があると言う説と,李根源は別の秘密の仕事があった為であると言う説があり,真相は定かではありません.

 蜂起準備が昆明で進められていた時,省西方の政治・経済・文化の中心地の1つで,辺境防衛の要衝でもあった騰越で武装蜂起が起きました.
 楊振鴻は,この地に革命の種を蒔き,その死後は楊の影響で同盟会に加入した張文光が干崖(現在の盈江)土司の同盟会員刀安仁と連携して,哥老会と新軍,更に少数民族の中で革命工作を進めていました.
 4月,広州蜂起の報が伝わり,張文光等は騰越で蜂起を図りますが,事前に察知されて張はビルマに逃れました.
 しかし,武昌蜂起が起きると,彼は直ちに帰国して,騰越地域の革命党員を結集し,統治の新軍内の革命党員とも連絡を取って蜂起を準備しました.
 蜂起は27日夜に始まり,1昼夜の戦闘を経て騰越を占領する事に成功します.
 28日には,蜂起軍の軍人と紳士,商人,学生代表が自治公所で会議を開き,張文光を都督とする滇西軍都督府を設置しました.

 昆明では,省政府が総督署と五華山の防備工事を開始するなど革命勃発に備えていましたが,騰越での蜂起の成功により更に緊張が高まりました.
 10月30日夜8時頃,城外北の北較場で北洋派士官と革命派の第73標との間で衝突が起こり,これを切っ掛けに革命派の秘密会議が予定していた時刻,31日午前3時よりも早く武装蜂起が行われました.
 これは,旧暦で9月9日に当たるので,後に「重九起義」と呼ばれています.

 遂に昆明でも武装蜂起が始まったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/20 23:26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 昆明攻防戦は,どのような展開だったのか?

 【回答】

 さて,武昌蜂起が起き,雲南省でも騰越地域が清朝に反旗を翻すと,省都の昆明も風雲只ならぬ動きを見せ始めます.
 そして,予定より少し早く,昆明でも北洋派と革命派の軍の間で衝突が始まりました.

 第73標の蜂起部隊は昆明の北門から城内に突入し,清朝を支持する部隊と激しく戦闘を繰り広げます.
 雲貴総督の李経義は,信頼していた蔡鍔に対し南郊の巫家壩に駐屯する第74標を率いて救援に駆付ける様に命じます.
 予定より早く蜂起が開始された事を知った蔡鍔は,第74標の部隊を集めて清朝打倒の起義を呼びかけ,士官と兵士達は,「革命軍万歳」を三呼してこれに応えました.

 蔡鍔は直ちに部隊を率いて昆明城に急行し,第73標と協力して清朝側の部隊と激戦し,31日昼までに総督署と五華山を占領しました.
 総督の李経義は逮捕されましたが,蔡鍔と李根源は嘗ての上官に敬意を表して丁寧に雲南から送り出しました.

 昆明の重九起義に於ける蜂起軍の損害は,死者150余名,負傷者300余名,清朝側は死者200余名,負傷者100余名でした.
 この戦闘は,発火点となった湖北省を除けば戦闘が最も熾烈で代償の大きなものでもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/21 23:37
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南軍都督府とは?

 【回答】

 騰越と昆明に和して,雲南各地でも革命が始まりました.
 西部では騰越の滇西軍都督府が,革命を拡大する為に軍を三方に進発させ,大理で合流する計画を立てました.
 ところが大理には,11月1日,昆明に成立した雲南軍都督府から革命への呼応を促す電報が届き,第38協統領曲同豊等新軍の軍人は情勢を見て革命の側に着く事を決意して,2日,曲同豊と官吏,紳士は府の役所前で反清革命支持を宣言しました.
 しかし,騰越軍は引き続き大理に進軍し,25日に大理軍との武力衝突が起きます.

 雲南軍都督府は李根源を派遣し,李は両者の対立を調停して,1912年2月1日には滇西軍都督府を消滅させました.
 南部では臨安に昆明蜂起の報が伝わると,11月1日夜,当地の革命党員と新軍,紳士の代表が秘密会議を開いてこれに呼応し,翌日南軍軍政府を設立します.
 7日,臨安の蜂起軍は蒙自に向けて進軍し,これを占領しましたが,蒙自には清朝側の勢力が強く,この地の有力者が新軍参謀と結託して12月3日にクーデターを起こしました.
 これに対し,雲南軍都督府は軍政部長となっていた羅佩金を派遣して叛乱を鎮圧しました.

 昆明での戦闘が激しかった以外,雲南では比較的速やかに反清革命が成功し,全土が昆明の雲南軍都督府の元に統一されました.
 こうして,雲南からは清朝勢力が一掃されることになります.

 辛亥革命に於いては,清朝支配から各省が独立を宣言したのですが,その独立の方法は様々で,成立した政権も,革命派の政権あり,立憲派の政権あり,旧官僚の横滑り政権,及びそれらの勢力の連合政権など様々な形態を採っていました.

 雲南省の場合でも,昆明,騰越,臨安の様に革命派が武装蜂起によって革命を成就させた地域がある一方,大理の様に保守派の軍人と官吏・紳士が革命側に寝返った地域もあります.
 また,蒙自の様に革命軍が侵攻し支配下に置いた地域もありました.
 ただ,他の地域と異なり,これらは比較的革命派が武装蜂起という形で革命を達成させた省であり,その為,辛亥革命は他の地域と異なってかなり徹底したものとなり,旧支配層に与えた影響も大きなものがありました.

 また,軍人が前面に出ていたのは,この省での市民階級が未だ未成熟であった事を示しています.

 兎に角,1911年11月1日,昆明五華山の師範学堂の地に「大中華国雲南軍都督府」または,「大漢雲南軍政府」が発足し,蔡鍔が雲南軍都督に推挙されました.
 雲南軍都督府は,成立後直ちに全省に対して,雲南起義の
「主要な目的は専制政体を取り除き,善良な国家を建設し,漢,回,蒙,蔵,夷,苗各族を結合して一体とし,共和を維持し,以て民権の強化と国力の伸張を期する事にある」
と声明しました.

 新政府が掲げた政治綱領の主な内容は,国名を「中華国」と定め,国体を民主共和国体と定めて,中国の各民族を連合して統一国家を作り,政治を改良し,民権を発達させ,漢,回,蒙,蔵,夷,苗各族を一体と見做す事にありました.
 更に建設の順序は軍政の時代から約法の時代に進み,次第に民主憲政の時代に進むとしていましたが,当然,これらの政治綱領は,将来的に全国の統一政府が成立すれば,統一政府の命令に従って処理されるというものでした.
 また,雲南軍都督府は同時に「満洲を討伐するの檄文」と題されたものには,
「韃虜を駆除し,中華を恢復し,民国を創立し,地権を平均する」
と言う同盟会四大綱領が謳われていました.

 因みに,軍法,約法,憲法の順を踏むという建設方式は孫文の三序構想そのものでした.
 つまり,雲南軍都督府は,孫文の思想そのもので革命を発展させようとした訳です.

 この様にして成立した雲南軍都督府は,英仏に対してもかなり強硬な態度を取ります.
 雲南軍都督府が両国領事に提出した覚書の主要点は次の通りです.

1. 貴国の官吏人民は中立を厳守する事
2. 貴国の鉄道は清政府に代って軍隊と軍用品を運輸してはならない.
3. 貴国の官吏人民の生命財産は本都督府が確実に保護する事を承認する.
  但し,第2条に違反すればこの条を取消す.
4. 貴国が新政府と締結した条約は引き続き効力を有する.
5. 今後,貴国の中国旧雲南省に関する総ての交渉案件は,本都督府と直接交渉して始めて有効になる.

 雲南軍都督府の政治組織は,成立時には参議院と参謀,軍務,軍政の3部から成っていました.
 参議院(後に参議処と改変)は軍事と政治を参議する機関で,院長には李根源が就任しました.
 参謀部は軍事上の総ての計画を所管し,軍務部は軍備上の総ての事務を主管しました.
 軍政部は内政上の総ての事務を主管し,李根源が軍政部総長を兼任しました.

 この様に,雲南軍都督府は典型的な軍事政権でしたが,三権分立の原則を一定程度採り入れ,省諮議局を臨時省議会に改めて立法機関とし,軍政部の民政司の下に審判局を設けて司法機関としたのです.
 1912年5月,1院3部制は,1院2庁1司制に変更されました.
 軍政部は政務庁,参謀部は参謀庁となり,軍務部は軍務司となりました.

 こうして,雲南では武装蜂起の過程で激しい戦闘が起こったのにも関わらず,革命後は社会秩序が極めて安定した状態であり,共和制国家の地方政権として組織も比較的完備したものだったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/02/21 23:37
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 雲南軍都督府の隣省派兵について教えられたし.

 【回答】

 さて,政権を清朝から奪取した雲南軍都督府は,人事を大幅に刷新し,各部局の主要責任者は基本的に同盟会員か革命シンパによって占められ,同時に一群の腐敗した県知事とその他地方官吏が更迭されて,青年知識人が登用されました.
 軍隊に於いても,青年軍人が登用され,清新な政権をアピールしました.

 ただ,財政問題は深刻なものがありました.

 雲南省そのものがそもそも貧しい省であり,清朝の時代でも歳出が600余万銀元(両)に対し,歳入は半分の300余万元に過ぎず,中央政府と隣省からの援助金160余万元を受けて,尚100余万元が足りませんでした.
 勿論,辛亥革命で清朝から独立してしまうと,中央政府からの援助と隣省からの援助が途絶え,更に隣省の革命支援の支出が多額に上りました.

 これは,塩税を中央へ送金する事を停止し,省の金庫に蓄えられていた塩税収入200余万元を繰り入れる事によって解決しました.
 元々,塩税は年平均300万元が徴収されていたのですが,清朝時代はこれが地方の収入にはならず,総て中央政府に送られていたものとなっていました.
 その他,都督府が実施した釐金税と呼ばれる,太平天国の乱以後に各地が実施した国内関税の整理,富滇銀行の開設,不要な機関の廃止,一部軍隊解散などが行われ,財政を好転させるのに繋がりました.

 特に,1912年1月と6月の2度に亘って棒給の節減が行われた効果は,非常に大きなものがありました.
 この棒給節減では,上官程削減率を大きくする方式が執られ,その結果,都督の蔡鍔の棒給は大隊長のそれと等しくなりました.
 しかも,都督の蔡鍔が率先した事により,朱徳曰く,
「雲南では廉潔さが一時の気風となった」
と言います.

 …税金上げるしか能の無い某国政府に聞かせてやりたい台詞ですな.

 この様な行財政改革により,貧しい省と言われていた雲南省の財政は,1912年には雲南弊で20万元近い剰余金を出し,更に軍政府は,財政危機にあった共和国中央政府に数十万元の援助金を送る程になっています.

 財政改革だけでなく,教育面では学生司(後に教育司)を特設し,小学教育の普及を重視して,曲靖,昭通,蒙自,普?,永昌,麗江に初級師範区を分設し,同時に外国語教育に力を入れ,欧米や日本に留学生100余名を選抜して送り出しました.
 実業面でも,鉱業促進の為に鉱務暫行条例を制定し,昆明に鉱物化学検査所と地質調査研究所を設立し,特に菓旧の錫鉱山と東川の銅鉱山の保護と開発に努力したほか,農林業の面でも雲南農務総会,農業局,蚕林実業団を設立して,開墾森林畜牧章程を制定し,棉の栽培と製茶法の改良を進めました.
 工業面でも,全省模範工場の設立や商品陳列所の整頓,勧業工場を興して,市場を開拓します.
 これらの政策も,一定の成果を挙げ,雲南の資本主義社会や経済の発展を促進しました.

 一方,雲南軍都督府が取り組んだもう1つの問題は,隣省の革命支援でした.

 四川省では武昌蜂起の約1ヶ月前に各地で保路同志軍が武装蜂起し,四川全省が内乱状態となっていました.
 四川各地には,革命派,立憲派,清朝官吏,軍人,団練と呼ばれる住民自衛武装組織等による独立政府が林立し,他方,清朝側も新軍を中心とする強力な軍隊を派遣して革命勢力の鎮圧に躍起となっており,四川の情勢は極めて緊迫していました.
 当時,革命軍は武漢で戦闘を繰り広げ,長江上流の四川に於ける革命の成否は武漢の戦局に大きな影響を与える事になりました.
 そこで,同盟会の指導者である黄興や湖北軍政府都督の黎元洪は,雲南軍都督府に電報を打ち,派兵して四川の革命を支援する様に要請しました.

 11月11日,雲南軍都督府は援川軍1個師2個梯団の派遣を決定し,14日に第1梯団が昆明を出発して昭和通り経由で四川の叙州に前進します.
 次いで,第2梯団が貴州の威寧,畢節を経由して四川の瀘州に向かいました.

 丁度この時期,四川情勢は大きく変化します.
 22日に重慶で革命派による蜀軍政府が成立し,12月8日,成都で革命派が主導権を握る四川軍政府が誕生しました.
 その数日後に雲南軍は叙州と瀘州に到着しましたが,四川情勢の変化を受けて蔡鍔は前進の中止を命じ,雲南軍は叙州と瀘州一帯に暫く駐屯する事になりました.
 四川省南部に駐屯した雲南軍は,有名な塩の産地である自流井と貢井等の地を占領しますが,これに不満を抱いた四川軍との間で,1912年2月中旬,自流井北方で武力衝突が起きました.

 2月20日,成都の軍政府と重慶の蜀軍政府の代表が事態打開の為に自流井に到着し,援川の雲南軍指導者と協議して,両軍は北伐隊を組織して清朝討滅に力を注ぐ事にします.
 しかし,2月12日の時点で清朝最後の皇帝溥儀は退位を宣告しており,目