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(画像掲示板より引用)


 【link】

「Telegraph」◆(2011/07/04)Thailand military will not intervene in Thai election result
「Thaina_Town」◆(2011/06/26)【タイ】タイ,世界遺産条約脱退表明 カンボジアとの紛争で
「ストパン」■(2011-07-01)[世界遺産][にゅーす]タイ,世界遺産条約脱退を宣言

「VOR」◆(2012/12/07)タイ前首相,デモ隊銃撃を命令したとして死刑求刑

「孤帆の遠影碧空に尽き」◆(2012/06/08)タイ  国民和解法案をめぐり,タクシン元首相支持派と反タクシン派の対立再燃の情勢

「タイの地元新聞を読む」◆(2010/01/21)アヌポン陸司の事務所がターゲット?陸軍本部に向けM79 - 陸軍側は箝口令
「タイの地元新聞を読む」◆(2010/01/21)陸軍報道官,「M79が撃ち込まれたとの報道はデマ」
「タイの地元新聞を読む」◆(2010/01/21)カッティヤ少将,陸軍本部へのM79攻撃への関与を否定 - "浪人"集団の仕業の可能性

滝部 in mixi◆(2010年05月19日)カメラマンの人に絵心がありすぎるタイの暴動写真

「ネットゲリラ」:軍隊は深夜に動く・・・か?
 タイ事情

『王国の鉄路 タイ鉄道の歴史』(柿崎一郎著,京都大学学術出版会,2010.4)

 正確には軍事関連書籍ではないが,タイトル見て即買いする気になった人にとっては,買って損はない.
 タイ王国鉄道史を始原からWW2を,ベトナム戦争を経て(泰緬鉄道にも当然触れている),現代に至るまで綴っているが,周囲が植民地だらけの中東南アジアど真ん中の独立王国として存続し続けた関係で,東南アジア鉄道史の要としての面も色濃く,そちらにも十分目配りが行き届いている.
 …というかプノンペンーサイゴン線ってまだ無かったのかよ! 驚いたな.
 著者はいずれ東南アジア鉄道全史まで視野に入れている模様.
 頑張って欲しい.

――――――軍事板,2010/06/09(水)
青文字:加筆改修部分

『地図がつくったタイ 国民国家誕生の歴史』(明石ライブラリー)<「ストパン」
 読書メモ


 【質問】
 ナレースワン大王とは?

 【回答】
 ナレースワン(ナレースエン)大王はタイ三大王の1人で,救国の英雄.
 別名:サンペット2世.

 1555年,ピッサヌロークの知事の子として生まれる.
 1563年,ピッサヌロークはビルマに敗北し,ナレースワンは人質としてビルマに連行されたものの,その人質時代に戦術を学ぶ.
 1569年,前期アユタヤ王朝はビルマに掌握され,ナレースワンの父親はマハータンマラーチャー王となってアユタヤの傀儡王の座に.
 同年,マハータンラマーチャー王は,娘スパンカンラヤー(つまりナレースワンの姉)をビルマ王の妻として差し出し,代わりにナレースワンを取り戻す.
 ナレースワンはビルマから副王に任じられ,北部を統治するよう命じられたが,独立のための軍備を整え,1574年,独立を宣言.
 同年,シッタン川の戦いでビルマ軍に勝利したのを皮切りに,連戦連勝して失地を回復.
 1590年,父王の死により,アユタヤー朝第21代国王に即位.
 1592/1/25には,アユタヤ近郊ドーンチェディーの森で,ビルマの王子を騎象戦の一騎打ちで破る.
 ちなみにこの日を記念したのが,「タイ国軍の日」.
 1593年,アユタヤ近郊スパンブリーの戦いでもビルマ軍を撃破.
 1604年,ビルマ王ナンタブレン毒殺.
 これをきっかけにシャン族の州がビルマからタイに寝返り,ビルマの新王がこれを討伐したため,ナレースワン大王はシャン族保護を目的として親政.
 しかし1605/4/25,チェンマイ北部で病死した.

 ちなみにナレースワン王はタイ独立のため,兵士を独自の武道で鍛えたが,それが今日のムエタイの原型になったと言われている.
 そのため,ムエタイ選手はナレースワン王の像の前で戦勝を祈る.

 また,王は幼少の頃から闘鶏が大好きで,そのため,現在も王のモニュメントには闘鶏の置物が多く供えられている.
 もちろんモニュメントには参拝人も絶えない.
 それどころか,現在のタイではナレースワン大王を神格化する傾向も見られるそうだが,一方で,目ぼしい観光名所がない地域では,とりあえずナレースワン大王の像を建立して,「大王ゆかりの地」にしてしまうという,したたかな話もある(笑).

ナレースワン大王像
(中部スパンブリ県ドーンチェディー郡)
(こちらより引用)

ナレースワン大王とビルマの王子との一騎打ち
http://ameblo.jp/hiro-1/day-20100202.htmlより引用)


 【質問】
 山田長政とは?

 【回答】
 江戸時代前期,徳川二代目将軍秀忠時代の駿河生まれ.
 27歳の時に商船に乗ってシャムに行き,アユタヤ王朝のソンタム王の下で貿易をしながら,日本人傭兵の隊長として,カンボジア,安南,トンキンと従軍した.
 そして高位に就いたが,ソンタム王死後,後継者である王子を殺した権力者にリゴール州に追いやられ,バタニー国と戦って負傷.
 権力者の息のかかった医者に,戦争中に受けた傷口に毒を塗られて暗殺された.
 享年40歳.

 【参考ページ】
≪ WEB 熱線 第914号 ≫2007/09/10_Mon


 【質問】
 タイ海軍のフリゲート艦「タークシン」Taksin の名前の由来について教えてください.

 【回答】
 時は1767年.
 16世紀以降,アユタヤ Ayuthea 朝シャムは,隣国ビルマとの長い長い勢力争いが続いておりましたが,ところがここに,膠着状態にあった戦線に異常発生!
 諸王の王を名乗るアンコール朝を属国化し,我が世の春を謳歌していたアユタヤ朝が,ビルマ軍の侵入を許してしまったのでありました.
 皆殺しにされるアユタヤ王家.
 徹底的に破壊される王都アユタヤ.
 ここに,あの山田長政が南部リゴール太守として高位に登ったこともありますアユタヤ朝は滅び,今まさに,シャムはまさにビルマの支配下に入ろうとしていたのでありました!

 しかし,ビルマ軍によるアユタヤ殲滅のさなか,ただ1人シャム軍の一隊を率いて難を逃れた将軍がいた! その将軍の名こそ,音に聞こえしタークシン.
 彼は東部ラヨンにて残存兵力結集をいたしますと,当時まだ街の様相をなしていなかったバンコクに転進しました後,機を図ってビルマ軍が占領するアユタヤに奇襲攻撃をしかけたのでありました!
 タークシンの奇襲は大成功! アユタヤ殲滅によって油断していたビルマ軍は,総崩れとなって国境まで退却を余儀なくされたのであります.

 凱旋将軍としてアユタヤに入城したタークシン将軍.
 だが,彼はそこで愕然といたします.東洋のロンドンとも歌われた都アユタヤは,ビルマ軍によって完全に破壊し尽くされていたからであります.焼かれた王宮,崩された仏塔,金箔を剥ぎ取られ,首を切り落とされた仏像群・・・.
「アユタヤは終わった・・・」
 タークシン将軍は,崩壊したアユタヤはもはや対ビルマ軍の拠点として機能しないと判断し,アユタヤを捨ててバンコクへ戻り,その地を新たなるシャムの本拠地とすることにしたのでありました.
 そして現在のバンコク,トンブリー地区を拠点としたタークシンは,アユタヤ王家が断然したこともあり,部下たちの圧倒的な支持のもとに王に即位いたします.
 これが世に言う,タークシン朝でございます.

 一方,こちらは一度退却したビルマ軍.その後も何度も国境を越えてシャム国内に侵入してまいります.
 しかし,タイ史上最高の軍事的天才と後に賞賛されることとなるタークシンは,巧みな用兵でもはやビルマ軍を王都に近づけることはなかったのでありました.
 そしてとうとう,度々の進軍が王朝の財政を疲弊させたためでありましょう,何度目かの国境侵犯以降,ビルマ軍はシャムへの進軍を止めるようになったのでございます.

ビルマ軍を退けたタークシンは,チャオプラヤ側のトンブリー側に,ワット・アルン,即ち「暁の寺」を建立いたします.
 朝焼けの光を浴び,白く輝くワット・ワルンの仏塔を眺めることで,シャム人たちも,国が再び安定期に入ろうとしていることを悟ったのでございましょう,滅亡の淵から,タイ人独立国家を守ったタークシンを,人々は大王と呼ぶようになったのでございます.

 タークシンがそのまま"正常に"国王として君臨していれば,彼はタイ史上最高の名君と称えられたでございましょう.
しかし,歴史は彼に皮肉な最期を用意していたのでございます・・・

 実はタークシン大王,何を隠そう,中国人の父親を持つ混血児でありましして,彼の支持層も,華僑とムスリム商人でありました.
 彼は自分を支持してくれた,多くの華僑やイスラム教徒たちを宮廷官僚として招聘したのでありますが,このことは,アユタヤ朝以来の伝統あるタイ人貴族たちの反発を呼んだといわれております.

 ここからは,タイ史の闇の部分.
 タイ人貴族たちからの反発を受けるようになったタークシン大王は,突如"乱心"を起こした,と公には伝えられております.
 すなわち,出家の身でもないのに,
「私は,阿羅漢(悟りを開いた人)の前段階まで達した」
と大言壮語し,国内の高僧を王宮に集め,
「私に礼をつくせ!」
と命令したとされております.

 タイ人は仏教を厚く信仰しております.今でも,子供が出家して修行僧になりますってえと,親であっても子供に軽々しく触ったりは出来なくなります.また,短期修行僧制度のようなものもございまして,頭を馳髪して2週間だけ修行僧としてお寺に入る,会社勤めだった人には会社は有給休暇扱いしてくれるという仕組みもあったりいたします.

 そんなお国柄でございますから,たとえ国王であろうとも,高僧に礼を尽くさせることは認められておりません.
 ところが,ある高僧が王命を拒否したことを契機に,タークシンは集めた高僧5000人を鞭打ちの刑に処した,と言われます.

 と,このとき,クーデター発生! クーデター首謀者は,なんとタークシン王の右腕であったプッタヨートファチュラーロークでありました.彼は,タークシン王を幽閉した後,「乱心」を理由に彼を処刑,自らが王位に就いたのであります.
 この彼こそが,今日ラーマ1世と言われる,現タイ王朝であるチャクリー Chakri 朝の創始者であります.そしてこのラーマ1世即位の後,王朝は純タイ色を強めたといいます・・・

 希代の英雄タークシンは,「乱心」を理由に部下に処刑されて,その生涯を終えました.
 しかし,彼は本当に乱心したのでありましょうか?
 タークシンの乱心,もしやそれは,混血児を王としていただくことを拒否した純タイ人有力者たちの謀略でなかったか…….
 しかし,真相は全て闇の中.

 今日,タイには王室不敬罪が存在し,王室批判は禁止されております.

 それでは『英雄タークシンの生涯』の一席,これにて読み終わりといたします.

世界史板・改


 【質問】
 映画「王様と私」とは?

 【回答】
 モンクット王(ラーマ4世)が息子ラーマ5世の英語教師として,インド生まれのアンナ・レオノーウェンズを雇ったことを元に作られた小説を,ミュージカル仕立ての映画にしたもの.

 ただ,内容に若干の問題がある模様.
 チュラーロンコーン王が王位についてから奴隷制度を廃止したのは,アンナ・レオノーウェンズ女史が小説「アンクル・トムの小屋」を教えたからだとなっているが,時代の流れでそうなったのだろう,と≪ WEB 熱線 第914号 ≫2007/09/10_Monでは述べられている.

 そのせいか,タイでは「王様と私」は王様を侮辱する映画だとして上演禁止となっている.

 ちなみに「Shall we dance?」はミュージカル映画「王様と私」の主題だとか.

 詳しくは同メール・マガジンを参照されたし.


 【質問】
 タイがイギリスとフランスの緩衝国にされたことについて,詳しく教えてください.

 【回答】
 イギリスは当初からタイ(シャム)を中立国として仏印との緩衝地帯にしようと考えていたらしい.
 それに対してフランスは,タイの分割を意図しており,この問題について両国の交渉が続けられていた.
 その結果,1896年に英仏はチャオプラヤー流域に軍事進駐を行わない旨を宣言.
 ついで1904年の英仏協商で,タイの独立維持は両国によって正式に合意された.

 しかし,これ以降もタイからフランスへの領土割譲はなされており,イギリスも,タイ在住の英国臣民の第1次裁判権をタイ側に認めさせることを引き換えに,マレー半島の4州をタイ側に割譲させている.
 こうした一連の国土割譲の強制が,後にタイで「失地回復」という大タイ主義の主張を生み出す源泉になったそうです.

 詳しくは桐山昇・栗原浩英・根本敬著『東南アジアの歴史』(有斐閣,2003年)を参照してください.

世界史板


 【質問】
 タイが列強の緩衝地帯として機能した理由を教えてください.
 東南アジアでは最も豊かで植民地化すればかなりおいしい土地だし,戦略的にも交通的にも要所だし,他の列強の植民地と境界線を接することになっても,手に入れたい土地だと思うのですが.
 緩衝地帯にしておくには,あまりにももったいないような気がします.

 【回答】
 タイの独立を,緩衝地帯という言葉一つでかたずけるのはちょっと違う.
 要するにタイの立ち回りがうまかったから,植民地化をまぬがれた.
 また,フランスやイギリスの思惑,両国が置かれた世界情勢も,要因の一つ.
 択一問題じゃないんで,一個の正解があるわけじゃない.

 タイが豊かと言っても,中国市場(それが丸ごと自由になるとして)と比べたらたいしたことない.
 イギリスもフランスも,タイだけ見て何かを決めているわけではないことに注意.
 例えばイギリスの場合,インドに比べたらタイの価値なんて全くたいしたことないでしょ.
 手に入ればそれにこしたこと無いけど,全面戦争するほどの価値を見いだせなかったんだよ.

 どっちかと言えば,フランスの方がアグレッシブだったんだけど,そこでタイがイギリスべったりになって保護国なんかになったら,丸ごと全部イギリスに行っちゃう.

 タイはタイで双方に,
「あんまりやり過ぎると,相手陣営に付いちゃうぞ」
という姿勢を見せつつ,イサーンやランナーといった半独立勢力を傘下に収めていった.
 タイが領土を割譲し続けたってのは,半分ウソ.
 実質的な統治が及ぶ地域は,むしろ拡大してる.

世界史板,2010/03/29(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 タイの鉄道整備の始まりは?

 【回答】
 国家戦略上の必要性から,民族資本によって国王主導で建設されることになった.
 その始まりが,バンコク〜コーラート間の路線.

***

 東南アジアに於ては,19世紀,相次いで土着民の国家が欧州諸国に植民地化されていく中,一部領土を奪われながらも,何とか独立を保った国があります.
 それは,シャム…今のタイです.

 彼の国の政治は,1932年までは国王親政の国でした.
 国王は国の安定に腐心し,欧州諸国に付け入れられない為にも,様々な施策を行っています.

 偶々,シャムが英国とフランスの勢力分岐点上にあったから独立を保てたと言う場合もありますが,その危ういバランスを保つのは,何も外圧だけではなく,為政者に人を得ていたと言うのも大きかったりします.

 19世紀に普及した交通機関としては,蒸気船と鉄道が挙げられます.
 海や内水域では蒸気船が,陸上交通では鉄道が,それぞれ交通に革命を齎しました.
 シャムの場合は,首都バンコクは成る程国土の中心部にあります.
 しかし,其処から国境線に向けて行った場合,一番時間的に近いのは,南方になります.

 北方は,ミャンマー寄りの地域は,辛うじて川を遡る事が出来ますが,それも雨季だけで,乾季になると中々内陸に進む事が出来ません.
 勢い,陸上交通に頼る事になりますが,道路は牛車道が一部整備されているだけで,その牛車道は,今度雨季になると水没して泥濘んでしまい,これまた進行に難渋します.

 一方,インドシナ半島寄りの地域は,陸上交通が比較的整備されてはいますが,矢張り雨季になると泥濘により進みにくくなります.
 また,この地域はミャンマー寄りの地域と違って陸上交通主体であるため,船を殆ど使えなかったりします.

 蒸気船が使える様になると,帆船に頼っていた頃より,風向きに左右される事は無くなります.
 しかし蒸気船の喫水は深く,或程度の深さのある河川でないと運航出来ませんし,蒸気船が航行出来なければ,従来の様に手漕ぎの船が使われる事になります.
 それでも,若干の短縮が行われました.
 即ち,マレー半島地域は時間的により近くなり,ミャンマー方面の交通も劇的とは行かないまでも可成り良くなりました.

 インドシナ半島方面はと言えば,陸上交通は相変わらず牛車主体なので改善は見られません.

 こうすると,いざ鎌倉となった時に首都にその詳報が届くのは可成り先になりますし,首都から鎮圧軍を送っても中々目的地に着く事がありません.
 経済活動においても,大型船が使えず,かつ,輸送時間が掛かるとなると,生鮮食品は市場で太刀打ち出来ませんし,何より輸送費が掛かりすぎて,首都に移出する事も出来ません.

 さて,一方で,国境を越えた,首都よりも近い地域に貿易港があったらどうか….

 例えば,チェンマイみたいな場所からだとミャンマーのモールメイン港は極近くなりますし,ウボンからバンコクに行くより,プノンペンやサイゴンに出た方が近かったりします.
 マレー半島ではバンコクよりもシンガポールの方が製品を出荷する市場としては極めて魅力的です.

 つまり,市場としてのバンコクは,これらの地域からすれば極めて魅力に欠ける地域であった訳で,ともすれば,国家の解体という可能性が無きにしも非ずとなります.

 対外的な話で行くと,英国もフランスもミャンマーとインドシナを植民地とした後,次の大きな市場として中国に目を付け,先ずは雲南に進出しようとします.
 英国は,ミャンマーのモールメインからミャンマー国内を通って雲南に通るルートを鉄道で結ぼうとしますが,その辺りは急峻な地形があって阻まれた為,タイを経由するルートを模索します.
 そうして,ミャンマーのモールメインからシャムのタークを経てチエンラーイを経由して雲南に抜けるルートの建設を,シャム政府に交渉してきました.

 一方,フランスもサイゴンとプノンペンを結ぶ鉄道を建設する際,サイゴンからはメコンデルタ経由となり直線で結ぶと工事費が高騰するので,一端北西に伸ばして,カンボジアのクラチェに達し,そこから分岐して,片方はプノンペンに,もう片方はメコン川沿いに北上してシャム国内のウボンを経由,更に雲南に達するルートを考えていました.

 当時,バンコクからタークまでは一番速く移動したにしても,9日掛かりました.
 一方,バンコクからウボンまでは一番速く移動しても,実に31日,つまり1ヶ月を要した訳です.

 此処に英仏が鉄道を敷設するとなると,どんな事が考えられるか….
 英国はモールメインから鉄道で軍隊を送り込んで,シャムのタークやチェンマイなどの地域を瞬く間に占領する事が出来ますが,シャムはそれに対抗する術がありません.
 フランスも,サイゴンやプノンペンから鉄道で軍隊を送り込み,メコン川流域のウボンなどを制圧する事が出来ますし,更に下手をすれば,カンボジアから軍を送り込んで,首都を占領する事も出来てしまいます.

 更に,鉄道を敷設すると言う事は,南満州鉄道でもあった様に,線路に隣接する片側何マイルかを付属地として差出したり,諸鉱山の権利を要求してきかねないと言う懸念もあります.
 付属地周辺で何か事件が起きれば,シャム政府の責任とされ,対応を誤れば軍隊を派遣して瞬く間にシャム国内に侵入し,占領してしまう事も可能です.

 経済上からもこれらの鉄道が開通する事により,シャム湾と言う地理的な条件は貿易に不利な場所になり,輸送費の掛かる商品は,全て鉄道によって,英国のモールメインとかフランスのサイゴンに吸収され,バンコクの商業的地位が低下してしまう可能性もあります.

 この為,シャム政府は日本の事例を知って,こうした海外資本による鉄道建設は拒否し,民族資本主体で鉄道を建設しようとした訳です.

 先ず手を付けたのは,バンコクとメコン川中流域のコーラートを結ぶ路線でした.
 この路線が選ばれたのは,当時最も緊迫していた地域で,且つ,叛乱が起きやすい地域だったからな訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月27日22:08

 バンコクを中心にした場合,鉄道が敷設される以前は,シャム湾に沿った地域では大量輸送手段として,蒸気船とか帆船と言った船舶輸送が主でした.
 ただ,バンコクから内陸については,交通手段が川船もしくは,水牛の駄載や精々行って牛車くらいのものだったので,その輸送量は微々たるものであり,更にその輸送費は距離が伸びれば伸びる程高騰していました.

 従ってバンコクに商品が着いても,比較的周辺部の地域にしか捌けません.
 例え内陸に商品を