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◆◆◆ターリバーン台頭(1994〜2001)
<◆◆戦史
<◆アフ【ガ】ーニスタン 目次
<南アジアFAQ

Gen. Naseerullah Babar

(こちらより引用)


 【link】

「PE2プレイ記録ほか」:久しぶりに『アフガニスタンの星を見上げて』を読みたくなったので,関連語句の検索

『タリバン』(アハメド・ラシッド著,講談社,2000.10)
 ええ!? 絶版??

『誰がタリバンを育てたか』(マイケル・グリフィン著,大月書店,2001.12)


 【質問】
 アフガンって結局トータルで何人ぐらい死んでるの?

軍事板

 【回答】
 対ソ紛争時代は別項参照.

 ナジブラ政権崩壊以降については,アハメド・ラシッドAhmed Rashid著「タリバン」(講談社,2000/10/20)にある数字を拾い上げると,以下の通り. 

年月日 戦闘地域 攻撃側組織/兵力 同左損害 防御側組織/兵力 同左損害 備考
1992 カーブル砲撃戦 ヘクマチァール派 ラバニ派
ドスタム派
 無差別砲撃により,市民に死傷者多数
1994/1 カーブル攻防戦 ヘクマチァール派
ドスタム派
ラバニ派
1994/10/12 スピン・バルダグ攻防戦 ターリバーン
200
1名死亡 ヘクマチァール派 7名死亡,数名負傷  同町をターリバーン占領.町外の武器貯蔵庫から武器多数を奪取.
1994/11/3-4 カンダハル攻防戦 ターリバーン 十数名死亡 ヘクマチァール派ムラー・ナキブ部隊/2500  パキスタンISIのトラック部隊を救出.
 カンダハルを占領.
 ナキブは買収されて撤退したと見られている.
1994/11〜1995/1 アフ【ガ】ーン南部制圧戦 ターリバーン 南部群小軍閥  本格的戦闘なしに南部12州を制圧
1995/1 ヘルマンド州攻防戦 ターリバーン ガファル・アフンザデ軍閥
1995/1 カーブル攻防戦 反ラバニ連合(ヘクマチァール派・ドスタム派・ハザラ人勢力) ラバニ派  ヘクマチァール派,カーブルをロケット弾で砲撃し,市民数百人死亡
1995/2/2〜14 カーブル南郊攻防戦 ターリバーン 200名死亡 ヘクマチァール派 2/2,ワルダク陥落.
2/10,マイダン・シャハル陥落
2/11 モハメド・アガ陥落
2/14,ヘクマチァール,ジャララバードへ逃亡
1995/2 アフ【ガ】ーン西部制圧戦 イスマイル・ハーン派  ターリバーン,ニムルズ,ファラハ2州を制圧
1995/3/6 カーブル攻防戦 ラバニ派マスード部隊 ハザラ人武装勢力  ハザラ人はカーブルから撤退
1995/3 ヘラート南郊シンダンド空軍基地攻防戦 ターリバーン 死傷者3000 イスマイル・ハーン派
ラバニ派マスード部隊
 ターリバーン,シンダンドから撤退
1995/3/11 カーブル南郊攻防戦 ラバニ派マスード部隊 ターリバーン 戦死数百  ターリバーン,カーブルから撤退
1995/8〜9 ヘルマンド州攻防戦 イスマイル・ハーン派 ターリバーン 8/23,ディララム占領
8/30,ヘルマンド州の一部を奪回
 その直後,ターリバーンの待ち伏せにより,ハーン部隊撤退.
9/3,ハーンはシンダンド放棄
9/5,ターリバーン,ヘラート占領.ハーンはイランへ脱出.
1995/11〜12 カーブル攻防戦 ターリバーン 戦死数百 ラバニ派マスード部隊  ターリバーン退却
1996/4〜 カーブル攻防戦 ターリバーン ラバニ派・ヘクマチァール派  4月だけで市民180人死亡,550人負傷.
 6/26,ヘクマチァールがラバニと同盟したことへの報復攻撃では,市民61人死亡,100人以上負傷.
1996/8/25〜9/10 ジャララバード奇襲 ターリバーン(ムラー・ボルジャン部隊) 戦死70 ハジ・カディル軍閥  パキスタン難民キャンプから越境して攻撃.
9/10,カディル,パキスタンへ逃亡.
1996/9 アフ【ガ】ーン東部制圧戦 ターリバーン ラバニ派  ターリバン,ナンガハル,ラグマン,クナール州を占領.
1996/9/23 サロビ攻防戦 ターリバーン ラバニ派  ターリバーン,機動戦でサロビ占領.
1996/9/26 カーブル攻防戦 ターリバーン ラバニ派マスード部隊  ターリバーン,カーブル占領.
1996/10/12〜1997/1月末 サラン街道反攻戦 ラバニ派マスード部隊 ターリバーン 戦死または捕虜数百  ターリバーン,カーブルへ撤退.
10/18,マスード,バグラム空軍基地を奪還.
住民数千人死傷.
1月末までにマスード,チャリカールを奪回.
1996/10〜12 バグディス州攻防戦 ターリバーン イスマイル・ハーン派
1996/10〜1997/6 ハザラジャート攻防戦 ターリバーン ハザラ人武装勢力  激戦の後,ハリリ派がカーブルへ向け南進したため,ターリバーンは退却.
1997/1 カンダハル反乱 カンダハル土着勢力 ターリバーン  反徴兵反乱.
 カンダハル周辺の数ヶ所の村から,ターリバーンは追い出される.
1997/5 マザリシャリフ攻防戦 ターリバーン ドスタム派  5/19,マリク・パラワン裏切り.
 ドスタムはトルコへ逃亡
1997/5/28 マザリシャリフ蜂起 ハザラ人兵士・マザリシャリフ市民 ターリバーン 戦死600
捕虜1000
 ターリバーン逃走.
 逃亡後にはマリク部隊がマザリシャリフを占領.
 パキスタン人学生数十名殺害さる.
1997/5/28〜 アフ【ガ】ーン北部反攻 マリク部隊 ターリバーン 捕虜数千(後に全員殺害さる)  タハール,ファーリヤーブ,ジョウズジャーン州をマリク部隊は制圧.
 同部隊は他にパキスタン人学生数百を殺害.
1997/5 カーブル周辺攻防戦 ターリバーン ラバニ派マスード部隊 戦死または捕虜数百  ターリバーン,カーブル周辺地域と北東部の数町村を占領するも,マスードは,マリク部隊反攻を好機と見てサラン・トンネルを爆破,ターリバーンの退路を絶ち,これらを奪回. 
1997/5〜6  タリバーンは10週間で死傷3000人以上,捕虜3600(上戦闘の損害を含む)
 赤十字国際委員会推計では,双方で兵士・民間人合わせて死傷7000以上.
1997/6 クンドゥズ占拠 ターリバーン
(北部に取り残されていた残存部隊2500)
マリク派  殆ど戦闘なし.
1997/6月中旬 チャリカール攻略戦 ラバニ派マスード部隊 ターリバーン 戦死数百  マスード,チャリカールとバグラム空軍基地を奪回.
1997/9 カブール攻防戦 ラバニ派マスード部隊
ハリリ派
ターリバーン
1997/9  マザリシャリフ攻防戦 ターリバーン
(在クンドゥズの孤立した部隊)
パシュトゥン人部族
マリク派  9/7,ターリバーン,タシュホルガンの町を占領.
 しかしドスタム帰還により,ターリバーン撤退.その際,マザル南方,カジル・アバド村で村民100人以上を虐殺.
1997/9 マザリシャリフ内紛 ドスタム派 マリク派  マリクはイランへ逃亡.
 ドスタム,トルコから帰還.
1998/1 ファリャブ州制圧戦 ターリバーン  ターリバーン,ウズベク村民約600を虐殺.
1998/2 マザリシャリフ内紛 ハリリ派とドスタム派の戦闘
1998/7/12 マイマナ急襲 ターリバーン ドスタム派 戦車100台と車両をターリバーンに捕獲さる.
捕虜800(大半が殺害さる)
 ターリバーン,マイマナ占領.
1998/8/1 シベルカン攻略戦 ターリバーン ドスタム派  ターリバーン,ドスタム派司令官数人を買収して,シベルカンを占領.
 ドスタム,トルコへ逃亡.
1998/8/8 マザリシャリフ攻略戦 ターリバーン ハリリ派1500 戦死1400  ターリバーン,マザリシャリフ占領後に市民数千人以上を虐殺.
1998/7〜8  国連と国際赤十字の推計によれば,この期間にターリバーンによる虐殺の犠牲者は5000〜6000
 ラシッド自身の推定では6000〜8000
1998/9/13 バーミヤン陥落 ターリバーン ハリリ派  占領後,近傍の村でターリバーンは老人50人を虐殺.
1998/10〜11 北東部反攻 マスード部隊 ターリバーン 死傷約2000  タジキスタンおよびウズベキスタンとの国境沿いの地域を奪回.
1999/4 北東部・バーミヤン同時反攻 マスード部隊
ハザラ人勢力
ターリバーン 4/21,ハザラ人,バーミヤン奪回.
1999/7 カーブル地域・北部同時反攻 ターリバーン マスード部隊  北部の作戦は,マスードへのタジキスタンからの補給路を絶つため.
 ターリバーンの攻撃,失敗.
1999/9

 数字が空欄のところもいくつもありますが,おおよそ,一回の戦いで死傷者数百と見ればいいのではないかと.
 というわけで,あとは各自で集計されたし.

消印所沢


 【反論】
とうとう所沢の人がしゃしゃり出て来ましたか.私も忙しいんですけどね.
>280
タリバン政権当時のカンダハール県知事だった,
ムッサー・ハサン・ラフマーニという人物が,以下のように明言しています.
「我々はターリバーンと名乗ったことはない.そういう名前の組織でもない.
強いて言えばハラカテ・ターリバーン=ターリバーン運動.神学生の運動である」
これって,日本の「学会でも紹介」されてますし,結構有名な話なんですけどね.
タリバンかターリバーンか,などという話は,この際どうでもよいとして,
タリバン政権を形成したのは単一の組織でもありませんし,所属を聞かれて
「タリバンだ」と答えた者がいれば,その問答に限っては自称だとされますよね.
その程度にいい加減な話だ,ということですよ.
皆さん忘れている,と言うより,本を読まずに騒いでるようですけど,林先生の
『防衛黒書』は,日本国憲法と自衛隊の矛盾をテーマとした本です.
ネットでも,JSF以外のまともな人は,みんなその視点から書評を書いてます.
まともなことが書けないなら,黙っていればよいのです.
戦記ファン

2chに論争が飛び火した際,私は心密かに,「だよね馬鹿」と呼ばれた人は,
所沢の人じゃないかと疑っていたのですが……
そうですか.親しかったんですね(笑い).
頼まれたとは,どういうことですか?あの人も喪中ですか?
岩手県のオタクでも,なにやらご不幸があった様子ですし.
まあ,季節の変わり目は色々ありますからね.
なんにしても,アラビア語の辞書を見たとか,大手書店の洋書売り場に
行ってみたとか,嘘八百並べた挙げ句,ツッコミに耐えかねて逃げ出した
ような人と仲間だったとは,これでアナタもお里が知れました.
 〔略〕

Posted by 戦記ファン at 2010年12月03日 17:20:09

 【再反論】
 以下引用.

------------------------------
 彼らの大部分は,マドラサの学生たちだった.
 彼らが自分たちのために選んだ名称は,ごく自然だった.
 「タリブ」はイスラム学生のことで,彼らに知識を与えるムラーに匹敵するだけの,知識を求めていた.
 タリバン(タリブの複数形)という名称を選んだことで,彼らはムジャヒディンの政党政治と距離を置き,権力を得ようとする政党ではなくて,社会を浄化しようとしているのだと示唆したのだった.

------------------------------『タリバン』(アハメド・ラシッド著,講談社,2000.10.20),p.55-56

 そちらの出典は何ですか?
 その「発言」は,どこに載っていたのですか?

 誰と誰が同一人物であるとかないとかいう議論には興味もありませんし,そもそも論理が飛躍しすぎていて意味不明です.
 それとももしかして,無根拠同然の言いがかりをつけ,話をそらすのが「ケンカテク」とやらなのですか?(笑)

消印所沢 at 2010年12月07日

 もう一つ引用.

-----------------------------
 1994年夏,パキスタンとサウジアラビアの原理主義者たちは,タリバン(神学生)と呼ばれる新たな勢力を支援し始めた.
 [中略]
 タリバンが[アフガーンに]最初にその姿を現したのは,1994年10月,カンダハルとパキスタンのクエッタのあいだで,通商トラック部隊を「救助」したときだった.
 [中略]
 タリバンは,自分たちは神学生で,ポスト共産主義のカブールを巡る争いと,国中に蔓延する無法状態にうんざりしていると主張し,アフガニスタン南西部で急速に支持を伸ばしていった.

-----------------------------『アフガニスタン 終わりなき争乱の国』(ラリー・P・グッドソン著,原書房,2001.12.27),p.127

 再度お尋ねします.
 そちらの出典は何ですか?
 その「発言」は,どこに載っていたのですか?

消印所沢 at 2010年12月12日

 さらに以下引用.

-----------------------------
 オマルの人間的な側面については,ブラヒミ代表が98年10月にオマルと会談したときに同行した川端清隆が,興味深いエピソードを明かしてくれた.
 [中略]
 一行が車から降りて墓地に立ち尽くしていると,同行していたオマルの側近が口を開き,
「これは戦いに倒れたタリバン兵士たちの墓である.
 彼らは北部同盟に戦いを挑み,殺された.
 こちらは,北部同盟の連中が使っている兵器を押収したものだ.
 じっくり見て欲しい」
と戦利品を示した.

-----------------------------『大仏破壊』(高木徹著,講談社),p.47-48

 オマル側近自ら「タリバン」と自称していますね.

消印所沢 at 2010年12月19日

http://obiekt.seesaa.net/article/107293395.html
コメント欄より

――――――
 カンダハールで,タリバン政権の大臣が記者会見を開くということで,欧米の記者たちが集められた.
 〔略〕
「われわれは薬物中毒でもなければ,無学でもない――国を治める能力がある」
と,カンダハール知事のムッラー・モハンメド・ハッサンは言った.
 〔略〕
 モハンメディ〔モハンメド・ナビ・モハンメディ,カブール方面ターリバーン軍指揮官――引用者補足〕やハッサンのようなタリバン指導者たちを何より悩ませているのが,国際連合から拒絶されていることだった.
 自分たちが国の9割を支配しているというのに,いまだ正式に承認されていない.
「なぜ彼らはタリバンを受け入れようとしないのか?」と,ムッラー・ハッサンは訴えた.「われわれが,他国の恨みを買うような何をしたというのだ?」

――――――『そして戦争は終わらない』(Dexter Filkins 著,日本放送出版協会,2009.7.25),p.46

 カンダハール知事自ら「タリバン」言うてますね.
 ちなみにカンダハールは,当時のターリバーンの本拠地.▲

 ターリバーンが,
「我々はターリバーンと自称していない.強いて言えば『ターリバーン運動』だ」
としていたのは,ターリバーン発足間もない頃の,まだ自称が定まっていなかった頃の話.

――――――
 ターリバーンはパシュトゥーン族の故地カンダハールに,黒と白のターバンを巻いて突然出現した.
 この異相の武装集団に対して民衆は,「何者だ!」と噂し合った.
 黒白に身を包んだ身なりに,
「ターリブ(修行僧,神学生)らしい」
と民衆は囁いた.
 モスクやマドラサでイスラーム諸学を学ぶ神学生達――Tâlibân――.
 ターリブの複数形であるターリバーンが,人々の口に上がり,ターリバーンという名称が定着していったと考えられる.

 筆者が当時カンダハール県知事の要職にあったムッラー・ハサン・ラフマーニーと懇談した際,何度もターリバーンという名を口にしたところ,彼は筆者に対し,
「我々は自らをターリバーンと名乗ったことはない.
 ターリバーンという名の組織でもない.
 強いて言えば『ハラカテ・ターリバーン』(ターリバーン運動)であり,組織というよりも神学生の運動である」と明言した2)
2) 1996年に筆者がカンダハールの迎賓館において,直接ラフマーニー・カンダハール知事より指摘された.
――――――高橋博史 in 『アフガニスタンは今どうなっているのか』(保坂修司編,京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究科附属イスラーム地域研究センター,2010.3.1),p.3

 このころの話しか,反論者は知らなかった,というところかな?
 知識のアップデートは大切ですよね.

▼ps.
 「戦記ファン」氏の言う,
>アラビア語の辞書を見たとか,大手書店の洋書売り場に
>行ってみたとか,嘘八百並べた挙げ句,ツッコミに耐えかねて逃げ出した
>ような人
というのは,たぶんこれ
faq06a08r09m.html
faq06a08r09p.html
の「だねえ」氏を指していると思われますが,はたして「戦記ファン」氏の見解が正しいかどうか,皆さんの目でお確かめください.▲


 【珍説】
 ターリバーン運動は多かれ少なかれ自然発生的なものだった.

 【事実】
 M. Ewansによれば,パキスタンが深く関与した,もっと意図的に仕組まれたものというのが真実だったに違いないという.
 彼による,その根拠・経緯を,以下に抜粋要約すると……

[quote]
 第1に,ターリバーンのグループは,80年代後半からアフ【ガ】ーニスタンのかなりの州で結成されており,それらが実際に共同して行動を起こす前に,ムジャヒッディーンが国内統一して国家の運営に成功するかどうかを見守ってきたことを,ターリバーン自身が明らかにしている.
 また,ムジャヒッディーンとして,イスラム党ハリス派やモハメディの「イスラム革命運動(ハラカト=イ=インキラム)」と共に戦った者もかなりおり,独立隊として行動したグループもあった.

 しかも,道路封鎖の排除活動は,言われているような突発的なものではない.
 この首謀者はパキスタンの内相ナセルラー・バーバル将軍である.バーバルは,中央アジアに通じる陸上貿易ルートを開く必要があると決断した.

 94年10月,パキスタン首相ベジナール・ブットは,トルクメニスタンでドスタムとイスマイル・【ハ】ーンに会い,彼らの協力を取り付けた.
 さらに,道路整備に外国の資金援助を仰ぐ努力の一環として,何人かのパキスタン駐在大使をカンダハールとヘラートに招いた.
 バーバルもまた自分で道路を偵察し,同月末にこの計画が実行可能であることを実証しようと,30台のトラック部隊をターリバーン兵に護衛させて,国境を越えてカンダハールへ送った.
 ターリバーンは道路封鎖に出会うと,管轄に当たっている民兵と取引し,さらにカンダハールへ前進した.
 その結果,彼ら自身はもちろん誰もが驚いたことに,僅か数日の内に,死者も最小限で,カンダハールを占拠することになった.
 したがって,ターリバーン登場の発端から,パキスタンの手が働いていたのは明かである――.

[quote]
―――Sir M. Ewans著『アフガニスタンの歴史』(明石書店,2002.9),P.297-298

 マイケル・グリフィンも自著『誰がタリバンを育てたか』(大月書店,2001.12)の中で,次のような指摘をしている.
 ターリバーン創設者,オマルが軍閥の不正に怒り,30人の仲間と決起したことは,半ば伝説化されて語られているが,決起からターリバーンが結成されるまでに半年のブランクがある,と.
 また,彼によれば,オマルは決起後,パキスタンに逃げ込んでいるという.
 それから半年間の間に,パキスタン諜報機関ISIによって兵器,資金,兵員を提供され,アフ【ガ】ーニスタンへ再び送り込まれた可能性を示唆している.

 パキスタン軍特殊部隊将校がターリバーン軍を指揮していることは,グリフィンの他に複数の専門家が指摘している.

[quote]

 パキスタンに逃亡したラッバーニーやヘクマティヤールは,ブットー政権下で当時,北西辺境州知事だったバーブルの庇護を受けながら,ペシャーワルを拠点として反政府運動を展開するようになった.
 パキスタンによるヘクマティヤール支援は,政府内に「アフガニスタン局」を作った(Bradsher: 17)1974年から始まった(Rubin 1995: 138).
 このバーブル知事は,ブットーの娘のベーナズィール・ブットー政権時の1994年に連邦政府の内務大臣隣,国境警備隊の長として,またモスクやマドラサ(神学校)を監督する長として,ターリバーン結成に大きく関わっていく.

[/quote]
―――山根聡 in 『ハンドブック現代アフガニスタン』(明石書店,2005.6.25),p.23

 【珍説】
 今日のターリバーン政権を構成するアフ【ガ】ーン・ゲリラの基礎は,米国が冷戦戦略において養成した.
 ターリバーンとはイスラーム学生を意味するが,ゲリラの中には,米国が冷戦中に自分達を捨て駒に使い,冷戦後の政治の中で報われずに歴史の中に葬り去られた怒りがあるのではないか.

(猪口邦子・上智大教授)

 【事実】
 事実としても間違いです.
 アメリカがムジャヒディンを支援したのは,せいぜい1990年頃までです.89年にはソ連軍が撤退していますからね.
 一方,ターリバーンというのは90年代中頃から,主にパキスタンのイスラム〔過激〕原理派が全面支援して作り上げた組織です.そのターリバーンはパキスタン軍やアルカーイダの軍事支援を得て,ムジャヒディン各派と戦い,各個撃破の形で支配圏を広めていったのです.
 だから,アフ【ガ】ーン・ゲリラというのはターリバーンの敵だったのです.

 今回のアメリカによるターリバーン&アルカーイダ攻撃では,従来のアフ【ガ】ーン・ゲリラは米軍と共に戦いました.
 ターリバーンについては僕も現地で色々話を聞きましたが,10代から20代の若者が大多数でした.冷戦時代は赤ちゃんか,せいぜいティーン・エイジャーだったのですよ.

 悪いことはとにかくアメリカのせいにすれば済む,という日本の学者の多くの悪い癖なんでしょうかね.

(古森義久 from 「反米論を撃つ」,恒文社21,P.82-83,抜粋要約)


 【珍説】
 ターリバーンは,対ソ紛争でアメリカなどの支援を受けた,ムジャヒディーンの一派.所詮マスードもビンラディンもオマルも元は仲間.同じキャンプで学び,恐らく討論したり,同じ釜のメシも喰ったはず.

 【事実】
 ビンラディンはアフ【ガ】ーニスタン戦争の期間中,一貫してヘクマチアルの庇護を受けていたので,あまりマスード将軍と出くわすようなことはなかったものと思われ.
 イスラム統一党のマザリーナジブラがターリバーンに虐殺されたのに, ヘクマティアルが捕虜となってもいまだ殺害されていないのは,その辺りのコネに遠因がある.

 また,ターリバーンがパキスタンの領内の難民キャンプで軍事教練を受けたのは,アフ【ガ】ーニスタン戦争も終わって数年経った94年ごろ.明らかに,パキスタンが,弱体化したヘクマティアル以外のアフ【ガ】ーニスタンでの権力基盤強化を狙って生み出した,半傀儡組織(実際,ターリバーン内部には一部にパキスタンとの合併論があった.強硬派が台頭する今はどうなのかしらないが)
 他のムジャヒディンが,アフ【ガ】ーニスタン戦争中に反ソを目的として軍事顧問の教育を受けたのとは訳が違う.


 【質問】
 新新FAQ
>これ(軍閥)が群雄割拠やってるところの上にタリバンが座っている構造

ですが,こんな話,今まで聞いたこともないんですが,ヨタじゃないんですか?
 もしソースがあるんでしたらソース教えてください.

 【回答】
 ヨタですね.
 タリバンはパキスタンの北西辺境自治州が本拠です.
 アフガンの軍閥とは横のつながりはあるかもしれませんが,その「上に座る」なんてありえないです.
 宗教的にもタリバンがイスラーム過激派のデオバンド神学,アフガン南部は穏健はスンニーと異なります.
(今では少しはタリバンもソフトになったといわれていますが)

 タリバンがなぜ強いかについては,その183の言ってることが正しいと思われ.

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 そのレス書いた本人です.
 あなたのほうが私より詳しい可能性が高いんですが,あえて書きますと,この日曜にあった米軍の基地に対する攻撃での下手人探しの報道を見る限り,タリバンというのは総称であり,内実は様々な組織が入って攻撃部隊を送り出した模様です.
 かつて,タリバンがカブールやカンダハルにて統治していたのは事実であり,一方,アフガニスタン各地に長い内戦で軍閥が育っていることも事実です.

 上に座るという言い方は不適切かもしれませんが,軍閥勢力を束ねた過去がある組織であることは間違いないといえるでしょう.

 【再反論】
>タリバンというのは総称であり

 そこらへんの認識が私には疑問ですね.
 「アルカイダは総称である」という解説ならたびたびありますが,タリバンに関して言えば, オマルという指導者が存在し,アフガンの土着勢力とは異なる宗教的バックボーンや支持母体を持っています.
 したがってこれが軍閥と連合部隊を組織したとしても,それは連合以外の何物でもなく,連携した軍閥までタリバン呼ばわりすることは,まさに米軍と同じ間違いを犯すことになります.

>軍閥勢力を束ねた過去がある

 これも疑問なのですが.

 かつて国土の9割を支配していた頃のタリバンは,アハメド=ラシッドの本によれば,軍閥を支配下に置いたのではなく,軍閥を各個撃破し,その残党を吸収してさらに自軍を拡大するものです.

 たとえばドスタムやイスマイル・ハーンを従えさせ,これを手駒として次の戦いに臨んだ,というのであるなら, 束ねたという表現でも問題ないでしょうが,現実にはドスタムもイスマイル・ハーンも撃破され,国外逃亡を余儀なくされているのです.

 ちなみにその戦闘の過程では,まず買収して身内を裏切らせるという戦術を頻繁にとっています.
 あなたはこれを拡大解釈するという誤認をしているのではないでしょうか?

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 タリバン統治下も今でも権力を握っている者がいたり,司令官が手勢を率いての投降話などが今でもありますので,タリバンは軍閥を束ねた存在であったと思いますが.
 大体,タリバンの国軍という存在が無ければ,軍閥の寄り合い所帯ということにならないでしょうか.

 【再反論】
 政権を握ってた頃のタリバンには,最大で一万人ほどの中核となる集団があった.
 パキスタンに難民として逃れ,マドラサで神学生として学んだパシュトゥンの若者がそれで,この原理主義的かつ部族主義にまみれた若い暴力が,既存の軍閥を圧倒し,服属させる原動力になった.
 ただし,パキスタン軍に訓練を受けたこの精鋭は,1996年のマザリシャリフ攻撃でまさかの敗北を喫し,戦死三千という大損害を出した.
 タリバンが帰順した軍閥の兵力に頼るようになったのはここからで,元々はあくまでパキスタン肝煎りのかいらい軍であって,軍閥のまとめ役なんかじゃない.

 またマザリシャリフ敗戦後にも,マドラサ出身兵のタリバン志願は続いていて,2001年の政権崩壊時にスピンバルダク経由でパキスタンに撤退した,一万前後とも言われる残存勢力は,こうした中核的タリバンだった可能性が高い.

 で,マドラサが今も本来の意味でのタリバンの育成拠点であるのは,去年の騒ぎでも明らかな訳で.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 なお,反論側の記述がまあまあ正しいことは,アハメド・ラシッド著『タリバン』により確認できる.

 ちなみに「中東の軍事情勢」スレッドでの議論の経過を見ると,あくまで「ターリバーンは軍閥の纏め役」説に固執していた人物は,最後にはこんなこと↓を根拠なくスローガンのように唱えるだけになっている.
――――――
713 名前: 名無し三等兵 [sage] 投稿日: 2008/07/17(木) 08:04:36 ID:???

 マドロサは単なる神学校です.
 タリバンも普通の地元民によって構成された普通の宗教勢力です.

――――――軍事板
 これから類推するに,何らかのイデオロギーの虜となった人物が,自説の演説をしたいがために,自分で書きこみをして,それを自分で新新FAQに転載した,というのが真相である模様.

 【質問】
 ラシュカルとは?

 【回答】
 ターリバーンの非公式戦闘部隊.
 報酬がない代わり,車泥棒で給料を稼いでいたという.
 以下引用.

------------
 ラシュカルと呼ばれる非公式の戦闘部隊に急遽動員されたタリバンは,日本製のピックアップトラックに出せる限りの猛スピードでシバルガンに向かった.
 ラシュカルは報酬を貰わない部隊だが,最近征服した地域で利益になる活動を発見した――車泥棒だ.

------------C. Kremme『「私を忘れないで」とムスリムの友は言った』(東洋書林,2006/8/10),p.102

 こうした事実一つ見ても,「ターリバーン時代は治安が良かった」なる話には,疑問の余地が大きいわけだが.


 【珍説】
 ターリバーンは民衆に支持されていた.
 なぜターリバーンは大規模な戦闘もなくアフ【ガ】ーニスタンの90%を支配できたのか? 「民衆の支持(やっとまともな支配者が出てきてくれたという民衆の歓迎)がなければ,こんなことは不可能.(ペシャワール会・中村哲医師,山本芳幸他)

▼ わずか5,6年で〔タリバンが〕人心を掌握することができたのは,農村の古い風習を大事にしたからの由,地域の長老を立て,村がうまく運営されるようにしたからだそうです.

蓮岡修〔ペシャワール会の医師〕 in 『痛み癒される社会へ』
(阿部知子著,ゆみる出版,2003/2/5),p.37

 【事実】
 ペシャワール会・中村哲医師の発言には,疑問符がつくものが多い.
 まるで,民衆の支持だけでターリバーンがほぼ全土を掌握したかのように言っているが,実際には,ターリバーンが短期間に勢力を伸張した理由には,次の3つがあるとされている.

(1) ソ連侵攻・内戦に疲れた人々の支持
 中村が挙げた理由と似ているが,どちらかと言えば,「もう疲れた.誰がリーダーになっても良いから,最低限の行政活動をしてくれよ」という投げやりな支持の要素が強い.

(2) ヘクマティアルから乗り換えた,パキスタン・サウジアラビアの援助
 ターリバーンの登場はパキスタン・サウジアラビアの対アフ【ガ】ーニスタン政策を変えた.
 それまで両国はヘクマティアルを支援していた.
 しかし,思うように勢力を拡大できないヘクマティアルとは対照的に,ターリバーンは南部各州を瞬く間に押さえてしまった.
 ヘクマティアルとターリバーンを天秤に掛けていた両国は,ターリバーンを採用し,ヘクマティアルを捨てた.
 ターリバーンは,ジハードの時のゲリラ養成施設を使って訓練し,資金はこの両国が提供したのである.

(3) 運送マフィアの支援
 ここでいう「運送マフィア」とは,パキスタンからアフ【ガ】ーニスタンを通ってイランや中央アジアに麻薬や密輸物資を運ぶ人達のことである.
 彼らは,パキスタンの軍部や政府に強力なパイプを持ち,ターリバーン支援を拡大させた.
 その理由はこうだ.運送マフィアはアフ【ガ】ーニスタンを通って,イランや中央アジアに抜ける.
 しかし,内戦中の各ムジャヒディンたちは至る所で莫大な通行税を要求してくるし,酷いときには密輸品を強奪され,命まで狙われる.
 一方,ターリバーンの支配地域でも通行税は要求されるが,ムジャヒディン達に比べればその額はとても安いし,通行税さえ払えば旅の安全も保障してくれる.
 つまり.ターリバーンがその支配地域を拡大させることは.運送マフィアたちにとっても利益になるし,運送マフィアの通行が盛んになれば.それだけ多くの通行税がターリバーンに入ってくることになるのだ.ターリバーンにとってこの運送マフィアとの繋がりは,重要な資金源となったのである.

@-rans〔リンク切れ〕より引用)

 (1)について補足すれば,'00年頃には既に,その民衆の支持も失われつつあったことが,以下の引用文献からも読取れる.

傷ついたターリバーンの威信 航空機乗っ取りは亡命行 伊藤力司

「アフ【ガ】ーニスタン国営アリアナ航空の国内便が二月六日乗っ取られ,モスクワ経由ロンドンまで飛ばされた事件は,十日に無事解放された乗員乗客のうち,七十四人が英国に亡命を申請するという意外な結末となった.
 英捜査当局は乗客のうち二十二人を乗っ取り容疑で逮捕したが,彼らはイスラム原理主義によるターリバーンの独裁的支配を逃れるため,家族とともに乗客として同機に乗り込み,犯行を実行したようだ.
 英BBC放送によると,このニュースに対するアフ【ガ】ーニスタン国民の反応は,脱出成功を祝う気分だという.
 イスラム国家づくりを進めているターリバーン指導部は,自国民が非イスラム国に逃れることを「裏切り」と非難する姿勢だが,国民感情とはかけ離れているようだ.
 ターリバーンは昨年秋,北部連合に対する軍事攻勢に失敗して威信を低下させたが,今度の乗っ取り事件で威信はさらに傷ついた.
兵士の士気は低下
〔略〕
 特に昨年秋の攻勢では,北部連合がカーブルの北方まで攻め込み,戦線を南に押し返した.ターリバーン兵士の士気は低下,かつてはターリバーンに志願したパシュトゥン人の若者も徴兵を逃れるようになったという.
 ターリバーンがサウジ出身のテロ容疑者ビン・ラディン氏を匿っているために,昨年11月から国連の制裁を受けたことも,国民生活に響いてきた.
国民生活の規制への反発も
 ターリバーンは当初からパキスタンの情報機関,原理主義教団の軍事支援を受け,アラブ諸国の原理主義勢力からも義勇兵を受け入れた.この中で特にパキスタン人軍事顧問の発言権が強く,このことも国民の不満を買う原因になっている.
 当初は清新だったターリバーン政権も権力に伴う腐敗が進み,麻薬取引による収入が役人を太らせ,権益を拡大させている.
 ターリバーンは,もともと穏健なイスラム法解釈が根付いていたアフ【ガ】ーニスタン社会に厳格な解釈を押し付け,特に女性には顔や身体全部を隠す衣装の着用を強制,通勤,通学さえも禁じた.
 外国の映画,ビデオ,音楽も禁止され,国民生活の規制への反発も内攻している.ターリバーンはなお,全土制覇とイスラム法の完全適用を進める構えだが,その足元はぐらつき始めている.

(From KyodoWeekly '00 Feb. 24)

 シューラもなくなっていた.マウラウィ(イスラム法学者)のタリバンの最高司令官が解散させてしまったのだ.

 〔略〕

 それでも初めは,タリバンが住民に解放者として歓呼の声をもって迎えられたのは不思議ではない.
 いい加減に平和になって欲しかったのだ.
 〔略〕
 だが,幻滅のときはすぐに訪れた.
 若者は泣きながら武器を持たされた.
 そこらじゅうで強制的な徴兵が行われた.今までにないことだった.
 タリバンは権力を行使することに馴れていないので,まことにつまらない方法で権力を誇示する.
 立派なイスラム教徒に向かって,髭を手の長さに切れという.髪も長すぎると切ってしまう.
 こんなことをして,人の心を掴めると思っているのだろうか.グラプ先生も,ペシャワルで立派な髭を短くしてしまった.そのほうが男前だと思うけど.
 で,タリバン自身はどうなの? はさみを使ったほうがいいのじゃないかと思う人はいっぱいいる.
 コーランだけでは政治はできない.
 神の戦士は,ジープやピックアップの持ち主を自分達のために無理矢理に働かせるので嫌われるようになった.
 車の所有者は,自分の車で前線へ行き,負傷者の輸送をさせられる.
 結果は収入がなくなる.車が傷む.
 強制的に車の運転をさせられるのがいやで,みんな車を置いて歩くようになった.
 しまいには,もともと貧乏なチャクの人たちは,タリバンに食糧を提供するのを嫌うようになった.もちろん,買ってくれるのではないからだ.
 中世への逆戻りが進んでいる.

Karla Schefter著「『哀しみの国』にすべてを捧げて 看護婦カルラの闘い」
(主婦と生活社,2002/9/17),p.227

東部の拠点ジャララバード、パシュトゥン人勢力が制圧か

 アフガニスタン東部の拠点都市ジャララバードからの情報によると、同地域や パキスタン在住のパシュトゥン人らが結成した「東部シューラ(評議会)」 が13日、同市を攻略した。ターリバーン勢力は撤退し、東部シューラはジャラ ラバード空港なども制圧した。
 一方、当地のターリバーン総領事館は否定してい る。

 北東部にはパシュトゥン人が多く住み、ザヒル・シャー元国王を支持する東部シューラは、少数民族主体の北部同盟の進攻に先駆けて地域的な支配権確立を急いでいた。

(21:02) http://www.asahi.com/international/update/1113/027.html

反ターリバーン勢力がカンダハル進攻との情報

 タジキスタンの北部同盟外交筋によると、反ターリバーン勢力のパシュトゥン人と見られる武装集団が14日午後(日本時間同日夜)、アフガニスタン南部のターリバーンの本拠地であるカンダハル市内に進攻したという。だが、同市を制圧したかどうかは不明という。
 同外交筋は北部同盟軍本隊が同市を制圧したとの情報は否定した。

 首都カーブル陥落後も北部同盟軍はカンダハルを目指し南へと進軍を続けていた。
 ターリバーンに加わっていた勢力の寝返り工作も展開。
 タジクのアフガン外交筋は14日午前の段階で、「カンダハル周辺でターリバーンと激しい戦闘が繰り広げられており、不安定な状態だ」と語っていた。

(23:45)同

タリバン、カンダハル放棄か

【イスラマバード14日=末続哲也】AFP通信が、アフガニスタンの反タリバン勢力「北部同盟」の駐タジキスタンの高官の話として報じたところによると、カーブルから撤退したタリバンは14日、南部の本拠地カンダハルも放棄した模様だ。
 タリバンと同じ最大民族パシュトゥン人の反対勢力の攻勢を受けたとみられる。

 タリバンはすでに失った北部地域のほか、東部、南部地域でも次々と撤退を強いられている。
 カンダハルの放棄が事実とすれば、最後の拠点都市を失ったことを意味する。タリバンは今後、拠点を南東部の山岳地域に移し、ゲリラ戦に臨むとみられる。

 同通信によると、北部同盟高官は「(地元の)民衆が蜂起し、北部同盟軍が掌握した。カンダハルにタリバン兵はいない」と述べた。
 また、北部同盟のアブドラ外相も14日、イラン国営テレビに対し、「カンダハルは完全に混乱に落ち込んだ。タリバン兵は見あたらない」と語った。

 アフガン・イスラム通信によると、タリバンは東部ロガル州や中部ウルズガン州からも撤退した。東部の拠点都市ジャララバードも反タリバンのパシュトゥン人勢力に掌握された。また、ロイター通信によると、北部同盟のカヌニ内相は14日、北部同盟や反タリバンのパシュトゥン人勢力などがロガル、ナンガルハル、コナル、ラグマンの東部4州を制圧したと確認した。

('01年11月14日23:59 web讀賣)

アフガン南部部族、タリバンと交戦か

http://www.yomiuri.co.jp/05/20011103i213.htm
 【ワシントン支局2日】米統合参謀本部のスタッフルビーム作戦副部長は2日「アフガニスタン南部の部族がタリバンと戦っている兆候がある」と述べ、同国南部の反タリバン勢力とも協力関係構築を進める姿勢を明らかにした。情報機関の報告をもとにしたもので、国防総省高官が、タリバンの大半を占めるパシュトゥン人居住地域のアフガン南部で戦闘が行われていることを示唆したのは初めて。 (11月3日23:51)

 (2)についても補足すると,上記で述べられているように,ターリバーンは最初からパキスタンの傀儡であった可能性が高い.

 また,(3)に出てくる麻薬の問題であるが,ターリバーンは「麻薬には反対しているが,アヘンには賛成の態度を取った.95年以降,カンダハル一帯はアヘンの生産量が飛躍的に増加した.ターリバーンがケシ栽培を奨励しているからだ.このアヘンはイラン・中央アジアを通ってロシアやEU,アメリカ,そして全世界に流れ出た」(引用・同上)

「今や彼ら〔アルカイーダ〕は,前線へ移動するに先立ち,パキスタン非正規軍と共にリシュコール――カーブル郊外の旧兵舎で,新支配者カシミールのハラカットウル・ムジャヒディン(HUM)によって訓練キャンプに変わっていた――の1500のテントで露営した.
 そこでは最終突撃に備え,パキスタンから輸送機が夜間飛来した.アナリスト達が警告していたが――国連特使ラフダル・ブラヒミ自身でさえ警告したが――その攻撃とは,パキスタンの将校が指揮を執り,訓練を積んだベテラン・アラブ戦士を先頭に立てて遂行されるものだった」(グリフィン『誰がターリバーンを育てたか』)など,パキスタンの莫大な支援ぶりは,他の軍閥を遥かに凌駕するものであることが,ターリバーン・ウォッチャーによって指摘されている.

 インタビューで,マスード氏は
>我々はアフ【ガ】ーニスタンの国土に展開していて我々が撮影したパキスタン軍の名称
>と数を,その詳細および場所とあわせて何度も国連に示しています.我々
>はまた,人道物資を装ってパキスタンからアフ【ガ】ーニスタン内へ武器弾薬を
>輸送する車輌のナンバーも国連に報告しました.最近はこの方法で戦車も
>運ばれています.
 と述べている.かなり具体的なものといってよい.
 ある事情から閉鎖されましたが,「対外情報調査部」というサイトで,捕虜となったパキスタン将校のリストが出たこともある.

 国連機関職員である山本氏は,一方でこのような情報が国連に提示され ていることを知らないか,無視していることになる.
 これは「それ自体が何かを語っている」と言ってよい.

 そしてターリバーンは,サウジアラビア,パキスタン,UAEから提供された資金をもって,敵司令官を買収し,敵陣営を切り崩すという戦法を用いている.カーブルのマスード軍やマザリシャリフのドスタム軍を破ったのは,いずれもこの戦法だとされている(アハメド・ラシッド『タリバーン』)
 「大規模な戦闘がなかった=民衆の支持があった」では全くない.

 なお,ペシャワール会・中村哲医師はごく最近まで,パキスタンの支援があったことを一切言わずにいた.
 しかも中村医師は実は1999年の段階では,
「アフガニスタンのタリバン政権がパキスタン政府,特に軍部と密接な関係があることは良く知られていたし,」(「医は国境を越えて」,石風社,1999/12/20,p.313)
と,その関係を認めている.
 なぜ,9.11テロ以降,講演会等においてパキスタンとターリバーンとの関係について口を噤んだのか?
 明快な説明をいただきたいものである.


 【珍説】
 アフガニスタンのタリバン政権についてだが,そもそもあのイスラム原理主義体制は国民の支持を得ていて,圧政などと多くのアフ【ガ】ーン国民が思っていなかったという厳然たる事実がある.

 その証拠に,現在のカルザイ政権下の憲法も,非常にイスラム色が濃い.

経済板,2010/09/12(日)

 【事実】
 まず,イスラーム過激原理主義と,イスラーム原理主義との区別も出来ていない時点で,全く説得力がありません.

 また,ターリバーンのイスラーム過激原理主義が,アフ【ガ】ーンで広く支持されていたという証拠は,何も見出すことができません.
 別項にあるように,その逆の証言なら幾つもありますが.

 さらに,
>カルザイ政権下の憲法も,非常にイスラム色が濃い.
というのは,欧米目線からの見方であり,パキスタンやイランに比べ,特に濃いという点は見受けられません.
 むしろ,アメリカの後見の下で起草されたために,高度に中央集権的であるなど,その影響が見られる旨の指摘さえあります.(2008.10.5,NY Times)
 さらに両性の平等などの規定もあり,保守的な同国南部の反発を招いているという報道さえあります.

▼ 以下は,
『アフ【ガ】ーン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』(伊勢崎賢治著,かもがわ出版,2010.2.20)
より引用.

――――――
 〔カルザイ政権は〕「国家和解プログラム(通称PTS;現地語の頭文字)」として,「元タリバン下級兵士」の職業訓練など,社会復帰事業を立ち上げた.
 公称8000人近くのタリバン兵を社会に再統合したと言っている.

 しかし,プログラム受け入れの条件が「現行のアフガニスタン憲法の受諾」となっていることが,問題を難しくしている.
 現在のアフ【ガ】ーン憲法は,タリバン政権崩壊後,西側の価値観の影響を受けて作られた憲法である.
 そのため,あまり主義主張のない,末端のどうでもいい民兵しか乗ってこないという指摘がなされている.

――――――p.36

――――――
 タリバンの解釈によるシャリア法〔クルアーンに基く法体系〕の実施が目指している政体は,政教一致の国家体制だ.
 一方,日本を含む西側勢力が目指すのは,政教分離の体制である.

 現在のアフ【ガ】ーン憲法は,国際法とシャリア法を調和すると謳っている.
 それではタリバンが納得しないだろうし,その上,タリバンが主張するシャリア法というのは,少しニュアンスが違うという問題もある.
 例えば,タリバン時代の公開処刑や,女性への処遇は,僕たちが「人権侵害」と見なしてきたものである.
 これらの復活が,タリバン側の要求だとしたら,僕たちはどうするのか.

――――――p.41


 【質問】
 ナジブラ政権崩壊後,共産党員達はどうなったか?

 【回答】
 ターリバーンに化けている,という未確認情報がある.

「彼の名はナキュー〔パキスタンの国連事務所職員,アフ【ガ】ーン人〕.30歳と若手だが,流暢な英語を話す.インタビューは自宅でという事だったので,郊外の彼の家を訪れると,ちょっと庭に来いと言う.
 庭に出てみると,彼は,周囲に立ち並ぶ高級住宅の一つを指して,
『あの家はターリバーン幹部の家です.彼らは混乱が続くアフ【ガ】ーンを避け,家族を,治安が比較的いいパキスタンの首都,イスラマバードに住まわせているのです.
 御覧なさい.屋上にパラボラ・アンテナがあるでしょう』
『はあ?』
『ターリバーンは国民には偶像崇拝に繋がるとテレビを禁止しておきながら,自分達はちゃっかり見ている.政治家としてBBCやCNNのニュースを見なければならないというのが建前ですが,実際,部屋の中は見ているのはインドの娯楽映画です.
 彼らは飲酒・不倫は死刑と言いながら,家で密かに酒を飲むし,夜の女達と遊ぶ者もいます』
『だって,政権の理念は厳格なイスラーム原理主義でしょ?』
『宗教規制は権力者達のパフォーマンスです.
 もちろん,中堅より下のターリバーン達は,イスラームに忠実な生活をしています.
 でも,トップの一部に不純物が混ざっているとしたら,どうなると思いますか?
 これが今の馬鹿馬鹿しいほど混乱したアフ【ガ】ーンの現実です.

 ところで,旧ソ連統治時代,アフ【ガ】ーンには相当な数の共産党員がいました.その人達はどこへ消えたと思います?』
『旧ソ連軍と一緒に,ロシアへ逃げたり外国へ亡命した』
『違います.彼らはターリバーンの仮面を被り,表面的には敬虔なイスラミストのふりをしている』
『なぜ?』
『権力です.権力を握り続けるためです』
『つまり,ターリバーンを名乗っていても,権力を握るための日和見だということですか?』
『高官になってしまえば,生活は豊かで自由です.だとしたら,理想を追求して暗殺されるより,現在の生活を謳歌し,仮面を被っていたほうが得策というものです』」

(大高未貴「神々の戦争」,2001/12/20,P.109-110)

 アフガン・ネットワーク幹事,柴田和重によれば,少なくとも旧共産政権軍が多数ターリバーンにいたことは事実であるという.

「この頃〔1995年1月末〕から,旧アフガニスタン軍のハルク派将校や,元国防相タナイ将軍に忠実な将校が,傭兵としてタリバンに加わっていた.
 このタナイ将軍は,1990年3月にナジブラ政権に対するクーデターを企てたが,ソ連失敗,パキスタンでISIの保護下にあった.当然,ISIが仲介役をしたと考えられる.

 タリバンは,支配地域拡大に伴い,多数の戦車や大砲,さらにはジェット機やヘリコプターも手に入れた.
 カーブルやヘラートでの失敗から,これから対峙する有力勢力を撃破するには,これらの兵器を使いこなす必要があった.

 この頃を境にして,タリバンの砲撃の精度が各段に向上したとされている」

( from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.38,抜粋要約)


 【質問】
 北部同盟の,エメラルド鉱山からの収入額はどのくらいだったのか?

 【回答】
 最大時には,1年に6千万ドルになったという.
 以下引用.

 長年にわたってアフガンのエメラルドは北部同盟の収入源という汚名を着せられていた.
 これらの宝石を売った収益―タリバンとの戦争時に北部同盟にとって緩衝地帯となっていたその山々で見つかる―は暗殺されたアーメド・シャー・マスード司令官が同盟のタリバンとの戦闘を財政的に支えるために用いられてきた.
 彼の義弟ラシッド・モハマディ(34)は内戦の期間中,この貴重な石の取引に従事していた.
 彼は1994年以来,アジアからヨーロッパ,中東へジェット機で飛び回り,北部同盟のビジネス担当の片腕となってきた.
 彼は最近,アラブ首長国連邦のアフガニスタン代理大使に任命され,またこの国の宝石産業を発展させる役目に携わることに決まった.
 良い年には故マスードはこの国の北東部に存在する数百の宝石鉱山から6000万ドルの収入を得ることができただろう.
 宝石はアフガニスタンからパキスタンおよびタジキスタンに運ばれ,そこでハードカレンシーに替えられて,銃や弾薬,ロケット砲,中古のヘリコプターなどの購入費にあてられた.

 技術的にはこの取引は違法なものではない.シエラレオネで起きた事件ののち,国連は「紛争ダイヤ」の取引に反対する国際キャンペーンを行ったが,アフガンの宝石の取引に対して規制がかけられたことはない.

 しかし,アフガンのエメラルドは軽く扱われてきた.評判の高いコロンビア産の中から選んできた多くのトレーダーからは厄介もの扱いされてきたのだ.
 今日,アフガンのトレーダーは,彼らの「地元産の」エメラルドは色,輝き,弾性などの点でコロンビア産の最良のものにひけをとらないと断言している.

〔略〕

 パンジシール渓谷のエメラルド採掘に対する課税は,ソ連占領期からマスードの資金源になっていたが,近年には彼は採掘や宝石の販売に対する統制を強化していた.
 彼が作ったシステムは去年(※2001年)の9月に彼が暗殺されてからも存続している.

タニヤ・グースージアン「アフガニスタンのエメラルド」
from 自由ヨーロッパ放送 2002年11月28日


 【質問】
 ペシャワール会・中村哲医師を漫画化したとされる「アフガニスタンで起こったこと」(講談社コミック「汚れた弾丸」に収録)の中で,「マスード軍が攻めてきた!」というコマがあるが,実際はどのような戦闘が行われたか?

 【回答】
 マンガでは,マスード部隊の兵と思しき,武装した何人かが銃を射撃している姿が描かれているが,これは実相とかなり異なると思われる.

 該当する戦闘は,中村医師の本の中では,こんな記述となっている.

「〔1996年〕9月20日,ジャララバードがタリバンに占領されると,旧勢力はクナール河沿いに一斉に遁走,これを追うタリバンと散発的な戦闘があった.
 パシャイー部族やヌーリスタン部族などの少数山岳部族は,パシュトゥン部族を主体とするタリバンに公然と反旗を翻し,診療所付近が前線になった.私達の診療所が辺鄙な山岳地帯に多く,少数山岳民とパシュトゥン部族との棲み分け境界線だったからである.
 ジャララバード占領2日後に,200名の中隊がダラエ・ヌールに進駐し,抵抗した指導者15名が路上で射殺された.
 この中には,ダラエ・ヌール診療所を作るときに協力した村民も含まれていた.彼らは旧政府=ソ連軍が同地に侵入したときと同じ動機でタリバンに抵抗しただけであった.

 9月30日,「反タリバン」のマスード将軍がパンジシェールからヘリコプターでダラエ・ヌール上流に駆け付け,抵抗するパシャイー部族の激励を行った.
 10月5日,パンジシェールから飛ばされたロケット弾が,診療所から200mの地点に落下して,農家を粉砕した.
 周辺が前線となって,タリバンの支隊が私達の診療所を占拠,診療活動が一時停止した.
 ジャララバードのタリバン司令部に申し出て診療所を返却させ,それ以上の悪影響は被らなかったものの,このとき,3つの診療所にいたJAMSスタッフ計15名が消息を絶っていた.
 ほどなく,皆,無事であることを確認したが,一時は我々も真剣に閉鎖を考えた」

(「医は国境を越えて」,石風社,1999/12/20,p.275-276)

 つまり,
・村を占拠した兵隊は,マスード部隊ではなく,ターリバーン兵.
・マスード部隊はロケット弾を発射(パンジシェールからダラエ・ヌールまで到達するロケット砲があるのか,そんな遠距離ロケット射撃に意味があるのか,疑問だが)

 これが後の著作では,こんな記述になっている.

 ダラエ・ヌール渓谷の中心,カラヒシャイ村の診療所付近が〔2000年〕8月20日,一時的に反タリバン=マスード勢力の手に落ちた.
 8月22日,再びタリバン軍事勢力がこれを奪回して上流に押し返したが,以後争奪戦が繰り返された.
 そのため,〔井戸掘り〕作業が著しく遅れたのである.

(「医者,井戸を掘る」,石風社,2001/10/20,p.30)

 一方,「BBCヒーロー」のマスード軍閥など,反タリバン勢力への武器援助は,公然と黙認されていた.ロシア,イランは大掛かりな補給を北部で行っていた.
 マスード個人は確かに開明的で,欧米筋に人気があった.
 だが,現場のわが方から言うと,あの旱魃の最中に,その混乱に乗じるように,ダラエ・ヌールを戦場にしたのは許し難い.
 その上,戦闘員ならともかく,こともあろうに作業中のカレーズに地雷を埋設して4名の農民が爆死,作業を遅らせた.
 我々には面白かろうはずがない.
 さらに,マスードの部下が,タリバン進駐前のカブールで婦女暴行を欲しいままに行って顰蹙を買っていた事実を,どれだけの「マスード・ファン」が知っていただろうか.
 マスードに統治能力はない.
 「グローバルな情報化社会」というのは,実はこの程度のものなのである.

(「医者,井戸を掘る」,石風社,2001/10/20,p.131)

 これら記述には疑問点がいくつもある.
・「大掛かりな補給」という記述には,別項で述べるように,事実ではない可能性が高い.
・婦女暴行は確かにあったが,それに対してマスードが処罰を行った事は述べられていない.なお,ターリバーンにおいても婦女暴行の話はいくらでも転がっている.ことさらマスードだけを取り沙汰するのは,客観的態度とは言えない.
・だいたい,ラバニ軍閥であってマスード軍閥というものはない.
・「医は国境を越えて」の記述を見れば分かるように,逃走するマスード部隊を追って戦闘を開始したのはターリバーンが最初であるが,ターリバーンけしからんという記述はどこにもない.
 「マスードの戦闘は汚い戦闘で,ターリバーンの戦闘はきれいな戦闘」とでも言いたいのだろうか?
・「争奪戦が繰り返された」中では,地雷を埋設した可能性は双方にあるが,「マスードの地雷」と断定した根拠は何なのか?

 また,中村医師は,不確かな伝聞情報でマスードをハザラ人虐殺犯呼ばわりするなど,反北部同盟的主張が目立つ.
 したがって,上述自体,安易には信用できない.

 結論を言えば,マンガの記述は非常に胡散臭いといわざるをえない.


 【質問】
 タロカンの守将アブドゥラ・ガルドはなぜマスードを裏切ったのか?

 【回答】
 本人曰く,「スパイ」として潜入するためだったという.
 以下引用.

 アブドゥラ・ガルドは,アフガニスタン北部にある人口20万の肥沃な谷間の町タロカンで,崩れかけたコンクリート・ブロックの家に住んでいる.
 アハマド・シャー・マスードの司令部は,タリバンが町を占拠する2000年の9月まではタカロンにあった.
 アブドゥラ・ガルドは,タロカンを守る北部同盟を支援し,マスードが退却するときは,彼と行動を共にした.
 しかし今年早々,ガルドは数百名の戦闘部隊を率いてタリバンに寝返り,彼を知る多くの人を驚かせた.
 彼らは元戦友と何ヵ月も戦った.
 そして11月11日,タリバンがタロカンを始め,アフガンの町を次々と放棄すると,アブドゥラ・ガルドは部下共々再び寝返った.

 〔略〕

 アブドゥラ・ガルドは,30代項半の顎鬚を生やした逞しい男だ.
 〔略〕
 戦争でなぜ2度も寝返ったのか,そのわけを知りたいと私が言い,ガルドは熱心に聞いてくれた.
 1度の寝返りでも西欧人には異常に思われるのに,アフガニスタン人がそれをすんなり受け入れているのが不思議だった.
 ガルドは自分は特別な例だと答えた.なぜなら――この話をするのは始めてだが,と彼は言った――密かにマスードの命を受けて行動していたからだ.彼は二重スパイだったのだ.
「私はここで,タリバンに味方する外国軍の数,彼らの国籍,彼らの戦略,彼らの司令官は誰かを調べ上げることになっていた.
 そして,マスードが攻撃をかけてくれば,タロカンの中から彼に加勢することになっていた」
 当初,彼の任務を知っているのはマスードだけだったが,マスードの暗殺後は,その他2,3人の知るところとなった.
 大半の人々はいまだに,アブドゥラ・ガルドがなぜ寝返ったのかを知らなかった.
 〔略〕

 タリバン全員がガルドの寝返りを信じたわけではないので,彼は監視下に置かれていた.彼と部下達は武器を没収され,自宅待機を言い渡されたこともあった.
 その間,マスードとの接触は控えた,と彼は言った.
 それから1ヵ月後,ガルドの指揮権が戻った.
 タロカン陥落の直前,ガルドは再び嫌疑を受けた.
 彼と部下達は,タリバンと一緒のときはたいてい,機動部隊の遊撃隊として行動し,マザリシャリフやバーミヤンやカブールのような,タロカンやクンドゥズから遠く離れた各地に派遣された,とガルドは言った.
 私はガルドに,この策略に協力するように戦士達をどうやって説得したのか,と尋ねた.
 彼は微笑を浮かべた.
「それは秘密だ」
と愛想良く言った.
 私は直も彼に迫った.自分の部下達を,本当の味方を殺すかもしれない前線へやらないように,定めし骨を折ったに違いない,と私は言った.
 その反対だ,と彼は答えた.
「私は部下達を前線へ送り,彼らは何度か凄惨な戦いをした.
 5人の将校を始め,戦士15人が捕えられたこともある.1人は捕虜にされ,他の4人は再武装して,北部同盟の戦士として戦場に復帰した」
 ガルドは笑って肩を竦めた.
「部下達に真実を知らせるわけにはいかなかった」

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.94-96


 【質問】
 ターリバーン独自の空軍なんてあったのか?

 【回答】
 グローバル・セキュリティによれば,タリバンはミグ-21およびSu-22,Su-17戦闘爆撃機とさらに少数のL-39練習機を爆撃機に変換して使用していたとされています.
 また,ミリタリーバランス2000/2001の記事の引用として,タリバンが約20機のミグ-21およびSu-22,および5l-39を持っていたかもしれないとしていますね.


 【質問】
 ターリバーンによるマザーリシャリーフ占領の様子は?

 【回答】
 ドスタム軍撤退による混乱と掠奪の中,最初に,ドスタムを裏切ったマリクの部隊がマザーリ入りした.
 次いで,ターリバーン軍数千人がやってきて,ターリバーン流の戒律をさっそく強制しはじめた.
 そしてパキスタン人義勇兵によって兵力は増強された……とのこと.

 以下引用.

 とうとう私たちが午後3時にマザールに入ると,群集が目的もなく道を走りまわり,他人からひったくれるものは何でも奪い,略奪のために商店の窓を叩き壊していた.
 ドスタムの肖像画は引き剥がされてずたずたになって道に転がり,兵士たちは銃をつきつけて逃走用の車を奪っていた.
 やがて静かになり,それは人口数十万の都市にしては無気味な静けさで,市民はドアにかんぬきをかけて,やって来そうななものが何であろうと,それを待っていた.
 黄昏どきが近づき,マリク配下の反逆者たちが戦車やジープに乗って町に大急ぎで入ってくると,AK-47を空に撃ち放しながら「神は偉大なり(アッラーフ・アクバル)」と叫んだ――おそらく,立ち去るドスタムの関係者が手厳しく書きとめたように,彼らの人生でこの言葉を叫んだのははじめてだっただろう.
 彼らが最初にとった行動の一つが,マザール刑務所から囚人を解放することで,その中には本物の政治犯と共に,幾人かの殺人犯や強姦魔も含まれていた.
 反乱の首謀者であるマリクは,顎鬚の生える望みのない童顔の司令官で,バンガローに居を定めたが,そこには権力と正当性のまさに象徴とも言うべきもの――弾丸で蜂の巣状になった,ドスタムの新しいキャデラック――が,車道に止められたままだった.

 翌日の午後,タリバンがマザールに華々しく入って来た時,彼らは攻撃用のトヨタに乗り,武装した数千人の兵士がマシンガンを携帯して,横6列×縦7列で車のうしろに鈴なりになって座っていた.
 バドギスから400kmの道のりを車に乗ってきており,彼らの多くは勝った部隊が途中で町を通過する時に,自発的に一緒になって来たのだった.

 突然にして,彼らはみな「イスラムの聖なる戦士たち,武勇の庭の木」★23となった.
 自分のことをサレ・プル出身のムッラー・グル・ムハンマドと呼ぶ若い男は,ハズラト・アリーの聖廟近くでトラックの傍らに立ち,ずうずうしい見物人をライフルの台尻で打ち据える許可を副官たちに与えた.
「イスラムに逆らうものはすべて,我々が止めてみせよう!」
 男はそう言って,ただちに効力を発するものとして,泥棒の手を切り落とし,音楽を禁じ,男性は全員顎鬚を伸ばさなくてはならないと発表した.全身をチャードリーで覆った姿以外で野外で見つかった女性は,ただちに鞭打たれることになる.
 タリバンの白い旗がハズラト・アリーの聖廟の上ではためくと,学生軍のメンバーは地元テレビ局のビデオテープの山を壊して,カセットの中身を門や電信柱に張り巡らせはじめた.
 モスクでは,拡声器が新しい法令を伝えはじめた.
 ターバンを被り髭を延ばし,サンダルを履いて,ロケット推進式の手榴弾の箙(えびら)を担いだタリバン信者は,その数を着実に増やして,カンダハールから投入されたパキスタンの義勇兵によって増強された.
 焼け付くように熱い通りでは,つい前日まで自信に満ちてスカートとブラウス姿で歩いていた女性も,ベールで通り過ぎた.
 モルムル通りのスルタン・ラジアー・スクールでは,アザーン,つまり勤行時報係(ムアッジン)の礼拝を告げる声がうつろに響いて,ひとけのない運動場を漂い,低空飛行のヘリコプターの隙間風の下を,鳩が散り散りに飛んでいた.
 花壇はこぎれいに植えられ,華やかな壁の壁画は学校と同名の,マザールの進歩的な女性知事がヘッドスカーフをまとって本を抱えた姿を描いていた.
 番犬が私に喧嘩を売るというよりも愛情を訴えかけて吠え,ひとりだけの番人はごま塩髭の老人で,学校は掠奪されて今は閉鎖されていると語った.
 だが,アフガニスタン人生来のもてなしの精神を抑えられず,彼は私を校内に入れてくれた.
 校長室とおぼしきところには,生徒たちのパスポートサイズの写真が詰まった箱を含め,学校の記録が部屋じゅうに放り出されていた.
 何百という微笑んだ顔が床から見上げ,生徒たちの頭にはスカーフが巻かれていた.
 女子の学校だった.
 引き出しと戸棚の中身が床にばらまかれている中に,生徒の作文の1ページ目があった.
「女先生,先生の知識は社会のためになります」
 ★23 Babur, Babur-Nama, p.564

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.104-106

 ウズベキスタンに接するアム川沿いのハイラタンの街に向かう道には,逃走する軍隊の遺留品が散らばっていた.
 122mm砲を乗せたトラックが道路の傍らに止まったまま,パンクを修理する時間がなかったために見捨てられていた.
 タリバンがハイラタン方向に移動する時,ウズベク当局はさらなる北部への移動を防ごうとして,数百トンものコンクリート・ブロックや,鉄製の対戦車バリア,それに蛇腹形鉄条網を橋の上に落としたのである.
 ドスタム将軍が豪奢な4輪駆動のジープで国境に到達するまでに,川に架かった「友好の橋」は閉鎖された.
 司令官の制服に身を包み,120人の従者を伴っていたドスタムは,車を降り,後に残る自分の配下の護衛に貴重品を渡して,橋を歩かざるを得なかった.
 だが護衛たちが将軍の命を救ったおかげで,ドスタムは程なくしてウズベキスタンから飛び去り,トルコに政治亡命した.

同,p.120

 行政面で何もターリバーンの動きが書かれていないことに注目.
 ターリバーンに行政らしきものが殆ど何もなかったことは,すでに色々な書籍で指摘されているが,マザーリシャリーフでもターリバーンは戒律の押しつけばかり熱心で,行政能力がなかったことを伺わせる.

 それにしても,古今東西を問わず,敗走する軍の風景には物悲しさを感じさせるものがある.


 【質問】
 ナジブッラーの最期は?

 【回答】
 酷い虐待を受けた後に射殺された.
 また,弟も同じ目に遭った後に絞殺された.
 死体はさらしものにされたという.

 以下引用.

 上官からの命令どおりに,彼ら〔ターリバーン先遣隊〕は前大統領と弟のシャープールを殴って意識不明に陥らせ,砦まで車で運ぶと,2人の睾丸を取り,半死状態の2人をピックアップトラックの後ろにつけて,前王の居城の周囲を何度も引き摺りまわした.
 虐待されてぼろぼろになった兄弟は,もはや痛みを感じることもなく,タリバンの暗殺者の手でナジブは射殺,シャープールは絞殺された.
 それから2人の死体は,大きな交差点の交通整理台から取ってきた,理髪店の看板柱のように派手な色の鉄のケーブルを首に巻かれて高く掲げられ,彼らの腐敗の象徴として煙草を指の間に詰め込まれた.
 夜が開けた後で噂が広がって,好奇心旺盛なカブール市民は,ぞっとするような前大統領の姿を見に出かけた.
 ナジブッラーの破れて血にまみれた服が,股間への虐待を暗示していた.
 愚かな若者たちが面白がって死体をいじくりまわし,指の間にあった煙草を鼻に詰めた.
 別の,とりわけ民族的に少数派の連中は,このさらしものを悪いことが起きる予兆と受け止めて,北部から中央アジアに向かう離郷の列に加わり,多くはマザーリシャリフに引き寄せられた.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.60-61

 ちなみに,クルアーン(コーラン)には
「死体を損壊してはならない」
という規定がある.


 【質問】
 ターリバーンが迫る中,ナジブッラーはなぜ国外へ逃げなかったのか?

 【回答】
 ナジブッラーは,同じパシュトゥーン人だからという理由で,ターリバーンのことを甘く見ていたようだ.
 彼は,マスードによる国外脱出の手引きも断っていたという.

 以下引用.

 過去4年間,弟と共に住んでいた国連アフガニスタン特別ミッションの施設の中で,ナジブッラー前大統領は静かに劇的な進歩を受け入れた.
 タリバンは仲間のパシュトゥーン人だ――ナジブッラーは,学生義勇軍が到着する前夜に訪ねてきた国連の警備員にそう語った.
 ナジブッラーはる彼らを恐れていたわけではなく,タジク人のマスウードが安全な移動を申し出たのを断っていた.
 だが,その夜カブールに入った小人数のタリバン先遣チームは,国連施設に一直線に進み,前大統領を捕らえた.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.60

 ただし,本書の著者はナジブッラーに対する肩入れの傾向が見られるため,割り引いて話を聞く必要があるだろう.
 確かに,マスードからの脱出話は,ナジブッラーにしてみれば信用できなかったかもしれないが.


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