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南アジアFAQ目次


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「VOR」◆(2012/12/28) 「タリバン」指導部 パキスタンに対米断交とインドとの戦争開始を要求

「VOR」◆(2013/03/10) 米国,アフガンのタリバンと交渉再開


 【質問】
 ターリバーン幹部の,外国に関する知識は?

 【回答】
 そもそもがデオバンド系神学校という,非常に狭い範囲の教育しか受けていないため,過激原理主義者にありがちな,「イスラーム諸国と,それを包囲する反イスラーム諸国」的な二元的世界観しか持っていないと推測される.

 傍証として,以下のような事例を挙げる.

 黒髯の副頭取〔サイド・マフムードゥッラー師,アフガニスタン中央銀行の第2副頭取〕は咳払いすると,ムッラーが光塔から呼びかけるような半分熱弁,半分詠唱といった調子で語り出した.
「〔略〕
 たとえ貧しくとも,我々はムスリムとして誇りを持っている.
 まもなく,純粋なイスラム政府を作り上げるだろう.
 我々はどのような圧力にも屈しない.
 イスラム教アフガニスタン首長国は,UNO(ウーノ)による国際的な承認を要求する!」
「ウーノとは?」
 私は灰色髯に訊ねた.
「ユー・エヌ・オー,です」灰色髯はそう答え,古式蒼然とした専門用語を口にした.「国際連盟ですよ」

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.176

 また,『大仏破壊』(NHK出版)によれば,ターリバーンのホ・タキ文化省次官は,アメリカを訪問したことでカルチャーショックを受け,以後,穏健派に転じたという.
 同様に穏健派とされるムタワキール・ターリバーン外相も,何かの機会でそうしたカルチャーショックを経験したと推測される.

 したがって,もし仮に当時のオマルをアメリカに訪問させることができたとしたなら,オマルも穏健派に転じたかもしれないが,ただ,殆ど人前に姿を現さないことでカリスマ性を維持していたオマルが,そのようなことに応じたかといえば,はなはだ疑問である.


 【質問】
 一方,「BBCヒーロー」のマスード軍閥など,反タリバン勢力への武器援助は,公然と黙認されていた.ロシア,イランは大掛かりな補給を北部で行っていた.
 マスード個人は確かに開明的で,欧米筋に人気があった.
 だが,現場のわが方から言うと,あの旱魃の最中に,その混乱に乗じるように,ダラエ・ヌールを戦場にしたのは許し難い.
 その上,戦闘員ならともかく,こともあろうに作業中のカレーズに地雷を埋設して4名の農民が爆死,作業を遅らせた.
 我々には面白かろうはずがない.
 さらに,マスードの部下が,タリバン進駐前のカブールで婦女暴行を欲しいままに行って顰蹙を買っていた事実を,どれだけの「マスード・ファン」が知っていただろうか.
 マスードに統治能力はない.
 「グローバルな情報化社会」というのは,実はこの程度のものなのである.

(中村哲「医者,井戸を掘る」,石風社,2001/10/20,p.131)

 これ〔国連の経済制裁〕とは対照に,反タリバン軍閥に対するロシアなどの外国武器援助は,半ば公然と国際社会に受け入れられていた.
 このような欧米諸国の対応は,難民流入を促進すると共に,眠っていた民族分派主義を呼び覚まし,旧ユーゴスラビアの内戦の悪夢を現実化するものであった.

(中村哲「医者,井戸を掘る」,石風社,2001/10/20,p.143)

 ロシアは公然と武器をマスード派に援助し,米国は10月に起きた自爆テロ事件で怒り,オサマ・ラディン氏〔原文ママ〕を匿うと噂されるタリバン政権をテロリスト集団と決め付けて威嚇しようとしていた.
 これに「非民主的態度」を非難する欧米諸団体の合唱が加わり,大旱魃の悲惨は同情を引かなかった.愚かなことである.「グローバルな情報化社会」なるものの実態がこれである.
 新たな集団的迷信としか思えなかった.

(中村哲「医者,井戸を掘る」,石風社,2001/10/20,p.113)

という記述があるが,大掛かりな補給がマスード軍に対して行われていた,というのは本当か?

 【回答】
 疑わしい.

 まず,そのようなことを主張しているのは,ターリバーンおよび中村医師といった人達だけである.
 中村医師のイスラーム過激派びいきは
「マスードの無差別砲撃」という虚偽発言,
「ターリバーンは血に汚れたところのない,きれいな政権」という発言,
「バーミヤン遺跡破壊は雨乞い」という無茶な擁護発言,
などから明白であり,信憑性は非常に低い.

 また,フォト・ジャーナリスト長倉洋海によれば,ロシア軍の兵器援助は有償であり,軍資金に乏しいマスードには満足な兵器調達ができなかったという.
 長倉の著作の中には,無駄弾を撃っただけで,その兵士をマスードが叱責するエピソードなど,貧乏エピソードが各所に出てくる.
 マスードに心酔している長倉の言葉を全面的に信頼する事は難しいが,その写真集を見ると,年代が下がるほどマスード部隊の兵士の装備が乏しくなっており,訓練風景では小銃すら満足に兵士に行き渡っていない.
 そうしたことから,マスード部隊の装備不足説には信憑性がある.

 おそらく,ロシア支援説の出所は次のような話からだろう.

 〔1995年〕8月5日,軍需物資を積み込んだロシア人操縦の輸送機が,ターリバーンの戦闘機によりカンダハール空港に強制着陸させられたのだ.
 はからずも,ロシア連邦がラッバーニー政権を裏で支援していることが白日のもとに晒される結果になった.

柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.58

 すでに上述したように,マスード部隊がロシアから武器を調達していたのは確かである.
 しかし,その実態は有償援助だった.
 パキスタン軍からタダで兵器をふんだんに貰うことができたターリバーンとは,とうてい比較にならない.


+

 【質問】
 パキスタンが親パキスタン政府をアフ【ガ】ーニスタンに作る目的は?

 【回答】
 (1) 戦略的深み確保
 (2) 中央アジアへの影響力拡大
 (3) パシュトゥニスタン問題の解決
という目的があった.

 (1) もし第4次印パ戦争に突入した場合,アフガーニスタンに基地を借り,そこに戦闘機等を持ち込み,パキスタン国内の基地が叩かれた場合,そこから反撃するという戦略論だった.
 パキスタンの国土は南北に長く,東西の奥行きがない.つまり,パキスタンはインドに対する防御のための奥行きがない.
 そのため,自分達の安全保障が真っ裸であるという意識に,常にさいなまれてきた.
 その弱点をカバーするため,アフ【ガ】ーニスタンのような後背地国に親パキスタン政権ができていて,その軍事基地を使用できるという状況が望ましいと考えてきた.

 こうした「戦略的深み論」の起源は1971年,東西パキスタン内戦が勃発し,東パキスタンがバングラディシュとして独立する過程でインド軍と対立した際,イランのパーレビ国王が自国内の軍事基地をパキスタン軍に提供し,パキスタンはそこに戦闘機等を持ち込んだ経験に由来する.

 (2) 中央アジア各国との関係強化は,単に経済的なものだけではなく,イスラーム圏による対インド包囲という性格も持つ.
 イスラームの連携ができれば,カシミール問題解決の支援にもなる.
 その中央アジア各国に食い込んでいくのに,アフ【ガ】ーニスタンをものにする必要があった.

 (3) パキスタン独立の際,旧英領インドとしてパキスタン側に組み込まれたパシュトゥン人は,殆どが北西辺境州とバルチスタンに住んでいた.
 当然,独立の際,地勢的に彼らはパキスタンに帰属するものと考えられた.
 ところがパシュトゥン人リーダー達は,統合インドを主張するネルーと語らい,インドに帰属する動きを示した.彼らは,パキスタンの権力中枢が,人口の6割を占めるパンジャブ人に抑えられるのは目に見えていたので,インドに帰属すると主張したほうが,色々な意味でバーゲニング・パワーがあると考え,パキスタンへの編入に抵抗した.
 いまだにこの問題は燻っており,パシュトゥニスタン問題と呼ばれてきた.しかも,この運動を歴代のアフ【ガ】ーニスタン政府は支援してきた.

 この連携を封じる意味で,イスラーム過激主義は都合が良かった.
 イスラームの思想には国境がないという考え方がある.
 アフ【ガ】ーニスタンにナショナリスト政権が存在する際,「イスラーム・インターナショナリズム」としてのイスラーム過激主義を利用する事は意味を持つ.

 また,パシュトゥン人が分離独立を言い出さないようにするためにも,パキスタンは,国内とアフ【ガ】ーニスタンのパシュトゥン人に対し,常に保護・優遇を与えてきたという姿勢をとる必要がある.
 そしてまた,事態がどう転がっても,パシュトゥン人が反旗を翻させないようにしておく必要があった.

 ターリバーンによって,パキスタンはようやく,イスラーム過激主義とパシュトゥン民族主義を抱き合わせた政権をアフ【ガ】ーニスタンに成立させることができたのである.

(遠藤義雄 from 「ポスト・タリバン」,中公新書,
2001/12/20,P.105-106,抜粋要約)


 【質問】
 他のターリバーン関係の書籍を見ても,パキスタン軍が直接介入していると述べているものを見たことがない.
状況証拠濃厚なら,「……という話もある」という形で書くだろうが,それもない.

パキスタンからは主にデオバンド神学校の生徒がアジテーションに乗せられてターリバーンに参加したという.
武器も,パキスタン国内のターリバーン・シンパな軍部から提供されたとすれば, 当然,装備もパキスタン式だろう.

それをマスードは見誤ったのではないか?

 【回答】
以下を参照.
ttp://homepage2.nifty.com/bet-aramaye/wtc/massoud2.html
ttp://homepage2.nifty.com/bet-aramaye/wtc/massoud.html
マスード氏は具体的な指揮官名や階級を挙げています.

また捕虜が神学生ばかりでないことは以下に.
ttp://www4.justnet.ne.jp/~k-nsh/pa5_af01q14.htm

マスード氏の具体的な指摘に対する,具体的な反証を示してください.
例えばサイド・ウルザファル准将が2000年6月にショマリ平原ではなく,別の場所にいたということを,明確に示すものを.

獅子の咆吼
アフマド・シャー・マスウード将軍とのインタビュー


A. Raffaele Ciriello
Francine Pierce(英訳)
2000 年 9 月
ダールカンド(アフ【ガ】ーニスタン北部)


 〔略〕
 先日,タロカーン Taroqan の北部拠点が,長期におよぶ包囲の後,「コーラン学生(ターリバーン)」に襲撃され,陥落しました.現在の戦闘状況は,どういったものなのでしょうか.

 タロカーンへの最近の攻撃は,初夏に始まった攻勢の最終段階にすぎない.この攻勢は,ターリバーンのナンバー2,ムッラー・ラッバーニー(アフ【ガ】ーニスタン公認の大統領,タジク人のブルハーヌッディーン・ラッバーニー氏とは全く無関係)が,パキスタン大統領ムシャッラフから1万人以上の兵を受け取って始めたものだ.この1万人にはイスラマバードの正規軍に属す2千の正規兵も含まれていた.
 サウジの富豪ウサーマ・ブン・ラーディンの軍隊「アル・カーイダ」からは 千人,アラビア,バングラディッシュ,フィリピンからの志願兵がさらに数名それに加わっている.

 最初の攻撃は,パキスタンのサイド・ウルザファル sayed ul-zafar 准将指揮のもと,6月終盤,カーブール真北のショマリ平原で,発生した.その時は,我々は6度におよぶ攻撃を押し返すことができた.相手には重い損失を与えた.我々の諜報機関がカーブールの病院で確認した情報によると,500 人以上が死亡し,数千人が負傷した.総指揮官のエルシャード ershad 准将も負傷した.

 この最初の段階で,パキスタンから渡された支援が実に有効であることが証明された.非常に優れた戦術にもとづいて軍事行動をとる武装集団に,この時初めて,我々は遭遇したのだから.

 ターリバーンは,パキスタンでの二度目の相談の後,我々の弱点を突いてきた.それに続く数週間はターリバーンが北部へ爆進した.タフリン tahrin,インカミシュ inkamish が彼等の手に落ちた.バンギ bangi での我々の反撃を蹴散らした.そして最終的にタロカーンに接近した.戦闘は33日間継続した.我々は2人のパキスタン人准将に対峙しなければならなかっただけでなく,さらにアフシャード,モニール両将軍に率いられた砲兵大隊と対峙しなければならなかった.このような猛攻がまさにこの時期に行われた真の理由は,国連総会が近づいていたからで,その国連総会でターリバーンは(アフ【ガ】ーニスタン代表としての)公的な承認請求を提出することになっていた.

 従って,必死な防戦によって住民に恐怖を与えるようなことはしたくない,とタロカーンでは私は考えた.私は撤退を命じた.包囲中,我々は 300 人を失った.しかし撤退は極めて周到に実行され,我々は敵に何一つ残さなかった.銃弾の箱一つさえ残さなかった(この発言の正確さを裏付ける直接の証言が証拠として集められている).

 敵の損失は膨大だった.約 2000 人が死亡した.パキスタン人だけでも 70 人が死亡し,約 1800 人が負傷した.高名なジャミール jamiil 大佐もまた死亡した.数日後,大佐はペシャワールの軍隊スタディアム the Army Stadium に記録され,その英雄としての死が讃えられたが,その死地はなんと ---------- カシミールとされていたのだ!!

 この攻撃に膨大な軍事援助が与えられたのは,冬前にゲームを終わらせるためであった.約1万5千人をタロカーンに配置し,攻撃が翌週以降も続けられた.ターリバーンの先頭隊はコクチャ川 kokcha まで到達した.そこで最終的に彼等の進撃が止まった(我々は,この攻撃の最終局面でターリバーンの進軍が,アワル・ソイ awar soy 前面にまで至ったことを確認している).

 確実な情報は他にもある.パキスタン人は小さな船を提供している.この瞬間はチャラスヤーブ charasyab にある.これは我々への急襲のために使用され得る.さらにはタジキスタンないしウズベキスタンへ向かってのアム川越えに使用される可能性もある.さらに最近,我々の情報源は,敵がバダクシャーン badakshan 地域への攻撃を予定していることを,伝えている(この地域は統一戦線が完全に支配している最後の地域).攻撃は,パキスタン領内のドラ dora 峠から直接始められであろう.実はこのドラ峠にチトラル chitral 地域を通って,すでに2千人が注ぎ込まれている.そのうち1500人がパキスタン正規軍の軍人だ.

 「パキスタンがあなたの敵を支援している」ということを国際世論に気づかせるために,あなたはどのようなことをされていますか?

 それはすでに皆に明白な情況だ.今年の夏,ムシャッラフ将軍は,BBC ラジオとのインタビューで,ターリバーンに,このゲームを終わらせるために必要とされえるあらゆる物質的援助を保証した.パキスタン人は,この干渉を国際社会から非難されることを恐れている.そこでパキスタン人は,今年の冬前に我々を片づけるため,最大の努力をすることを決定した.ついこのあいだも, EU の代表団が,パキスタン内で,機密文書を発見している.西洋の外交資料がその概要を明かにしているが,その機密文書は,イスラマバードの正規軍がターリバーンと歩を一にして行動していることを否定できない形で証明しているはずだ.

 にもかかわらず,国連はカーブール政権(ターリバーン)の人権侵害を非難するだけだ.我々は,アフ【ガ】ーニスタンの地に配置され捕虜にされたパキスタン軍人の名と顔を,詳細な情報と捕虜にされている場所を添えて,国連に情報提供している.さらに我々は,非軍事車両のふりをして,パキスタンからアフ【ガ】ーニスタン内に侵入し,武器と弾薬を運搬している車両のナンバープレートの番号も国連に報告している.最近では,この方法で戦車さえ運び込まれたのだ.

 和平交渉の現状はどうなっているのでしょうか.あなたはまだ,ロヤ・ジルガ loya jirga の設立を支持していますか.

 ムッラー・オマルと私は電話で話をした.それほど前のことではない.最初彼は,民主的な選挙をしようという私の提言を受け入れた.しかしその後,それはイスラムの真の精神に合わないと考えて,心変わりしてしまった.我々は決して「アフ【ガ】ーニスタン首長国連邦(「アフ【ガ】ーニスタンイスラム共和国」という以前の呼称に変えてターリバーンが新しく付けた国名)」を認めない.これは,我々の敵も良く知っている.ロヤ・ジルガ(全ての民族の代表からなる民主的な議会)の設立以降は,我々は自由な選挙を支持する意向なのだ.
 ターリバーンへの我々のメッセージは明確だ.もし彼等が,彼等が言うとおりに,アフ【ガ】ーニスタン人の,とりわけ最大多数派のパシュトゥーン人の(ターリバーンへの)無条件の支持を信頼しているのであれば,なぜ彼等は自由で民主的な選挙を拒絶するのか.ブン・ラーディンの 3500 人の部下を含む膨大な量の武器や財産を持ちながらも,パキスタンの援助がなければ,一週間でさえ持ちこたえることが出来ないことに気づいていながら,なぜ,ターリバーンは戦争を続けるのか?


 近い将来のことですが,やっかいなブン・ラーディンの問題をあなたはどう扱うつもりでしょうか.結局のところ,アメリカは,ブン・ラーディンが関係しているとされるテロ攻撃への,ブン・ラーディンの関わりを示す証拠を何も提示していないのですが.

 ウサーマ・ブン・ラーディンはテロリストだ.テロリストとして扱われることになるだろう.利権の複雑なネットワークが,かなり以前からウサーマをターリバーンに,またその指導者オマル師に直接むすびつけている.オマル師は,ウサーマ・ブン・ラーディンの娘の一人と結婚している.
 アルカーイダが,アブー・クバーブ abu koubab 将軍を指導者とする約 3500 人をアフ【ガ】ーニスタンの地に配置していること.これは確実であると我々は考えている.ブン・ラーディンを国際法廷に差し出せという外からの圧力はオマル師に全くかかっていない.しかし情況が許せば,我々は是非ともこれ(ウサーマの国際法廷への引き渡し)を実行したいと思っている.

 ターリバーン政府が恐らく最も非難される点は,人権に関するもの,特に女性に対する,明確な人権侵害(violations : rape の意も含む)です.あなたのお考えをお聞かせ下さい.

 1994 年から 1996 年のカーブールのラバニ大統領政府のもとでは,民族,宗教上の少数派への配慮と融和を成し遂げるための,最大限の努力がなされた.その当時は,女性は,無制限に教育が許されていただけでなく,どの職業にもつくことができた.このシステムを我々は再構築したいと願っている.まず自由な無記名の普通選挙からはじまるシステムだ.自分の娘達が,自由な生活を自由な自分の国で送る,という夢を私は棄てたことがない.

 最近の攻撃,特にカーブール北部のショマリ shomali 平野への攻撃は,膨大な数の難民を産みました.難民の情況はどのようなものでしょうか.

 難民の総数は約15万人にまで達する.その大半はパンシール峡谷(マスウードの本拠地)に避難しており,その大半はショマリ地域からきている.すでに 1998 年と 1999 年,ターリバーンによる夏の攻撃中に,彼等は自分たちの家から逃げ出してきた.ターリバーンは彼等の村と耕地を破壊してしまった.そして最近,1万9千人の難民の洪水を我々は引き受けた.タロカーン陥落後,北に移動していた人々だ.彼等はカーブールの支配者の統治の実体をよく知っているので,逃亡を選んだのだ.僅かな例外を除いて -- フランスからの働きかけのことだが -- ,国際的な人権団体の活動が,特にアフ【ガ】ーニスタン北部で,存在していないことを残念に思う.次の冬は彼等難民にとって実に辛いものとなる可能性がある.他のアフ【ガ】ーニスタン人は,伝統的に相互扶助の精神 hospitality に富んでおり,難民キャンプ近くの多くの家族が難民を受け入れているが,それで十分であるとはとても言えない.しかも難民の数はどんどん膨大になっていく.国際社会による難民への配慮が,早急に必要とされている.

 ターリバーン政権がアフ【ガ】ーニスタンの 95% を支配してしまい,最終的に国連がターリバーン政権を認知してしまうのでは,という恐れはあなたにないのでしょうか.

 ない.国連の認知は下りない,と我々は強く確信している.最も基本的な人権の侵害が,とくに女性に対するそれが,明々白々であるからだ.それに加えて,我々の敵はアヘン(麻薬)の栽培と密輸出を許可しているし,この費用のかかる戦争を実施するために,パキスタンとブン・ラーディンから資金援助を受けてもいる.

 おっしゃるように,実にお金のかかる戦争です.あなたのほうでは,どのように資金を調達されているのでしょうか.

 ずいぶん前から,我々はパンシール峡谷の瑠璃原石で収益を得ている.また我々は紙幣を印刷しており,その紙幣ですべての市場から品物を購入することが出来る.(パンシールは,想像を絶する垂直の岩壁からなる峡谷.カーブール北東に位置する.ヒンドゥー・クシュ山脈の突出部 buttress に源を持ち,その後,ヒマラヤ山脈の基盤 roots となった.アフマド・シャー・マスウード将軍は,ジャンガラク jangalak の村に 1953 年生まれ,パンシールを自分の難攻不落の避難所とした.侵攻の際,パンシールの獅子の殲滅を目指した7度のソ連軍の無駄に終わった攻撃は,いまだに,軍事戦術の教科書で,子細に検討されている.5万人以上の兵,戦車,戦略爆撃機スホーイ,ツポレフを配して行われた,1984 年の最後の印象に残る攻撃は,週刊誌『タイム』が評したとおり,「チンギスカンの賞賛」をも喚起したであろう.
 紙幣について.我々は,タジキスタンからの真新しい「アフガーニ」のスーツケースのアフ【ガ】ーニスタンへの到着を確認している.アフ【ガ】ーニスタンの紙幣としてはその他に,1994 年から 1995 年にかけてラバニ大統領に印刷された「アフガーニ」,また同時期に,当時はラバニ・マスウード同盟と対立していたウズベク人軍事指導者ラシード・ドスタム将軍によって発行されていたもの,そして最後にターリバーンがスウェーデンで印刷させている紙幣,がある.共通の目的として,敵の経済を混乱させ,自陣の経済を守ることがある.最近の現地の交換レートは,1ドルが,6万6千アフ【ガ】ーニスタン.)

 ついこのあいだで,ターリバーンがカーブールに入ってから4年目となりました.カーブール陥落時,あなたは,ご自身の部下達と一緒に,一発も発砲せずに,脱出しました.4年間このような狭い領地に閉じこめられるはめになることを知っていたら,あの時,あなたは同じ対応を取られていたでしょうか.侵入してきたターリバーンとあの時,一戦交えておくべきだった,とはお考えになっていませんか?

 NO だ.私はまだ,あれが賢明な選択だったと確信している.ターリバーンのカーブール近郊への接近は,全く予期されていなかった.少しでも迎撃すれば,町を引き裂くことになり,市民に膨大な死者を確実に産み出していただろう.

 統一戦線(複数の民族からなる,反ターリバーン同盟)は,なんと健全なんでしょう.リーダーが部下全員と共に敵に逃亡してしまう光景は,日常茶飯事なのですが ---- .

 統一戦線はまとまっており,逃げ出すリーダーは僅かだ.最近,北部のパシュトゥーン族のパシュトゥーン人リーダー達の支持を失っているのは,ターリバーンのほうだ(パシュトゥーン人は,アフ【ガ】ーニスタン南東部の多数派民族で,ターリバーンの揺籃地).アリート arit 将軍はパキスタンに呼び戻され暗殺された.つかまったバシール・バグラーニ bashir baghlani も同じめにあった.これは宗教の戦争ではないことをよく覚えおいてほしい.人々は,自然とターリバーンの政治とイデオロギーに反発している.我々は,冬前に,新たな戦線を開く予定だ.タロカーンは我々の手に戻るだろう(このインタビュー後の数日間,マスウード将軍は,イランのマシュハドで数人の重要人物と面会した.まず,ウズベク人軍事指導者ドスタム将軍.ドスタム将軍は,アフ【ガ】ーニスタン北部に多くの支持者を得てる(サマンガーン地域だけで2万人と言われている).ついで,イスマーイール・ハーン.ヘラートの以前の支配者(1992-1995)で,アフ【ガ】ーニスタン軍の大将軍であった.ソビエトへの抵抗の初期に,ヘラートの守備隊の反乱を率いて有名になった. 1997 年ターリバーンによりカンダハールで投獄されたが,イスマーイール・ハーンは,2000 年初頭に逃げ出し,イランへ逃れた.3人の指導者は,過去のしがらみを水に流し,反ターリバーンの軍事作戦における協力関係を強める点で合意したようである).

 夜も近づき影も長くなってきた.質問はあと一つにしなければならないだろう.数ヶ月前,ターリバーンのジェット機が,マスウードの部下により,対航空機用スティンガー・ミサイルによって追撃された,との報告がありました.この武器はずいぶん昔に使われたきりで,今回は久しぶりです.これは内的な軍事情況の回復と考えることはできないでしょうか.アメリカ製のスティンガー対空ミサイルは,アフ【ガ】ーニスタンの舞台へ 1986 年に初めて登場しました.頼りになる唯一の武器として高い名声をはくしました.この武器が結局,ソ連軍を3年後にこの国から追い出すことになりました.この種の事柄は,アフ【ガ】ーニスタンでは,容易には忘れられません.

 私の質問に,マスウード将軍の眼は瞬時に鋭くなった.しかし次の瞬間,マスウード将軍は,私に微笑みかけていた.

 

アメリカのみなさんへ

アフ【ガ】ーニスタン・イスラム共和国,国防大臣,アフマド・シャー・マスウードより
上院議員国際関係委員会,国際関係部門でのアフ【ガ】ーニスタンの事件に関するヒアリングで
1998 年 10 月 8 日

 神の名において.
 アメリカ合衆国国民の高貴なる代表者であられる委員長殿

 今日,私がこの伝言を貴方にお伝えするのは,自由と平和を愛するアフ【ガ】ーニスタン国民のため,ソ連共産主義に抵抗し打ち破ったムジャーヒディーン自由戦士達のため,さらに未だに抑圧と外国支配に抵抗し続けている男女のためです.さらにそれは,アメリカ人とアフ【ガ】ーニスタン人に等しく共有されている同じ価値と理念を擁護するために自らの生命を犠牲にした 150 万人以上の殉教者達の名に誓ってのことなのです.

 現在はアフ【ガ】ーニスタンと世界の歴史に於いて決定的に貴重な瞬間なのです.アフ【ガ】ーニスタン人が別の段階に踏み込んでいった時,アフ【ガ】ーニスタンが自由な国,独立国家としての存続のための闘争と抵抗の新しい段階へ入った時なのです.

 私は過去 20 年を,青年期,成人期の大部分を,我々の自由,独立,自治権,尊厳を守るための激しい戦闘を行ってアフ【ガ】ーニスタン国家のために尽力する同胞と過ごしてきました.アフ【ガ】ーニスタン人は,神と国家のため,ある時は単独で,またある時は国際社会の支援のもとで,戦いました.あらゆる困難に抗して,我々は,自由な世界とアフ【ガ】ーニスタンを目指して,10 年前,ソヴィエトの拡張主義を押さえ息の根を止めました.

 しかし我が国の戦争に巻き込まれた人々が勝利の果実を味わうことはありませんでした.その代わりに,外国の陰謀,謀略,違反まがいの行為,および,国内の闘争の旋風に巻き込まれてしまったのです.我々の国,我々の国民は,残酷な仕打ちを受けました.我々の国民は,桁違いのどん欲,権力欲,無知の犠牲者なのです.我々アフ【ガ】ーニスタン人も過ちを犯しました.我々の欠点は,政治的な無知と未経験からくる,無防備さ,騙され安さ,激しやすい傲慢な自己でした.しかしだからといってこの我々の欠点は,いわゆる冷戦の諸勢力が,この正当な勝利を台無しにし,アフ【ガ】ーニスタンを滅ぼし従属させるための悪魔的な計画を実践するために,実行したことを決して正当化することはないのです.

 今日,世界はそのような誤った悪しき行いの結果を明確に眼にし実感しています.南中央アジアは騒乱の中にあります.戦争が起こりそうな国もあります.非合法な麻薬栽培,テロリストの活動,計画の実践が増加しています.民族や宗教が原因となる大量虐殺,強制移住が発生しています.男女の最も基本的な人権さえ不謹慎にも犯されています.この国はしだいに,狂信者,過激派,テロリスト,傭兵,麻薬マフィア,プロの暗殺者に,占領されていきました.

 ある集団,すなわちターリバーンは,イスラムを,またアフ【ガ】ーニスタンを,さらには数世紀の歴史を持つ我々の文化的伝統を,正当に代表するものではありませんが,この危険な情況を悪化させる外国の援助と,直接的な関係を持っています.彼等は,アフ【ガ】ーニスタンの他のどの勢力とも,対話,接触,妥協を求めず応じようとしません.

 不幸にも,この暗黒の成果(ターリバーン)は,パキスタン内の政府系及び非政府系の有力な団体の直接の援助,後押しがなければ,実現するはずのないものでした.パキスタンからの軍事的な後方支援,燃料,武器の受容に加えて,我々の諜報機関の報告によると,準軍人,軍事アドバイザーを含む 28000 人以上のパキスタン人が,アフ【ガ】ーニスタン各地のターリバーン占領軍に参加しています.現時点で我々は自軍の捕虜収容キャンプに軍人を含む 500 人以上のパキスタン人を収容しています.三つの主要な問題,すなわち,テロ,麻薬,人権が, --- パキスタンから煽動されターリバーン占領地で生じているのですが ---, 悪の三角形の一角として結合しています.民族や宗教の如何にかかわらず,多くのアフ【ガ】ーニスタン人にとって,アフ【ガ】ーニスタンは再び被占領国となってしまいました.十年の間で二度目です.

 世界中のターリバーン支持者とそのロビーストにより宣伝された過ちを訂正させて下さい.この情況は,短期的にも長期的にも,例えターリバーンによる全面的な統治が実現したとしても,誰の利益にもならないであろう,ということです.この地域に安定,平和,繁栄をもたらすことはないでしょう.アフ【ガ】ーニスタン人はこのような強権的な政体を容認することはないでしょう.周辺国は決して安心安全を感じることはないでしょう.アフ【ガ】ーニスタン内で抵抗が止むことは決してないでしょう.それどころか抵抗はアフ【ガ】ーニスタン内の全ての民族,社会階層を巻き込んで,国内全土に新たに広がるでしょう.

 目標は明確です.アフ【ガ】ーニスタン人は,我々国民に受容されうる民主的で伝統的な機構による,自治権を再び手に入れたいのです.いかなる集団も,派閥も,個人も,暴力ないしその代替物によって,その意志を他者に押しつけ強制する権利を持たないのです.しかしはじめに障害が除去されねばいけません.戦争が終わらねばいけません.平和が築かれ,伝統的な統治が整えられ,我々が民主的な政府の構築へと進む必要があるのです.

 我々はこの高貴な目標に向かって動いています.不寛容,暴力,狂信からヒューマニティーを守ることを我々の義務の一部と我々は考えています.しかし国際社会と世界の民主主義はこの貴重な時間を無駄にすべきではありません.アフ【ガ】ーニスタンの勇敢な人間が自由と平和と安定と繁栄への道上の障害を除去する行いの援助に,何らかの方法で,(国際社会は)決定的な役割を演ずべきなのです.アフ【ガ】ーニスタンの人々の熱望に抵抗する国々への効果的な圧力も実行されるべきなのです.我々の代表と,アフ【ガ】ーニスタンの平和と自由のための幅広い合意の一部たりえ,またそうあることを欲している全てのアフ【ガ】ーニスタン人との,建設的で実りある議論に参加していただくようお願いします.

合衆国の国民と政府にご多幸をお祈り申し上げます.

アフマド・シャー・マスウード

3.1 「戦う集団」ターリバーン軍団の変質

 当初におけるターリバーンは,カンダハールで世直し運動を始めたウマル師を中心とするムッラー集団に,パキスタンの神学校で教育を受けていたアフ【ガ】ーニスタン難民の子弟を中心とする神学生が加わって構成されていたとされている.その後,支配地域を拡大していくのに伴い,治安の回復を期待するパシュトゥーンの有力者や前政府軍の将校も参加していくことになった.すなわち,「戦う集団」ターリバーンは,ほとんどがアフ【ガ】ーニスタン人により構成され,それに対ソ聖戦に参加していた少数の「アラブ・アフ【ガ】ーニスタンズ」やパキスタン人が加わっていた.

 しかし,このような構成が徐々に変化してきたようだ.既に指摘されているように,長びく内戦にアフ【ガ】ーニスタンのパシュトゥーン地域には厭戦気分が漂っており,兵士を調達することが難しくなってきているとされている.それに伴って,パキスタン人神学生やオサーマ・ビンラーディン配下のアラブ人集団,さらには,チェチェン人等のターリバーンにより訓練キャンプを提供されているイスラーム過激集団から構成される勢力,すなわち,「国際義勇軍」の占める比率が大きくなっている.そして,それにパキスタン軍も直接戦闘に関与しているとの指摘もある.2000年9月のタロカン攻略に参加した約2万の兵力の30%以上が,このような国際義勇集団であった,と軍事専門誌は指摘している.ロシア連邦では,3万の国際義勇兵が戦闘に参加していたとしている.3月にバーミヤーンを訪問した日本人医師中村哲氏によれば,破壊された石仏周辺に集まっていた数百名のターリバーン兵士の内の半数は話している言葉からパキスタン人であるとしており,これの指摘を間接的に裏付けることになっている.

 また,米国人ジュリー・シールズ(Julie Sirrs)は,反ターリバーン勢力に捕らえられている外国人捕虜113名の氏名,年齢等の一覧を作成し,ターリバーンへのパキスタン軍の関与を示唆することをした.その113名の内の110名はパキスタン人であり,3名がビルマ人,2名が中国のウイグル人,そして,1名がアラブ人となっている.アラブ人の場合,捕虜になるより自決の道を選択するため,捕虜とすることが特に難しいとされていることから,アラブ人捕虜の数が実際に戦闘に参加している人数に比較して少ないものと考えられる.
 意外であるのは,パキスタン人捕虜で自らを神学生と名乗ったのは43%しかおらず,半分以上は他の職業を名乗っている点である.一人の捕虜は,パキスタン統合情報部(ISI)によりリクルートされたことを認めている.また,捕虜となった時点での年齢をみても,30歳以上の捕虜が11名(40歳代が3名)と10%を,25歳以上30歳未満が24名と20%強を占めている.これらの捕虜の年齢は,神学校で基礎教育を受けている神学生から予想される年齢とはかけ離れたものである.
 これら年齢の高い捕虜,特に35歳を超えるような捕虜は,軍事顧問的存在のパキスタン軍人である可能性があるとの指摘がなされている.

 これら事実や指摘をを踏まえれば,ターリバーンの戦闘軍団に占めるパキスタン人やアラブ人を中心とする外国人の割合が大きくなっているのは間違いなく,パキスタン軍も戦闘に関与していることも嘘とは言えないようだ.そして,カーブルやカンダハールで,予想される攻勢に参加するために,アラブ人等外国人の数が最近増えていることが報じられている.

「パンジシールの獅子」マスード 4 in 軍事板

 パキスタンが幾ら否定したところで,ターリバーンの成功に彼らが関与していたことは,どう考えても疑問の余地がない.
 当初はまだISIがヘクマティアールを支援している状態で,ターリバーンはバーバル内相から支援を受けていたが,間もなくISIも説得されて方針を変え,彼らの発展の支援をするようになる.
 ターリバーン登場の後ろには,マウラナ・ファズル・レーマン率いるJUI(ウレマ・イスラム協会,ジャミアト=イ=ウレマ=イ=イスラミ)の強い影響があった.JUIそのものも,多くのマドラーサの運営に携わっており,93年にはパキスタン政府の連立政権を担ぐメンバーとなった.
 94年から95年にかけての冬に,アフ【ガ】ーニスタン各地に進撃したターリバーン軍は,戦車,装甲車,大砲,それに軍用機まで備えていた.しかし,スピン・バルダグ,カンダハールその他で,どれほど大量の武器と物資を手に入れていたとしても,強く否定しているが,パキスタンが提供する訓練,弾薬,燃料,整備施設がなければ,これほどの活動はできなかったはずである.
 それにまた,ターリバーン兵の数も急激に増加し,6ヵ月もしない内に,2万人もの戦闘員を実際動員できるようになった.その大半は,国境を越えてパキスタン軍から迎え入れられた――たしかに多くはパキスタン人だった――そして基本的な訓練は,アフ【ガ】ーニスタン南部のキャンプだけではなく,国境のパキスタン側でも行われた.
 大部分が元ゲリラ兵と素人からなるターリバーン軍が,活動を開始したほぼ当初から,戦いに見事な手腕と秩序を見せたことは,腑に落ちない.
 もちろん彼らの中には,かつてのアフ【ガ】ーニスタン軍の兵士が含まれていただろうが,その攻撃のスピードと複雑さ,および通信手段や,空中掩護,砲撃などの質の高さを見ると,多くをパキスタン軍に追っているか,あるいは少なくとも専門的な支援をパキスタンから仰いでいた,という結論に達せざるを得ない.

(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P. 298-300,抜粋要約)

 実際には,ターリバーンは最初からパキスタン内務省に支援されていた.1994年,ベジナル・ブット政権下で,ナセルラ・ババルが内相だった時だ.
 それ以降も,様々なパキスタン人がタリバンを支援し続けた.
 最初から,アフ【ガ】ーニスタンで戦うパキスタン系民兵組織であろうとしたのか,軍総合情報部(ISI)から援助を受ける一組織に過ぎなかったのかは,今もはっきり分からない.

 パキスタンの支援の詳細は,最初ははっきり分からなかった.なぜなら,少なくともヘクマチァールを舞台から追い出すまで,ターリバーンはパキスタン政府の別働隊であることを証せなかったからだ.
 しかしながら,ターリバーンが最初からパキスタン軍の別働隊だったことは,アフ【ガ】ーニスタンでの彼らの最初の軍事作戦の性質から明らかになる.反イラン的であったし,1995年初頭,カーブル南端でヘクマチァール軍を追い払った.※71

 ターリバーンが最初から相当な支援をパキスタンから受けていたことは,今では明らかになっている.兵士の補充,訓練,武器弾薬,補給業務支援,経済的支援の他,パキスタン軍情報部の将校や軍隊が直接関わっていた(1994年10月,スピン・ブルダクへのターリバーンの攻撃を支援するため,国境越しに砲撃も行っている※72).
 時が経つにつれ,パキスタンのターリバーンへの干渉は,パキスタン政府と社会の様々な分野で行われていた為,あまりに広い面に及び,パキスタンの政策をアフ【ガ】ーニスタンに傾け始めた.
 パキスタンのターリバーン支援には直接的間接的軍事行動,補給業務支援,兵士の補充,経済的支援の他,ターリバーンを公式に認めることも含まれていた.
 ターリバーンは,基本的には軍事行動を専門とした組織である.したがって,外部からの支援はどんな形にしろ,その方面に関係していた.
 パキスタンのターリバーンへの軍事支援は,アフ【ガ】ーニスタンでパキスタン軍が実戦に加わることから,パキスタン国内でのターリバーン兵士の訓練まで,あらゆる方面に及んだ.パキスタンの軍人がターリバーンの戦闘機や戦車の整備や操縦に携わったとか,パキスタン軍将校が戦闘で助言役を務めたという報告もある.※73 「パキスタン人ターリバーン」数千人が捕虜になり,相当数が北部同盟との戦闘で戦死した.
 アフ【ガ】ーン反政府勢力に加え,イラン,ロシア,タジキスタン,ウズベキスタンは皆,1998年の北部におけるターリバーンの勝利は,一つにはパキスタンの直接的な軍事支援があったからだと断言している.パキスタンは1500以上の中隊を送り,空軍からは無数の戦闘機を出撃させた.※74 99年と2000年の夏の攻勢についても,似たようなことがあったと言われている.※75
 ターリバーンの戦闘は高度な戦術を窺わせるが,これはムジャヒッディーンにはなかったものだ.ターリバーンは周到な計画,政治的根回し,夜間攻撃や高い機動力といった新戦術を組み合わせた.彼らの司令と統治のネットワークは,非常に良くできていた.
 これら全ては,彼らが世界に披露した,ただの神学生というイメージにそぐわない.さらに,元ムジャヒッディーンという,より正確なイメージとも会わない.
 それもそのはずで,ターリバーンはパキスタン軍の支援で強化されただけでなく,ターリバーンのメンバーはパキスタン軍教官の下で訓練を受け,80年代のジハードの頃とは違った戦い方を学んだのだ.※76

 パキスタンは非常に重要な補給業務の支援も行った.これなしでは,ターリバーンの軍事作戦はあれほどの成功を収めなかっただろう.その支援には,武器・弾薬・燃料・通信機器・装甲車や戦闘機の整備,兵士と物資の輸送などが含まれる.
 おそらく,もっと意義深いのは,パキスタンがタリバンの主な徴兵係だったことだ.今日,ターリバーン兵の中には1万人以上のパキスタン人がいる.※77 ISIは94年以来,主にマドラサで数千人の若者を兵士として募り,ターリバーン兵を補充してきた.ISIはまた,多くの元ハルク派将校を提供した.彼らは,失敗に終わった,パルチャム(旗)派主導のナジブラー政権への90年のシャナワズ・タナイのクーデターに加わっていた.※78
 ラシッドは次のように述べている.
「ターリバーンがカーブルを制圧するまでには,全空軍,装甲車や重砲の殆どは,元ハルク派の軍人が占めていた」※79

 パキスタン政府の様々な機関がターリバーン支援に関わってきたが,特に国境警備隊(訓練と,戦場での通信伝達)や,全国補給組織(NLC,輸送を中心にした補給業務支援)の貢献は大きい.
 ターリバーン支援の体系を作ったのはババル元内相である.彼が設置したと言われている「内務省内のアフ【ガ】ーン貿易開発庁」は,他の省や役所など様々な機関――パキスタン航空,パキスタン鉄道,パキスタン・テレコム,パキスタン国立銀行,ラジオ・パキスタン,水力電力開発局,公共事業局――の支援活動の調整役を務めた.
 北西辺境州やバルチスタン州政府もターリバーンに相当な支援を行ったが,それは中央の外交政策とは関係なく,地域独自の政治的理由からだった.

 ※71 Davis, "How the Taliban Became a Military Force," 43-54.
 ※72 Ibid.; interviews in Islamabad and Peshawar, Pakistan, and Kabul, Afghanistan, July 1997.
 ※73 Davis, "How the Taliban Became a Military Force," 43-71.
 ※74 See "Afghan Northern Alliance Says Attacked by Pakistan, " Reuters, 31 July 1998; "Taliban Tightens Grip on Northern Afghanistan," AFP, 11 August 1998 (found at Afghanistan Online, www.afghan-web.com).
 ※75 These allegations were widely reported in the international media and received quite a lot of attention at the United Nations. See, for example, "UN Chief Urges Afghanistan's Neighbours to Stay Out of Fight," AFP, 6 Aug. '99 (found at Afghanistan Online www.afghan-web.com).
 ※76 Davis, "How the Taliban Became a Military Force," 67-70.
 ※77 Goodson "Afghanistan," Jane's, 1999, 32.
 ※78 Khalq (Masses) and Parcham (Banner) were rival factions of the People's Democratic Party of Afghanistan (PDPA), which ruled the country during its communist period from 1978-92 (although the party was renamed Hizb-i-Watan, or Fatherland Party, in '99). The Khalq faction was dominant from '78 until the end of '79, when the Soviet Union invaded and placed the Parcham faction in power, where it remained until the fall of the Najibullah government in 1992.
 ※79 Rashid "Pakistan and the Taliban," in Maley, Fundamentalism, 87.

(Assistant Professor L. P. Goodson 「アフガニスタン 終わりなき争乱の国」,原書房,'01,P.173-175,抜粋要約)

 さらにまた,反ターリバーン側の難民キャンプの強制撤去すら,パキスタンは行っている.
「かつて,このガランチャスマやチトラルには,3千人,4千人のムジャヒディン達がいた.
 ムジャヒディンに会いたくて,私と共に戦った戦友に会いたくて,ガランチャスマから国境の村シャーセイリムまで行ってきた.
 しかし,たった一人のムジャヒディンも,たった一張りの難民テントも,たった一丁のカラシニコフ突撃銃やRPG7ロケット砲も見ること,会うことができなかった.
 なぜならば,アフマド・シャー・マスードの拠点であるガランチャスマは,ターリバーンを支援するパキスタン政府によって悉く一掃されてしまったからである」

(田中光四郎「アフガンの侍」,福昌堂,'02,P.16)

 このような〔パキスタンがターリバーンを支援しているという〕報道に対し,パキスタンはターリバーンへの関与を否定した.
 だが1995年1月,バーバル内相が,パキスタンの公共機関をアフ【ガ】ーニスタン国内に設置する復興案を提示し,
「ターリバーンは我々の子供だ」
と発言したため,ターリバーン関与の疑いは濃厚となった.

(山根聡 from 「アフガニスタン史」,河出書房新社,2002/10/30, p.171)

 以下は,捕虜収容所を訪れた人の証言.

 パキスタン政府はアフガニスタン内戦への介入を否定しているが,飲んでいないと言い張るアル中患者の言い訳のようなものだ.
 ファルハール背後の産地にいる,戦いに血道を上げたパキスタン人達こそが生きた証拠である.
 ヒンドゥー・クシュの奥地にぽつんとある居留地,レジデーに厳格な拘置所があり,そこにマスウードの軍隊が捕まえた大勢の捕虜がいる.
 少し離れた場所にあるその捕虜キャンプを訪問したいと頼んでみると,マスウードが訪問許可証となる殴り書きの短いメモをくれたので,ある午後,私はジープに乗って,穴だらけの道を万年雪のあるあたりまで登っていった.
 着いたのは暗くなってからで,警備員の掲げる灯油ランタンのぼんやりした灯りに従い,百人以上のパキスタン人が,不慣れなひどい寒さの下で毛布に包まっている収容所の建物に足を踏み入れた.
 パキスタン人捕虜の年齢は,下は17歳から上は37歳まで,遠いところではカラチから来た兵士もいる.
 ざっと見積もってみた限り,主要な戦闘に参加しているタリバン戦士のおよそ半分がパキスタン人という計算になる.
 パキスタン軍の士官も,前線や兵站補給の指揮に当たっていると言われる.
 「戦略的補強」のため,パキスタンは自国の兵を供給する必要があるのだ.
 その代わり,もしパキスタンがインドに侵略されるようなことがあった場合,アフガニスタンが安全な避難場所を提供してくれるはずである.

 〔略〕
「ムッラーが,ロシア人はまだアフガニスタンに居残っている,イスラム友好国からそいつらを立ち退かせるのは同胞としての義務だ,と言ったんです」と,一人の捕虜が話してくれた.
 ムハンマドは25歳の内科医で,以前はパキスタンでもトップ・クラスの医療研究所,カラチのアーガー・ハーン病院に勤務していたという.医師として戦闘に加わっていたときに捕えられたのだ.
「でも今は,自分が聞かされたアフガニスタンの状況についての話は,間違いだったんだなって気がしていますよ」

 こうした気持ちは,クウェッタの聖職者アブドゥル・ジャリルにもある.
 ジャリルの場合は,アフガニスタンは既にタリバンの完全な支配下に入っていると聞かされていた.
 1997年の5月に「聖法(シャリーア)の実施の証人」となるべくマザーリシャリーフに招かれたが,そこで反タリバン勢力に捕えられ,以後2年監獄暮らしをしている.
 〔略〕

 パキスタンのパンジャーブ州の町,ラヒミヤール・ハーン出身の17歳のファイズは,一見すると産毛の生えた頬に辛うじてタリバンの義務としての髭を生やしているような若造だが,ファイズの持つ純然たる派閥主義的な憎悪心は,その若さを補って余りあるものだった.
「コーランには,『不信心社は殺しなさい』とある.全ての人間がイスラムに改宗しない限り,平和なんてものは訪れないね」
 〔略〕
 ファイズにとっては,キリスト教徒や少数民族のシーア派ムスリムでさえも,不信心の異端者なのだ.
「奴らの聖典は正しいことを書いてないよ」とファイズは言う.「あいつらは死ぬべきだね.ジハードに終わりはないよ.最後の審判の日まで続くことになるさ」

 〔略〕
 レジデーの看守に聞くところでは,捕虜の多くはパンジャーブ人,シンド人,バルーチ人であるという.

C. Kremmer著「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」
(東洋書林,2006/8/10),p.343-346

▼ なお,長倉洋海によれば,パキスタンがアフ【ガ】ーニスタンに軍事介入していることを,当時から日本政府も知っていたはずだという.
 以下引用.

――――――
 2001年1月,銀座での写真展「アフガンの大地を生きる」に外務省の中東2課の職員がやってきました.
 ぼくが,
「マスードが『北部タラカーンの攻防に,パキスタンが軍事介入している』と話していました」
と言うと,彼は
「私たちもパキスタンの秘密部隊3000人が入ったことは確認しています」
と答えるではありませんか.
 愕然としました.
 日本政府はパキスタンの国際法違反を知りながら,非難することも,それをやめさせようともしていなかったのです.

 当時,駐タジキスタンのアフガニスタン大使館付きの武官を務めていたレギスターニ(現・上院議員)は,
「ウズベキスタンの日本大使はマスードとの会談で,
『戦いを止めなさい.そうしれば,(復興のための)お金はいくらでも出す』
としか言わない.
 パキスタンの介入については言及しないのです.
 それでは何度会っても一緒だと思ったし,忙しいマスードの時間を無駄にするばかりだと考え,私はそれ以上,会談をセットしませんでした」
と話していました.

 当時,日本はカンボジアに続き,アフガニスタンにも平和をもたらして外交上の得点を重ね,国連安保理の常任理事国入りを目指していたと考えられますが,その手法に疑問を持たざるを得ません.
 バーミヤンの仏像破壊を止めようと,タリバーン・サイドに数億のお金を持参した日本の政治家もいると,ある情報筋から聞きました.
 「なぜ戦うのか」という思いを受けとめることない和平工作は,真の平和を作り上げることはできないのではないでしょうか.

――――――長倉洋海著『ぼくが見てきた戦争と平和』(バジリコ,2007.5.15),p.183-184

 とうてい事実確認不能につき,真偽は何とも言えない.▲


 【質問】
 なぜサウディアラビアはターリバーンを支援したのか?

 【回答】
 中央アジアの資源へのルート確保の他,アフ【ガ】ーニスタンにおけるヘクマチァール派などのスンニ急進派やイランの政治的影響力を封じ込める上でも必要だった.
 さらに戦略的にも,イランが中央アジアの石油・天然ガス資源に大きな役割を果たすことが,中東における自国の戦略的役割低下に繋がるとするサウディアラビアの懸念は,中央アジア,とりわけカザフスタンやトルクメニスタンの石油・天然ガスを積出港まで移送するに際し,イランがペルシャ湾への地理的距離から見ても,既存のインフラストラクチャから見ても,最も経済合理的な選択肢となることを考えれば,看過しえない事態である事は,容易に推察できる.

( from 「民族と国家の国際比較研究」,未来社,1997/10/1, p.299,抜粋要約)


 【質問】
 なぜ「上海5」がSCO(上海協力機構)に格上げされたのか?

 【回答】
 アメリカを牽制するためだったと見られる.
 以下ソース.

 2001年前半,ブッシュ政権の米本土ミサイル防衛(NMD)構想を巡る論争が展開されていた.
 ロシアと中国は,アメリカとの関係悪化を避けつつも,その一極支配を決定的にする可能性のあるNMD構想に対して強い懸念を示していた.
 そこでロシアと中国は,イスラーム過激勢力によるテロの脅威を利用し,中央アジア主要国をNMD構想反対側に取り込んだ.
 「上海5」のSCOへの格上げは,その成果である.
特に,ロシアに対して距離を置いていたウズベキスタンがSCOに参加した意味は,ロシアにとって大きかった.
 ロシアと中国にとって,同地域への影響力拡大を狙うアメリカを牽制する上での基盤強化になった事は間違いない.

(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.82-83,抜粋要約)


 【質問】
 インドがターリバーン問題で強硬姿勢をとった理由は?

 【回答】
 アメリカに接近することで,パキスタンを政治的に追い込むため.
 また,カシミール解放勢力とパキスタンを離間させようとしたため.
 以下,ソース.

 インドが狙っていたものは,カシミール問題を国際問題にしないことだった.つまり,シムラ協定体制の維持だった.

 そのため,ターリバーン問題ではインドは早くからアメリカに摺り寄った.パキスタンにテロ支援国家の烙印を押させる,いいチャンスと見てアメリカに迫っていた.
 同じテロ後,アメリカへの基地提供も初めはインドが申し出たことだった.かつて非同盟主義だったインドがである.
 これが実現すれば,98年の核実験以降,パキスタン同様,経済制裁を受けていたインドが,急速にアメリカと接近することになり,パキスタンにしてみれば,単に孤立化するという事以上の脅威を受けることになる.

 また,カシミール問題に対する脅威も感じていた.
 ビン・ラーディンやターリバーンは,パキスタンの意図を受け,反インドのカシミール解放勢力に対してアフ【ガ】ーニスタンで軍事訓練などを行っていた.
 98年の米軍によるトマホーク巡航ミサイルの攻撃では,アフ【ガ】ーニスタン東部,ホーストにあるアルカーイダの基地が叩かれたが,そこでの死者にはパキスタン軍人やカシミール解放勢力メンバーが入っていた.
 これでは,いつ第2のカルギル紛争が起きても不思議ではなかった.
 このような脅威を踏まえ,反国家テロリズムを標榜してカシミール解放勢力とパキスタンの関係に楔を入れる.
 そうすることでカシミール問題を沈静化し,国際問題化させず,インドのペースでカシミール問題を解決していく.
 これがインドの第2の目標だった.

(遠藤義雄 from 「ポスト・タリバン」,中公新書,2001/12/20,P.113-114,抜粋要約)


 【質問】

――――――
 タリバーン政権は,国土の9割以上を実効支配する一方,国際社会で認知されようと,外国勢力を刺激せぬよう極めて慎重な態度をとっていた.
 政権内部でもはじめは穏健派が主流であった
(当時のムタワキル外相は,
「国連制裁によって一転,急進派の意見が主流になった」
と,数年後に証言している.
 タリバーン勢力に批判的であった「謎の原理主義集団――タリバーン」の著者,アブドゥル・ラシードも,同様のことを述べている)
――――――中村哲著『医者,用水路を拓く』(石風社,2007.11.30),p.15

というのは本当なのか?

 【回答】
 まあ,「ない」を証明するのは非常に困難なので,中村医師が具体的にページ数まで挙げた上で,正確に引用すべきなのだが……

 少なくとも,「アブドゥル・ラシード」なる人物が書いたという『タリバン』という本」については,寡聞にして知らない.
 アハメド・ラシッド著『タリバン』(講談社,2000.10)のことだろうか?(笑)
 いずれにせよ,どこで誰が言ったのか明示すべきだろう.

 そのアハメド・ラシッドによれば,ターリバーンは国連に対しては,西側諸国の連盟であり,ターリバーンのイスラム法施行に対して陰謀を企てていると信じていたという.
 また,国連が地域諸国に対し,ターリバーン政権を承認しないよう工作していると非難していたという.(同書,p.127)
 したがって国連が制裁を行ったところで,「一転して急進派の意見が主流になった」とは考えにくい.

 『大仏破壊』(高木徹著,文藝春秋,2004.12.30)では国連制裁前後の状況を,ムタワキールやホタキなどを含む多くの証言を使って説明しているが,その第6〜10章を纏めると,実際には以下のようになるという.

 国連制裁以前,ターリバーン内部ではビン・ラーディンを引き渡すべきかどうかを巡り,賛否両論があった.
 だがビン・ラーディンの篭絡策により,ターリバーン指導者オマルは,次第にビン・ラーディンよりの立場を強めるようになり,ムタワキールなどは名のみの外務大臣に左遷されられてしまう.

 一方ターリバーン内部でも,ホタキなど渡米を経験した者たちは,広い世界を知って穏健的になった.
 国際女性の日を祝ったり(2000年3月),カーブル博物館を再開(同年8月)したり,国連やNGOに協力したりするようになった.

 ところが,である.
 2000年10月,アル・カーイダは米駆逐艦「コール」に対し,自爆テロを敢行.
 これによりアメリカは国連で経済制裁実施(2000年12月)を主導することになった――

 きちんとしたソース引用一つない中村医師の記述と比べ,どちらのほうに,より信頼性あるかは言うまでもないだろう.

 ちなみに上掲『大仏破壊』によれば以下のように述べられている.

―――――
 それでは,タリバンの変化が決定的になった瞬間,「ポイント・オブ・ノーリターン」はいつだったのだろうか.
 その頃のアフガニスタンに関わっていたさまざまな人たちに取材すると,それは,この年,2000年の秋だった,という証言でほぼ一致する.
「2000年の10月が転機だったと思います」
と,フランスのアフガニスタン代理大使だったジャン・イブ・ベルトーは言っているし,
「秋頃までは,タリバンが私たちの話を聞いて軟化しそうな,よい兆候がいろいろあったのです.
 タリバンの中の穏健派≠ェ立ち上がり,強硬派≠追い出すのではないかという期待まで高まっていました.
 それが年末までに,全て裏返ってしまったんです」
と,田中浩一郎の上司である国連アフガニスタン特別ミッション(UNSMA)代表のスペイン人外交官フランチェク・ベンドレルは述べている.
――――――p.227-228

 言うまでもなく,国連制裁は2000年12月である.


 【珍説】
 このとき〔2001年1月〕の制裁は,例えば,ある会場の中に警察に追われた人が一人紛れ込んでいる,だから入り口を閉めて食べ物も水もやってはいけないことにする,というのに等しいわけですね.

中村哲著「アフガニスタンで考える」(岩波書店,2006.4.5),p.39

 【事実】
 全く等しくありません.
 このときの制裁は,例えば,ある会場の中に警察に追われた人が一人紛れ込んでいる.
 だから警察は会場の管理者に対して引渡しを要求したのに,管理者は断固拒否.そればかりか勝手に裁判ゴッコをやって勝手に無罪判決を出してしまった,というのに等しいわけです.

 国連がとることができる手段は,武力制裁か経済制裁しかないわけですが,中村医師は,どちらが最善だと思っているのでしょうか?


◆◆◆◆◆対米関係


 【質問】
 なぜ当初,アメリカはターリバーンに好意的だったか?

 【回答】
 全土の治安回復,前国王ザーヘル・シャー復権,ロシアとイランの影響力拡大阻止,テロリスト訓練キャンプ閉鎖に繋がると期待してのことだったようだ.
 さらに,対イラン封じ込めに寄与する,ユノカル社のパイプライン計画の浮上が,アメリカをますますターリバーン寄りにしたようだ.
 1996年頃から,パイプライン実現に向け,アメリカ議会や国務省担当者がアフガニスタン和平に積極関与するようになってきた.

(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.51-52,抜粋要約)


 【質問】
 なぜアメリカはターリバーンに好意的でなくなったのか?

 【回答】
 1996年9月のカーブル占領以降,アメリカのターリバーンへの期待が次々と裏切られたため.

 まず,ターリバーンがなかなか全土平定できず,1998年8月にはマザリシャリフでの虐殺というおまけまでついた.
 1997年10月には,マザリシャリフ占領にターリバーンは失敗して大敗北を喫し,これを踏まえ,97年10月22日,インダーファース南アジア担当次官補は,上院外交委員会中東・南アジア小委員会の聴聞会で,ターリバーンによるアフ【ガ】ーニスタン全土制圧の可能性は低いと証言.さらに,アメリカとしては,国際規範を遵守していく多民族が参加した連合政権樹立を目指すとした.

 次にカーブル占領後,西側から女性差別と受け取られるターリバーンの所業が広く報道されるようになり,アメリカとしても目をつぶっていられなくなった.

 さらに深刻なのは,ウサマ・ビンラーディンをターリバーンが保護すると共に,テロリスト訓練キャンプ運営を容認していたことであった.
 これらに加えて,アフガニスタンからの麻薬密輸量増大もあった.

 そんな中,クリントン政権2期目になった1997年に,女性のオルブライトが国務長官に任命され,アメリカのターリバーン政策変更に拍車がかかった.
 オルブライトは11月18日,パキスタンのアフ【ガ】ーニスタン難民キャンプを訪れた際,難民女性によるターリバーンの女性政策に対する苦情に耳を傾けた後,アフ【ガ】ーニスタンの女性を手助けするためにあらゆる努力をすると発言した.

 インダーファース証言やオルブライト発言は,アメリカの対ターリバーン政策変更を示す明確なシグナルだった.

(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.52-53,抜粋要約)


 【質問】
 ユノカルの天然ガス・パイプライン事業は,いつ破綻したか?

 【回答】
 各種情報を総合すると,1997年から,女性団体・環境保護団体の圧力によって頓挫し,1998/8/20の巡航ミサイル攻撃によってとどめをさされたと見られる.

 1997年からのクリントン政権の対ターリバーン政策変更により状況は悪化していたが,さらに1998年6月,ユノカル社株式総会で,株主の一部が,ターリバーンの女性差別を理由に,天然ガス・パイプライン事業に対して反対を表明.
 また,9月には環境保護団体が,ターリバーンとの関係などを理由にして,ユノカル解散を求める訴えを行った.
 さらに1998/8/7,すなわち,ターリバーンによるマザリシャリフ占領の先日,ケニアとタンザニアのアメリカ大使館同時爆破事件が発生し,アメリカ人12人を含む200人以上が死亡.
 その2週間後の8月20日,アメリカは,ビン・ラーディンをこのテロの黒幕とし,アフ【ガ】ーニスタンのテロリスト訓練キャンプとスーダンを巡航ミサイルで爆撃.

 これで,ユノカルのパイプライン敷設計画の命運が尽きた.
 同社は12月,パイプライン計画からの撤退を正式発表.そしてターリバーンは,安定的な財源となる大きな収入源を失ったのである.

(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.53-54,抜粋要約)

 しかしパイプ・ライン計画は,この攻撃〔1998年の"モニカ"ミサイル攻撃〕の以前から頓挫していた.1996年にタリバンが首都カブールを占領した頃から,アメリカの女性団体が動き出したからである.
 農村部を支配していた頃は,国際的には大した注目を浴びなかったタリバンの女性隔離政策が,カブールのような都市では目立ち始めた.アフガニスタンの都市部で活動していた数多くの国際NGO団体が,タリバンの女性政策に激しく反発したからである.
 タリバンの女性隔離がニュースになり始めた.
 するとアメリカの女性団体が,ユノカル社に対してデモをかけるなどの動きを見せ,クリントン政権にタリバンを批判するように働きかけた.

 クリントンは色々な意味で,女性の面倒見の良かった大統領であった.大統領夫人のヒラリー・クリントンに代表されるような,働く女性の熱い支持の上に成り立った政権であった.
 それに答えるかのようにクリントンは,アメリカ史上で初の女性の国務長官オルブライトを始め,3人の女性閣僚を起用していた.

 女性団体の抗議をクリントン大統領は無視できなかった.ヒラリー夫人の政治的な野心を考慮すると,なおさら女性団体の支持を手放せない.
 クリントン政権はタリバンと付き合うわけにはいかなかった.

(高橋和夫=中東研究者「アメリカとパレスチナ問題」,角川書店,2001/12/10,p.33-34)


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