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◆◆◆アフ【ガ】ーニスタン紛争(対ソ戦)
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南アジアFAQ目次

Babrak Karmal
(1929-1996)


 【link】

CRS@空挺軍 in mixi(2010年03月07日)◆≪Альфа≫ ― День памяти
>アミン議長暗殺作戦「≪Шторм-333≫)に参加したアルファ部隊員の集会模様

CRS@空挺軍 in mixi(2010年10月26日)◆Спецназ России отмечает юбилей
 アルファ部隊ベテランクラブの取材.
 「突撃333作戦」の参加者か?
 映像に作戦の動画が流れている.

「YouTube」◆(2011/07/18) ソ連 アフガン侵攻
ソ連軍によるアミン大統領殺害作戦「突撃333作戦」を明言

「エルエル」:旧ソ連のアフガン侵攻の際の写真

●書籍

『Great Gamble』

 挿話が生き生きとしている.
 読者を驚かせるツボを抑えた点描で,ソ連アフガン侵攻を描く.
 文章は非常に読みやすく,よどみが無い.
 勿論出版された時期は2001年以後で,アメリカとNATOのアフガン戦争を意識し,それと比較させている.

 「パンジシールの獅子」ことマスード将軍についても,要点をおさえた描写あり.
 人物像では褒め称えつつも,ソ連軍と休戦し,聖戦士他派と争っていたことを指摘してある.

 多数の挿話の中で,ソ連のMil-8による空中強襲検問の実態を,兵士の視点から描いたものは,とりわけ鮮烈で強い印象がある.
 この下りだけでも読む価値はあるだろう.

――――――軍事板,2010/10/23(土)

『アフガニスタン戦争』(デビッド・イズビー著,大日本絵画,1983.9)

『アフガニスタンの風』(ドリス・レッシング著,晶文社,2001.11)

『アフガニスタン紛争のソビエト軍』(デビッド・イズビー著,大日本絵画,1989)

『アフガン侵攻1979-89』(ロドリク・ブレースウェート著,白水社,2013/1/29)
> ソ連側から見たアフガン戦史の決定版

『アフガン戦争』(鳥井順著,第三書館,1991.11)

 実は,イズビーのアフガニスタン戦争より,こっちのがお進め.

 巻末にフルンゼ軍大学のアフガン戦訓に関する論文の抄訳がついてた←【これ最大級に重要】
 全体的な内容も,アフガンの日本語書籍じゃ,一番良さそうだよ.
 イズビーのは残念ながら,訳があんまりよくないと思う.

 ただしゲリラ側の記述は,イズビーの方が詳細に渡ってる.
 人名録とかまであるし(笑)
 あと,いくつかの作戦に関してイズビーの方が若干詳細だけど.

 まあ,両方読んで,その後に三野アフガン本(よくわかるシリーズ)を読むと楽しいよ(笑)
 うん,いろんな意味で.

――――――Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板

 詳細は上の方にある,某NKFDコテ(W)のレス参照.
 てか,フルンゼ・アカデミーの戦訓狙い(笑)

―――――軍事板

 ちょっとまて(笑)
 NKFDコテって誰よ(笑)

――――――Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板

『ソ連のアフガン戦争 出兵の政策決定過程』(李雄賢著,信山社,2002.4)

『わかりやすいアフガニスタン戦争』(三野正洋著,光人社,1998.11)


 【質問】
『ソ連のアフガン戦争 出兵の政策決定過程』(李雄賢著,信山社,2002.4)
誰か読んでないですか?
 李雄賢さんって誰なんだろう?

 【回答】
 読んだことがあります.
 韓国の研究者で,ロシア語が読める人です.
 まえがきによると,師匠はあの和田春樹だそうだけど.

 主にソ連崩壊後の新資料をもとに,ロシアの共産党政治局員会合などでの,出兵にいたる意思決定過程を細かく見ています.
 もともとは東大の政治関係での博士論文だったと書かれていたかと思います.

 おそらく研究の根底にある意識は,朝鮮戦争におけるソ連と中国共産党の介入による祖国分断,統一の望みが1950年に一旦潰えたことへの悔悟,そこにいたるまでの北朝鮮内部での政治過程への関心があるのではと推察しています.

 アフガニスタン共産党内部での政治抗争や政策についても筆を割いており,アフガン内戦にいたる政治史としては密度の濃いものと言えるでしょう.

 議事録を豊富に引用していて学術書ながら,結構面白く読めました.

 学会誌に載った書評でも
「わからないことは書かない姿勢に徹している」と評価されています.
(抑制的に過ぎない?とも).
 その意味じゃかなり慎重な筆致だと思います.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧ソ連は何故アフ【ガ】ーニスタンへ侵攻したのか?

 【回答】
 当時,ソ連首脳部は,アフ【ガ】ーニスタンのハフィズラ・アミン政権が自主外交路線をとり始め,米国との接近も考慮し始めたことと,米国のデタント政策方針の転換(SALT2条約の米国議会での批准が疑問視されていた)から,アフ【ガ】ーニスタンが米国側に寝返った場合,ともすればモスクワに逆らいがちな中央アジアをも抱き込んだ広範囲な反ソ戦線ができることを懸念し,それが侵攻へ踏み切らせたと推測されています.

 詳しくは,
金成浩著『アフガン戦争の真実』(日本放送出版協会)
を参照してください.

 また,ミルト・ベアデンMilt Bearden の言葉を信ずるならば,それらの懸念は被害妄想の産物だった.

「1979年中に,KGB議長ユーリ・アンドロポフと国防相ドミートリイ・ウスチノフは,アフ【ガ】ーニスタンに関して2つゆゆしい結論に達している.
 第1に,アメリカはアフ【ガ】ーニスタンに軍事基地を建設しようと計画している.シャーの失権によってイラン国内の情報収集所を失ったため,その代替が必要になったからだ.
 このようなことを許せば,ソ連邦を包囲するアメリカの鎖に,また一つ輪が増えることになる,とアンドロポフとウスチノフは強硬に主張した.
 そして第2の結論は,当時アフ【ガ】ーニスタン外相だったハフィズラ・アミンが,モスクワが選んで政権の座に据えたヌル・ムハンマド・タラキを追い落とそうと画策している,ということだった.僅か一年前の4月革命で,タラキは革命評議会議長兼首相の座を奪取したばかりだというのに.

 中央委員会政治局の中には,タラキ排除に動くアミンの影を,ことさら無気味に感じる向きもあったが,これはKGBの偽情報によって,アミンはCIAのエージェントだと中傷されていたからだ.
 その理屈はなかなか説得力があった.アミンはコロンビア大学で4年間過ごしたのだから,CIAのエージェントになっているに違いないというのだ.権力を握ったら,途端に寝返ってアフ【ガ】ーニスタンとソ連の繋がりを断ち切り,アメリカと手を組むに違いない.
 そうなったら,あっというまにアフ【ガ】ーニスタンに米軍基地ができて,中距離ミサイル『パーシング』が配備されて,ソ連を狙い出すに違いない.

 偽情報を流すと,時に見られることだが,KGBの反アミン工作は裏目に出た.アフ【ガ】ーニスタンの人民民主党は元々ばらばらだったが,それをさらに紛糾させた上,そうでなくても軍事介入に傾斜していたモスクワの指導部に,その傾斜を決定的にする(虚偽の)理由をもう一つ与えてしまったのである.
 つまるところ,政治局の強硬派は,アミンがCIAのエージェントだという説を鵜呑みにし,アフ【ガ】ーニスタン侵攻に踏み切る理由は,こうしてどんどん増えていくことになった.
 実際にはアミンは親米派にはほど遠かったし,博士論文を2度も落とされてコロンビア大学には恨み骨髄だったのだが,そんな事は考慮の対象にもならなかった.

 〔略〕

 79年の夏を通じ,KGB報告は次第に危機感を煽る絶叫調になっていき,軍事情勢は悪化して手に負えなくなっているとぶち上げた.以前から,不穏な情勢の背後にはアメリカの影があると言わんばかりだったが,それが特に酷くなったのは,誰もが予想した通り,アミンが反タラキ工作に成功したためだった.
 2度も命を狙われながら,しぶとく生き延び,政府部内の権力基盤を容赦ないやり方で強化した後,アミンは10月,タラキの殺害を命じた.
 これを受け,もはやカーブルは完全にアメリカのエージェントの手に落ちたとKGBは結論した.ソ連の防衛上の急所に,アメリカが災厄の種を仕掛け,それが今,芽を出そうとしている――という分析は,79年の初雪が降る頃には政治局にとりついた強迫観念になっていた.
 カーブルからはGRU報告も届いており,こちらの内容は,KGBの不吉な急報とは正反対だったのだが,これは無視されてしまった.

 レオニート・ブレジネフは,タラキが殺されたと聞いて激怒した.ほんの数日前にモスクワで彼を手厚くもてなしたばかりで,その際に『悪いようにはしないから』とタラキを力づけていたのだ.
 その直後に暗殺されては,面目丸潰れである.
 病身のソ連指導者は,それまでの立場を変え,軍事的手段支持に回った.
 アンドロポフ配下のKGBは,この夏密かにアミン排除に動いていて,2℃の暗殺未遂もKGBの仕業だった.
 それだけにアンドロポフも,タラキ殺害には穏やかではいられなかった.
 ブレジネフが賛成に回ったこともあって,武力介入の方針は固まった.

 こうして,秋に入った途端,事態は急激に動き始めた.
 KGBは10月下旬,アフ【ガ】ーニスタン中に専門家のチームを送り込んで『ゼニス』作戦を実行し,ソ連の武力介入に対する民衆の反応を世論調査で調べようとした.
 KGB報告では,アミンが次第に西側寄りの姿勢を強めているというのが主たる論調になっていたが,そこに新たな捻りも加わってきた.アフ【ガ】ーニスタンに足掛かりを得れば,アメリカは,喉から手が出るほど欲しがっていた軍事基地を手に入れ,そこから遂にイランに侵入して,宗教的指導者による人質作戦への報復を行うだろうというのだ.
 そうなれば,ソ連は完全にアメリカのミサイルに包囲される格好になる上,アフ【ガ】ーニスタンを『失う』ことになれば,ワルシャワ条約機構の『友邦』にも同様の問題――ソ連側から見ての――が飛び火するに違いない.
 実際にはこれらの主張はどれも間違っていたのだが,正しいかどうかということは,この時点では問題ではなくなっていた.

 79年12月12日,政治局の会合が開かれ,提議が正式に批准されて軍が派遣されることになった」

 〔略〕

 まさに皮肉というしかないが,クレムリンやルビヤンカの内部では,アンドロポフが亡くなったのは,82年にカーブルを訪問した際に罹った正体不明の病気のせいだ,というのが大方の見方になっていた.83年3月には透析を受けねばならなくなり,その1年後,医師達の献身的な治療の甲斐もなく,アンドロポフは息を引き取った.

(M. Bearden他「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,'03,P.357-367)

▼ ただし元KGB,オレグ・カルーギン将軍の証言によれば,アンドローポフは当初,軍事介入には反対していたが,ブレジネフなどの意向を断りきれずに賛成に回ったという.
 以下引用.

――――――
 1979年8月,イランやアフガニスタンでの出来事をめぐって,対外諜報と軍事諜報との責任者たちが審議を催したことがあります.
 その席では,アフガニスタン救援のために軍を出動させるかどうかについても討論されました.
 私は対外諜報の責任者クリュチコーフがこう言ったのをまだはっきり覚えています――
「アンドローポフはわが国が軍事干渉することに反対している」
 軍事諜報の責任者イヴァシューチンは,軍隊の派遣に賛成でした.
 しかし周知のようにアンドローポフはそののち,ソ連軍の進駐を賛成決議した一人に名を連ねています.
 彼はブレジネフやその友スースロフ,国防相ウスチーノフの意向を断りきれず支持したのです.

――――――『不死身のKGB』(ナターリヤ・ゲヴォルキャン Natalija Geworkjan 著,エディションq,1998.9.10),p.22

 別の説もある.
 軍事クーデターを恐れたアミン政権が,自らソ連軍派遣を強く求めた,というものである.

 このソ連による軍事介入の真相について,昨今のグラースノスチ(情報公開)政策に従って,旧ソ連邦国防省機関誌「クラスナヤ・ズベズダ」89年11月18日が,
「関係者が物語り,資料が証言する――『アフガニスタンへの軍事介入は,いかに決定されたか』――A.オリーニク大佐」
を掲載した.
 同記事は,機密電報の原文なども載せており,信憑性は高いと見られる.
 また,この中には,従来言われていた軍事介入の「真相」を覆すものがある.

 それによると,当時アフガン国内では,ムジャヒディンとの闘争以外に,アフガン軍部内でクーデター未遂事件が頻発しており,これを恐れた人民民主党首脳部が,ソ連軍の派遣を強く求めた.

 ソ連軍首脳部はアフガン派兵に反対であったが,駐カーブルKGB代表イワノフ中将が軍事介入を強く提唱し,アンドロポフKGB議長がそれに賛同,ウスチーノフ国防相も賛成に回った.
 このため,オガルコフ・ソ連軍参謀総長,アフロメーエフ同総長第1代理,パヴロフスキイ地上軍総司令官らの反対も及ばなかった.
 パヴロフスキイは,アフガニスタンの現地調査に赴き,軍事介入は不可との報告をしたが,上層部に無視された(この記事は筆者〔松井〕が全文を訳したものが,中東調査会発行『中東研究』90年4月号に掲載されている)

(松井茂〔軍事・外交評論家〕著「21世紀のグレート・ゲーム」,
光人社文庫,2002/1/18,p.125-126)

 なおデビッド・イスビーによれば,アフ【ガ】ーン進出の意思は,少なくとも1919年には垣間見られるという.
 以下引用.

[quote]
 1919年8月5日,レオン・トロツキーは,ソビエト共産党の中央委員会でこう語っている――
「パリやロンドンへの道は,アフガニスタンやパンジャブ,ベンガルを縦断している」.
 当時から現在に至るまで,ソビエトがアフガニスタンでその存在を誇示できれば,長年の関心の的であったイラン(ロシアは18世紀から11回にわたって,ペルシア領域を侵略または占領していた)や湾岸諸国に対して,地政学的に影響力を増大できる可能性があった.
 外務大臣V.M.モトロフは,1940年11月26日にこう記している――
「バトゥムとバクー以南のペルシャ湾に向けて広がった地域は……ソビエト連邦が望んでやまない地域である」.
[/quote]
―――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p87-89

 「民族的悲願」というやつだったのかも知れない.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 反アミン・クーデターはどのように計画されたのか?

 【回答】
 ソ連は,パルチャミ派生き残りと連絡をとり,12月中旬には,第105空挺親衛師団がカーブルへ到着.
 DRA陸軍のロシア人顧問は,「冬に備えて」戦車のバッテリーを抜き,「安全検査」と称して弾薬を回収した.
 暗殺または監禁されるカーブル政府軍将校も出た.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.32を参照されたし.

 ただし出典は失念したが,上記のバッテリー・弾薬回収は,真偽の確認されていない「噂話」として紹介している書籍もある.


 【質問】
 反アミン・クーデターはどのように行われたのか?

 【回答】
 1979/12/27,第357・第360自動車化狙撃兵師団がサラン峠を越えて侵入.
 スペツナズが空港,通信センターなどの重要拠点を押え,1個師団を超える空挺部隊もカーブル空港から出撃した.
 空挺大隊2個がデュララミン宮殿を攻撃,制圧したが,激しい戦闘によりビクター・パプティン陸軍中将が戦死した.
 アミンは処刑され,パルチャミ派の指導者,バブラク・カルマルがタシュケントから帰国して首相に就任した.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.32-34を参照されたし.

 「空挺部隊を大量空輸し,首都の主要施設を占拠.
 ついで,国境を越えて地上軍が侵攻した」とする記述は,また以下にも見られる.

------------
 〔1979/12/27の〕すでに数日前からカブールの上空では,昼も夜も飛行機の爆音が轟いていた.
 25日と26日の2日間,ソビエトのアントノフ12型,あるいは22型といった輸送機がほとんど絶え間なく北のほうから飛来し,カブール郊外の空港に次々と舞い降りていった.

 最初にカブールに送り込まれたのは,特別任務を帯びたソビエト軍第105空挺師団の部隊で,わずか5時間でカブール空港を事実上制圧していた.
 これを口火に,その後ソビエト軍の計280機の輸送機が,第103,104空挺師団の降下部隊をはじめとする他の部隊が続々とカブールに到着した.

 〔略〕ソビエト軍輸送機の到着地は,市内の軍事基地とその北方にあるバグラム空軍基地だ.
 ソビエトの空輸の回数は西側の情報によると,のべ200回にも達し,5000人のソビエト軍の兵員と兵器がカブールに送り込まれたという.

 これら空から飛来した先遣隊が,青のベレー帽に縞の入った制服姿でアフガニスタンの首都になだれ込んでいる同じ時,アフガニスタンの北部では,ソビエト陸軍の自動化狙撃師団4個師団――第357,第66,第360,第21師団――の第1陣がソビエト国境を越えて,ミグ21,ミグ23の戦闘機部隊の支援を受けながら南下していた.

 アメリカ国務省はこのおびただしいソビエト空軍機の空輸作戦の動きを察知して,早くも26日には,
「主権国家の内政に対する軍事介入の動きがある」
と警告を発して,ソビエト軍の動きを牽制した.

 当時,アフガニスタンの実験を握っていたアミン大統領は,公式報道によると,この12月27日,タルイジン・ソビエト通信相の儀礼訪問を受けたあと,市内の中央にある「人民の家」と呼ばれている大統領官邸を引き払って,カブールの南の郊外にあるダルラマン宮殿に移った.
 これは25,26日のソビエトの軍事的なおびただしい動きに身の危険を察知したのかもしれない.

 雪を被ったヒンズークシの峻峰はすでに視界から消え失せ,カブールの市街は闇に包み込まれていた.
 午後7時過ぎ,一発の砲声が市内に響き渡った.
 それを合図に,ソビエト軍はカブールになだれ込んだ.
 カブール空港に近いアフガニスタン国営放送局の前など数個所でアミン政権下の政府軍と交戦を開始した.
 数時間後にはソビエト空挺部隊は「人民の家」を初め,内務省,外務省,首相官邸など主要施設を占拠し支配下におさめた.
 あっという間の出来事であった.
 郊外においても,ソビエト軍はダルラマン宮殿を包囲し,アミン大統領の親衛隊と銃撃戦の後,親衛隊を一掃していた.

 まず降下部隊が要所要所を押えたあと,地上部隊がこれに合流するソビエト軍の作戦は見事に的中した.
 年が明けて1月1日には,アフガニスタン国内に4万人におよぶソビエト軍が進駐し,さらにその一週間後には,その数は8万人に達した.
 カブールのタジベク宮殿には第40ソビエト軍司令部が設置された.

 〔略〕

 のちにアメリカ筋からの情報を総合すると,この夜,カブール市内にあるアフガニスタンの国営放送であるラジオ・カブールは,全くの沈黙を守っていた.
 それに代わってソビエト・ウズベク共和国南部,つまり,アフガニスタンの北方に国境を接する臨時の秘密放送局が「カブール放送」と偽ってこの政変ニュースを流したという.
 しかもニュースはソビエト領内のテルメズから発せられたと見られている.

 この後ソビエトの報道機関はしばらくの間,「カブール放送によると」というカブール電のニュースを紹介する形でアフガニスタン情勢の動向を報道した.

 〔略〕

------------飯田健一著『アフガニスタンはいま』(日本放送出版協会,1984.5.20),p.58-60

 ただし,単に元ソースが同じである可能性もあるので注意.


 【質問】
 Шторм-333(突撃333作戦)とは?

 【回答】
 アフガーン侵攻に合わせて実行された,アフガニスタンのアミン大統領殺害を目的とした作戦のコードネーム.
Шторм-333

CRS@空挺軍 in mixi,2009年01月31日10:07

▼ この作戦についた部隊は
第154独立特殊任務支隊(GRUスペツナズ)  所属:ソ連軍参謀本部情報総局
アルファ部隊 所属:KGB
ソ連空挺軍 部隊名不明

 1979年12月24日,ソ連は「内戦の危機に瀕したアフ【ガ】ーニスタン政府による救援要請に基づく派兵」という名目で侵攻した.
 この作戦の目的は,ソ連の意向に従わないアミーン大統領を抹殺し,アフ【ガ】ーニスタンをソ連の支配下に置くこと.
 ソ連最高指導者ブレジネフはアミーン大統領殺害任務を,KGB特殊部隊「アルファ部隊」に命じた.
 所属が異なる部隊を同一の作戦に投入するのは,機敏さが要求される特殊作戦では明らかにマイナスであるが・・・,ソ連軍とKGBの摩擦を回避するために指導部が判断したためと言われる.
 また,もう一つの理由は,アミーンを警護していた政府軍150人は,アミーンに対して絶対的な忠誠を誓う,親衛隊と呼ぶに相応しい部隊であったことから,一人でも逃せば正規軍によるアフ【ガ】ーニスタン抹殺という事実が暴露され,政府軍を味方につけることが不可能になる.
 これを阻止するためには大統領・守備隊の全員を投降させることなく,秘密裏に抹殺するのが絶対的条件であった.

 侵攻開始から二日半,12月27日昼,空挺軍がアフ【ガ】ーニスタンの首都であるカブールへパラシュート降下.
 主要地点を制圧及び道路封鎖を完了,大統領官邸の孤立化に成功.
 同日夜七時ごろにアフ【ガ】ーニスタン政府軍に偽装した,第154独立特殊任務支隊とアルファ部隊が,BMD-1・装甲車と共に大統領官邸を襲撃.
 5時間近くに及ぶ大激戦のすえ,大統領・守備隊の全員を殺害に成功した.

CRS@空挺軍 in mixi,2007年05月23日20:47

 ШТОРМ-333の概要
≪ШТОРМ-333≫ Как штурмовали дворец Амина

 このHP上に出てくる爺さんの肖像画が誰?と思い検索した所,ユーリー・ドロズドフ少将(Юрий Иванович Дроздов) ということが判明しました.
 KGB(現FSB)所属の特殊部隊ヴィンペル部隊の創設者だそうです.

ユーリー・ドロズドフ
Управление "В" ФСБ

ユーリー・ドロズドフ少将

CRS@空挺軍 in mixi,2009年01月31日10:07


 【質問】
ソ連のアフガニスタン経験――外部勢力による介入政策と国家形成の展開――
湯浅 剛

http://www.nids.go.jp/dissemination/kiyo/pdf/2009/bulletin_j12_1_1.pdf

>アミン大統領官邸を急襲する作戦――「アガト」作戦――を遂行したのは,
>KGB 第一総局隷下の特殊部隊「アルファ」であった

 作戦名は「アガト」だったのか?

 【回答】
 そんなの初めて聞いた.

 念のため,対テロ部隊「アルファ」ベテラン協会のサイトでも

――――――
http://alphagroup.ru/group-a/map/

Захват дворца Амина

В составе нештатной боевой группы ≪Гром≫ (22 человека) сотрудники подразделения вместе с бойцами ОСН ≪Зенит≫ Первого Главного управления КГБ СССР (30 человек) осуществили в районе Дар-уль-Аман захват Тадж-Бека, он же дворец Амина. Активную поддержку спецназу КГБ оказали ≪Мусульманский батальон≫ ГРУ и 9-я рота десантников 345-го отдельного полка ВДВ под командованием старшего лейтенанта В.?А. Востротина. Огонь по объекту вели две зенитные самоходные установки ЗСУ-23-4 (≪Шилки≫).
Руководили операцией полковник В.?В. Колесник (по линии Министерства обороны СССР) и генерал-майор Ю.?И. Дроздов (по линии КГБ СССР).
Бойцы ≪Грома≫ выдвигались к хорошо укрепленному дворцу Амина на БМП, преодолевая серпантин дороги под плотным огнем противника. Старшими подгрупп были: О.?А. Балашов, С.?А. Голов, В. ?П. Емышев и В.?Ф. Карпухин. Общее руководство осуществлял заместитель командира Группы ≪А≫ майор М.?М. Романов. Командир ≪Зенита≫ ― Я.?Ф. Семeнов.
Заход в район дворца предполагался с двух сторон. ≪Грому≫ надлежало крутиться по серпантину, а ≪Зенит≫ должен был штурмовать пешеходную лестницу, выходившую на торец дворца. Потом, соединившись у фасада, отрядам спецназа КГБ предстояло вместе проникнуть в Тадж-Бек. Однако прорыв группы Семeнова оказался затруднен. Головной бронетранспортер колонны был подбит, экипаж десантировался. Несколько бойцов пробились к намеченному рубежу атаки, остальные были рассеяны и прижаты огнем к земле.
Ключевую роль в штурме дворца Амина сыграл экипаж В.?Ф. Карпухина, поддержанный другими подгруппами ≪Грома≫. Пробившись на первый этаж, ≪альфовцы≫ вместе с бойцами ≪Зенита≫ сломили ожесточенное сопротивление превосходящего по численности противника и ликвидировали диктатора Х. Амина.
Одновременно с проведением операции ≪Шторм-333≫ бойцы спецподразделения были задействованы вместе с десантниками для захвата стратегически важных объектов, расположенных в разных частях афганской столицы ― Царандоя (МВД), штаба ВВС и Центрального телеграфа. Кодовое название всей операции в Кабуле по смене власти ― ≪Байкал-79≫.
――――――

 この作戦に「グロム Грома」支隊として参戦した,当のアルファ部隊が発表しているわけです

 他にも

≪ШТОРМ-333≫
Как штурмовали дворец Амина


と,このように,「アガト」作戦というのは存在せず,創作の部類だと断言して良いでしょう.

グロム支隊

CRS@空挺軍 in mixi,2010年03月13日22:49

▼ 橋本氏からのお返事が届きました.

 氏によれば,まず本稿の目的は,「KGBの役割」を検証することであって,大規模な軍事作戦の観点から同事実を検証していない.
 「アガット(AGATE)作戦」は,少なからずKGB内の作戦名と理解されている.
 「Шторм-333(突撃333作戦)」では,「アガット作戦」の「アミンに対する毒殺計画」などの機密内容を含んでいない.
 省庁の相違によって,作戦名とその分担が異なるのは通常のことです.

――との回答を頂きました.

 事実 「Шторм-333(突撃333作戦)」の前に,アミン大統領に対して,毒殺による暗殺が実行されていますが,失敗に終わっています.
 この暗殺計画が失敗に終わった後に,彼を亡き者にするために,「Шторм-333(突撃333作戦)」と言われた斬首作戦は実行に移されました.

 橋本氏の記事と回答内容を合わせると,

・「アガット(AGATE)作戦」というのは,KGBが党中央委員会に対して提示した「アミン議長暗殺計画」の作戦呼称である

・「アガット(AGATE)作戦」においては,アミン議長を抹殺するために様々な作戦が立案されており,このうち2つの作戦が実行に移された

(1) アミン大統領が住む,大統領宮殿に工作員を忍ばせ,彼の食事に毒を混ぜて殺害する
(2) 特殊部隊による襲撃作戦「Шторм-333(突撃333作戦)」

 結果,毒殺計画は失敗し,実際に「斬首」するために部隊を大統領宮殿に向かわせ襲撃しました.

 このことから橋本氏や湯浅氏は,あくまでもアミン大統領を暗殺する実行機関であった,KGBという組織からの視点から,「アミン議長暗殺計画」の作戦呼称である「アガット(AGATE)作戦」を記載していたわけです
 実際には,アミン大統領を直接殺害する作戦である 「Шторм-333(突撃333作戦)」 が実行に移されたわけです.

 つまり橋本氏や湯浅氏と私では,「アミン議長暗殺計画」に対する視点が異なっていたわけで.
 お2方は決して間違ってはいなかったということです.

 数々の無礼を働いたことをお詫び申し上げます.

 実際に橋本氏はお忙しい,かつ一平民に過ぎない私に対して回答をくれた事,また橋本氏の指摘より,新たな視点が生まれたことにしても感謝しております.

 参考文献などを通じ,「アガット(AGATE)作戦」と「Шторм-333(突撃333作戦)」の関連性を調べて行こうかと思っています.

P・S
 氏の記事は内容が特化しているため,反響が少ないのが現状なようで,質疑をして頂けるのは,執筆者として嬉しく思いますとのことでした.

 こうした,読者と執筆者のキャッチボールする関係は,何時までも続いて欲しいものですね.

CRS@空挺軍 in mixi,2011年05月14日02:33


 【質問】
 アミン議長暗殺作戦「≪Шторм-333≫)」に参戦したのは,ソ連特殊部隊「アルファ」のみ?

 【回答】
≪Шторм-333≫)に参戦した部隊

KGB: グロム≪Гром≫ 部隊(アルファで構成されている)
     ゼニート≪Зенит≫部隊 (KGB将校グループ 後ヴィンペルの母体となる)

GRU: 第154独立特殊任務支隊
     イスラム大隊(中央アジア出身者で構成された部隊)

陸軍: 空挺部隊 第105親衛空挺師団  第345親衛空挺連隊

注 人数に関しては資料ごとに齟齬があるため記載せず

 KGBとGRUの特殊部隊が参戦しているのは,指揮系統上問題がありますが,アミンと彼を守る親衛隊全員を“抹殺”する必要がある以上,仕方がありません.
 生き残りが一人でいれば,そこから情報が漏れてしまい,ソ連の工作が明るみになってしまいます.
 KGBだけの単独作戦では人数が足りなかったのでしょう.
 GRUにも協力を求めるのは,KGBとしては苦々しい気持ちでしょうがね.

 イスラム大隊が編成されたのは,欺瞞工作の一環でしょう.
 また万が一生き残りが出て,情報が漏れても,反乱組織(アフガーン人)の仕業と言い逃れできるという,保険の意味合いもあると推測されます.

 この作戦にはBMP-1の他,ZSU-23-4 「シルカ」も投入されております.

 【参考資料】
Штурм дворца Амина
Operation Storm-333
А. Мусиенко ≪Спецназ ГРУ в Афганистане≫
「アフガニスタンにおけるGRUスペツナズ」(露語)
『ソ連のスパイたち KGBと情報機関1917−1991年』(S.カタミーゼ著)

CRS@空挺軍 in mixi,2009年12月23日01:11


 【質問】
 ソ連軍侵攻の際,アフ【ガ】ーン政府軍(DRA)はソ連軍に抵抗しなかったのか?

 【回答】
 事前に無力化されていたため,ほとんど抵抗はなかった.
 空挺大隊は,ソ連軍による武装解除に抵抗したが,その後はアミン政府寄りの姿勢を見せた.
 1980年初めには,カーブル周辺のDRA要塞とソ連軍との間で戦闘が起こり,クァルガの第8師団は,激しい戦闘を短時間行った後,山中に兵士の殆どが逃亡した.

 しかし最も大きな抵抗は,脱走だったと言える.
 1980年には2万人が脱走し,DRAは組織崩壊した.
 この結果,DRAを使って反政府勢力を一掃する予定だったクレムリンは,ソ連軍自らに掃討作戦をやらせねばならなくなり,以後,泥沼に足を取られることとなった.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.35-37を参照されたし.

 また,以下のような記述もある.

 〔略〕
 79年12月27日夜,「ドカンという大きな砲声を合図に,カブール市内にソビエト軍戦車が展開され,都心部のアフガニスタン放送局前で,侵攻を開始したソビエト軍と同放送局警護のアフガニスタン政府軍戦車が交戦.
 政府軍側は2台の戦車が破壊され,敗退した」(「毎日新聞」 80年1月11日付)

 こうしてアフガニスタンの放送局は現在もソビエト軍兵士が常駐し警備している.
 テレビ局の裏庭はカメラマンたちの憩いの場所である.
 が,その真正面はソビエト軍兵士の宿舎となっている.
 〔略〕
 昨年(82年)までは,この兵舎の前にソビエト軍戦車が配置につき,鈍く光る砲身を局の入口に向けていた.
 それが現在では,戦車に代わり4台の装甲兵員輸送車が一列に並んでいる.
 武装した歩哨もいる.
 兵舎も2階建ての頑丈な建物に取って代わられた.以前のガレージを利用して作られたカマボコ兵舎は跡かたもない.
 これは長引く駐屯の予告であろうか.

 〔略〕

――――――飯田健一著『アフガニスタンはいま』(日本放送出版協会,1984.5.20),p.49

ソ連が撮影したアフ【ガ】ーニスタン紛争



 【質問】
 侵攻直前,ソ連はどれほどアフ【ガ】ーニスタンに浸透していたのか?

 【回答】
 アフ【ガ】ーニスタンとの国境に兵士を送り込む遥か前に,アフガーン国内でソ連は既に圧倒的な存在感を示していた.
 以下,抜粋要約.

 ソ連の戦略は次のように纏められる.
 (1) 心理的に最大限プラスに働くよう,アフ【ガ】ーン人がパキスタンとの紛争で最も苦しんでいるときに合わせてプロジェクトを申し入れた.
 (2) アフ【ガ】ーン大衆に感謝の念を植え付け,ソ連の好意を印象付けることにより,自分達は安全だと錯覚させ,彼らの中に深く根ざしたロシア人に対する猜疑心を拭い去るような計画を考案した(計画はたいてい,最も目立つカーブルで実施した).
 (3) ソ連の政治的影響力が強まりそうな支援を申し入れた.
 (4) ソ連にますます依存するような経済援助を実施した.
 (5) アフ【ガ】ーン占拠を視野に入れ,この国の長期に渡る戦略的価値を高めることを目的にしていた.

 1967年までに,アフ【ガ】ーニスタンに対し,ソ連は述べ5億7千万ドルを供与した.78年までのアフ【ガ】ーンに対する信用貸しの合計は,使途不明のものを含めると1兆2650億ドルに上る.
 片やアメリカからの信用貸しと補助金は,55年以前からあったものの,77年までの総計をとっても4億7千万ドルにしかならなかった.

 さらにソ連は,78年までにアフ【ガ】ーニスタンの特定の経済セクターに貸付を集中し,返済を繰り延べ,駐在顧問の人数を増やすことで,アフ【ガ】ーン政府の構想と政策におけるソ連の経済面での存在感と影響は,やがて国中に浸透していった.
 巨額の信用貸し,低利か無利子の貸し付け,交通・交易についての合意,シベルガンからの天然ガス・パイプライン敷設など,ソ連の経済援助のあらゆる面が,同国へのアフ【ガ】ーンの依存を強めていった.

 78年までに71のプロジェクトにソ連は着手し,内52はソ連の技術者によって進められていた.
 加えてさらに60のプロジェクトが計画され,ソ連はアフ【ガ】ーニスタンに対し,述べ30億ドルを超える投資を行った.

 ソ連は最も有益で目立つプロジェクト(カーブルの道路舗装など)を重点的に援助したが,アメリカの援助活動の殆どは,ヘルマンド渓谷のダム建設や,アフ【ガ】ーン南西僻地での灌漑事業に限られていた.
 ソ連の土木事業はアフ【ガ】ーン北部で集中的に行われ,テルメズ〜カーブル間やクシュカ〜ヘラート〜カンダハル間に,軍隊の使用に耐える道路が建設された(アメリカはカンダハル〜カーブル間の道路を建設した).
 また,ソ連はヒンドゥクシュ山脈にサラン・トンネルを通してアフ【ガ】ーン北部と他の地域を結んだ他,バグラム,シンダンド,カーブルに大規模飛行場を建設し,既にあるものは補修した.
 これらはいずれも79年末から80年初めにかけてのソ連軍によるアフ【ガ】ーン侵攻で利用されている.

 友好的な外交政策と巨額の経済援助に加え,ソ連は最初のきっかけ――軍事援助の合意――に乗じ,アフ【ガ】ーン軍近代化を全面的に請負うようになる.
 結果,アフ【ガ】ーン陸空軍は,ソ連製,もしくはソ連圏で製造された兵器で武装することになった.
 アフ【ガ】ーニスタンは1955年,チェコスロヴァキアから300万ドル相当の兵器を初めて購入しているが,1956年7月に武器3240万ドルの商談が,ソ連との間で成立したことをきっかけに,軍隊の「ソ連化」が始まった.
 78年までのソ連の軍事援助の総額は12億5千万ドルと,経済援助の総額に匹敵するほどになっている.
 56年当時は,4万4千人の軍隊と2万人の中央警察が,骨董並みに古い兵器と,25機あるかないかの古いピストン・エンジン式航空機で武装していただけだった.
 それが78年のクーデター時には,陸軍10万人,空軍1万人と大軍になり,それぞれ最新式ではないものの,ソ連製の近代兵器でそこそこ武装するようになっていた.

 さらにこの時期,アフ【ガ】ーン兵3725名がソ連で軍事訓練を受け,ソ連の軍事顧問がアフ【ガ】ーニスタンで活動を始めた.訓練は,ソ連の諜報部門にとって,アフ【ガ】ーン人将校を洗脳する絶好の機会となった.
 他に78年までに,教育機関では5千人の学生を,技術訓練学校では1600人の学生を訓練し,その一部をKGBに取り込んでいる.

 やがてこの将校達は78年にクーデターを起こし,共産政権を樹立することになる.

 一方,アメリカのほうはアフ【ガ】ーニスタンとの友好関係を疎かにしていた.
 1940年代後半から50年代初めにかけ,アフ【ガ】ーニスタンはアメリカに経済・軍事支援を繰り返し申し入れている.
 これに対してアメリカ政府は,幾つか理由はあったものの,とりわけ「パシュトゥニスタン」論争の最中で,パキスタンがアフ【ガ】ーニスタンに神経を尖らせていたことを考慮し,回答をひたすら先延ばしにした.
 1956年にアフ【ガ】ーニスタンがソ連の軍事援助を受け入れることにしたのは,この結果である.
 そして,さらにパシュトゥニスタン問題で,パキスタンとの交易と交通が途絶えたことも一因となって,アフ【ガ】ーンはソ連との経済関係を再び確立することになったのである.

(Assistant Professor L. P. Goodson 「アフガニスタン 終わりなき争乱の国」,
原書房,'01,P.88-92)

 アフガニスタンの開発担当者らは,諸外国からの援助の内,ソ連と東欧諸国からのものが全体の3分の2を占めていることを,ことある毎に繰り返したものだ.
 そのことは,1976年から83年までの経済開発7ヵ年計画に含まれている主要開発プロジェクトを見ると,一目瞭然である(ただし,この7ヵ年計画は,78年からの5ヵ年計画にとって代わられ.そのまま実施されたわけではない).
経済開発7ヵ年計画の主要プロジェクト
重工業・鉱業
(単位:100万アフガニ)
  電力開発
(単位:メガワット,100万アフガニ)
プロジェクト 工費 援助主体 規模 工費 援助主体
トラクター・ジープ組立工場 276 ルーマニア 新規プロジェクト
ガラス製造工場 231 中国 カジャカイ 116.5 3,500 イラン
銅製錬施設 30,000 ソ連 ヘラート 24 991 チェコ
ダール・ソーフ炭鉱 1,079 チェコ マザリ・シャリフ 220 2,577 ソ連
ヘラート炭鉱 540 チェコ カブール 40 510 世銀
鉱物資源探査 702 ソ連 ファイザバード 0.15 35 インド
鉱物・地質調査 2,927 ソ連 チャムカイ 0.15 62 西ドイツ
ガス・石油探査(北部) 908 ソ連
ガス・石油探査(北・西部) 10,378 ソ連 繰り返しプロジェクト
ガス・石油探査(南部) 770 トータル石油
(フランス)
カジャカイ 33 1,456
石油精製 810 ソ連 ヘラート 3.4 30 チェコ
ジャルクデュク硫黄分離施設 2,381 ソ連 バーミヤン 0.75 100 インド
肥料工場 7,766 ソ連
肥料・電力工場 3,697 ソ連 電力・灌漑プロジェクト
石油製品貯蔵施設 1,028 ――― ケラガイ 50 4,123 ソ連
ヘルマンド渓谷開発 20,681 イラン,米,
アジア開銀
カマ 15 753 アジア開銀
アフガン横断鉄道 51,008 イラン パンジシャー 120 6,207 ―――
(出所「ミドルイースト・エコノミック・ダイジェスト」1977/5/20号)
 〔略〕
 だが米国は既に1973年に,大きな開発プロジェクトは,費用がかかる割には実際に住民の生活を向上させる役に立っていないとして,巨大開発プロジェクトへの資金投入を減らし,比較的費用のかからない地方都市での医療センター,小学校の建設等に重点を置き換えていた.

朝日新聞調査研究室著「アフガニスタン事件」(朝日新聞社,1980/4/15),p.26-28

ソ連が撮影したアフ【ガ】ーニスタン紛争



 【質問】
 ソ連軍侵攻直前,アフ【ガ】ーニスタンへのアメリカの影響力はどの程度のものだったのか?

 【回答】
 せいぜいパキスタンを通じて間接的に,限定的な影響力を及ぼすことができた程度だったという.
 以下引用.

 アフガニスタンでの事態については,米国のコントロールの手を離れており,米国のできることはせいぜい,パキスタンを通じてアフガニスタンで行動するゲリラを支援することであろう.
 米国がパキスタンを支援することは,長年,微妙な関係になっているインドとの関係悪化を招くことを覚悟しなければならない.
 米国がこうした危険までおかして,パキスタン支援に本腰を入れるかどうか疑問であろう.
 米国の関心は,アフガニスタン,パキスタンという南アジアよりも,中東対策にあると思われる.
 「1981年度米国防報告」は1月29日に発表されたが,その力点もアフガニスタン,パキスタンではなく,中東に向けられている.
 中東について,
「西欧と北東アジアを例外とすれば,米国にとって中東よりも大きな利益と重要性を持つ地域はない」
と強調している.
 これは言うまでもなく,イスラエル問題と中東の石油問題があるからだ.

朝日新聞調査研究室著「アフガニスタン事件」(朝日新聞社,1980/4/15),p.140

 当時の援助予定額から見ると,60年代にしのぎを削って争った米ソ援助合戦は,70年に入ってから,米国はその戦列から離れ,代わって中国が登場したように見えた.
 米国がソ連のアフガニスタン援助の独占を黙認したわけではあるまいが,当時の米国は忙しかった.
 ベトナム戦費の急増もあれば,71年末からの印パ戦争で敗れたパキスタンに対し,中国との援助合戦が始まっていた.
 そのパキスタンとアフガニスタンは,領土紛争でかねてから犬猿の仲.
 アフガニスタンが米国のパキスタン援助に抗議したせいか,米国のアフガニスタン援助は軽量化されていった.
 当時,ソ連はインド,アフガニスタンを支援し,米国,中国はパキスタンを支援,インド亜大陸は超大国の援助が錯綜した.

 米国がアフガニスタン援助の前線から後退すると,その穴埋めのように登場したのが中国だった.
 米国が米ソ援助合戦から後退した場合,アフガニスタン援助はソ連一色となる.
 多くの物質的援助をソ連から受け取りながら,当時のアフガニスタンはソ連への警戒心も不信の念も解いていなかった.
 それが中国援助の要請となった,と見られた.
 当時の中国もまた,航空協定を始め,アフガニスタン援助に乗り気だったから,年間8000万ドルの大型援助を一度は約束したのであろう.
 もっとも,この中国の大型援助は実施されず,70年代のアフガニスタン援助はソ連色だけを強めていった.

(同 p.164-165)

ソ連が撮影したアフ【ガ】ーニスタン紛争



 【質問】
 1979年,アフガニスタンの内紛に,ブレジネフ政権からゴルバチョフ政権までの約9年間,ソ連が介入した事は習ったのですが……
 …当時アメリカが支持したタリバンと対立した,"親ソ政権"(軍事組織?)の名称は何なのでしょうか?
 教科書や用語集には詳しい事が書かれておりません.
 どうか,教えて下さいm(_ _)m

 【回答】
 軍事組織としては
アフガニスタン民主共和国軍(DRA軍)
および
ソ連軍第40軍(司令部:テルメズ 前線司令部:カーブルのバラ・ヒサル砦)

 他に民兵を不正規に雇っておった.

 なお,当時,アメリカが支援していたのはタリバンではなく,「ムジャヒディン7派」と俗に言われるゲリラ組織.
 タリバンが現れたのはソ連撤退よりも後.

 ところで,アフガンで反政府ゲリラを支援しておったのはアメリカだけではなく,我が国もアフガンのシーア派組織を支援しておったのだが,だーーーれも殆ど知らん,話にも殆ど上らんとはどういうことだ.
 かんしゃくおきる!!!!11!!

イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw in 世界史板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
>当時アメリカが支持したタリバンと対立した,"親ソ政権"(軍事組織?)の名称は何なのでしょうか?

 組織としてのタリバンはソ連軍撤退後の1994年に設立したので,「当時アメリカが支持したムシャヒディンと対立した」に直した方が良いと思います.
 質問した方には申し訳ないのですが,ムシャヒディンとタリバンを混同しているとしか考えられません.

90式改 in FAQ BBS,2010/5/30(日) & 6/6(日)
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 その点は,最初の掲載時にも,直すべきかどうかで悩みました.
 しかし,回答文中にも
>当時,アメリカが支援していたのはタリバンではなく〜〜
との言及があり,質問文を直すと,回答文のほうも,間違っていないのに手直ししなければならなくなるため,あえて残した次第です.
 その旨ご理解いただければ幸いです.

編者



 【質問】
>我が国もアフガンのシーア派組織を支援して

 ハザーラ人ってタジク人と同じダリー語話者だけど,相互に共闘とかしてたんだろうか?
 やはりひとりシーア派信者だったから,常に他の勢力からハブられてイランからの支援以外,あてが無い状態とかだったんだろうか?

 【回答】
>相互に共闘とかしてたんだろうか

 しておらん.
 パキスタン経由で支援されていた7派ですら共闘できなかったのに,まして宗派を超えた共闘などできようか.

>イランからの支援以外
>あてが無い状態とかだったんだろうか.

 左様.
 そもそもハザラ人はかの地にあっては三等民族扱いであった.
 支配的民族であるパシュトゥン人はもとより,タジク人からも低く見られておった.
 人口の多さでも3番目であるから,やむをえないところはあるがな.

イラン前国防相 ◆2ahDXUlKbw in 世界史板
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 ソ連が来ようと,普通に生活していれば,一般庶民には多少窮屈でも,内戦後のような生活にはならなかっただろう.
 そこら辺を割り切って考えられないから,発展途上国はいつも戦争やって,結局貧しい生活してるんだよ.
 あんな連中ほっとけ.餓死して,全員死ぬまで戦争してろ.

軍事板

 【事実】
 ハルク派による施策が現実を無視し,コミュニティを破壊するものだったから,そのままハルク派の政権が続いていたとしても,多少窮屈どころか飢餓を伴う大混乱が起こっていただろう.
 生活を守るために,反乱は不可避だったと言える.
 以下,ソース.

――――――
 ハルク派による施策の問題点は,アフ【ガ】ーニスタン社会の複雑さと,経済と社会が連動する関係にアフ【ガ】ーニスタン社会が依存していることを,全く考慮していなかったことである.

 既存の体制に大きな不平等と搾取があると信じたハルク派は,確かに正しかった.多くの抵当契約は,借り手に不当な条件を強いていたからである.
 だがハルク派が無視していたのは,この制度には保護と依存も不可分だったということだ.
 これは土地だけの問題ではなかった.小作人はしばしば地主に種子,肥料,資金借入と荷車用の家畜を依存しており,水利も重要な問題だった.地方では多くの資本投入とサービスは売買されるのではなく,共同体によって提供されていた.
 さらに事態を複雑にしたのは,土地台帳の調査が全く不完全で,それゆえ,誰が何を所有しているのか,確実な資料が殆どなかったことである.土地は,部族や一族の族長の名前で登録されていることもしばしばだったが,実際には所有権は共同体で共有されていた.
 識字教育,女性の参加をも含む教育改革,老人への課税,共同体の外部からの教師の導入,マルクス主義とロシア語の重要視も,激しい怒りを買った.結婚命令に関する限り,妻の売買の習慣をどう捉えようとも,メール(花嫁の値段)は伝統的な結婚契約の一部であり,それによって花嫁は安全を保証されていた.
 だが,改革は家族関係の心臓部を直撃した.

 改革によって起こった問題は,多岐に渡った.
 土地の所有権に関する議論が紛糾し,所有権が不明なままだったため,通例の資本投入は保留された.
 政府の信用貸しは不備が多く,それまであった私的機関を代替できず,すぐに破綻した.
 集団農場も実現しなかった.
 また,言うまでもないことだが,国家は,それまで共同体が行っていた灌漑システムの整備などの作業を行ったわけでもない.
 抵当の記録書類は存在しないことが多かった.
 行政命令は慌しく導入されたため,正確さや平等性は望めなかった.土地配分を決めるために諸州に派遣された委員会の仕事ぶりは,完全に恣意的なことも希ではなかった.
 改革を力で推し進めようとするあまり,時には暴力,逮捕,暗殺まで行われた.
 その結果,混乱と困難が広がり,耕地の3分の1が荒れるに任された.
 さらに,この政策を恨んだのは地主だけではなく,殆どの地方のアフ【ガ】ーン人は,他者から取り上げられた所有物を受け取るのは不公平で反イスラーム的だと信じていた.多くの場合,地方共同体は,改革の受け入れを巡って分裂するのではなく,改革に対して抵抗するために結束した.

 パルチャム派排除を完了する前から,ハルク派は敵と見なした者に対し,恐怖支配を展開し始めていた.多くの軍人,官僚,聖職者,元政治家や専門職の人々が,刑務所に投げ込まれた.さらに多くの人々が,逮捕される前に国外へ脱出した.
 地方では,宗教界と世俗の指導者達も標的となった.
 カーブル郊外にある,悪名高きプール・イ・チャルキの刑務所は,未完成のままで,衛生設備もなかったが,ここにますます多くの政治囚が送られ,処刑は日常茶飯事だった.モーサ・シャフィクも初期の犠牲者の一人である.
 78年秋,アムネスティ・インターナショナルは約4000名の政治囚が囚われていると計算し,その1年後,サウール革命以後,裁判なしに拘禁されている人の数は約1万2000名だと報告した.彼らについての情報は殆ど発表されず,家族達は通常,彼らがどこにいるのかも,生死さえも全く知らなかった.
 78年夏には,政権はムジャディディ家の構成員を全員逮捕し,79年初頭に同家の男性総勢70名を殺害した.
 同年6月には,74年にダウドが逮捕したイスラーム主義活動家全員が,一夜にして殺害された.
 地方共同体も報復の犠牲となった.
 例えばクナール州ケララ村は79年4月に襲撃され,完全に破壊され,住民1000人以上が殺されている.

 ハルク派とそのソ連の保護者にとって,試練のときは79年3月にやってきた.ヘラートで,政府の識字教育キャンペーンに女性が参加したことへの抗議によって引き起こされたと見られる,大規模な暴動が起こり,全守備隊が反乱に加わり,政府は数日間,ヘラートの支配権を失った.政府職員とソ連の顧問は追い詰められ,彼らとその家族は拷問を受け,残虐な手口で殺害された.男性のみならず,女性と子供を含む約百名のロシア人が命を落とした.多くの者は公開で惨殺され,死体は杭に刺されて引き回された.
 おそらくはロシア人が操縦する航空機による空爆が行われ,戦車とヘリコプターが支援する総力攻撃の後に,ヘラートはようやく降伏した.ヘラート市街の大半は瓦礫の山となり,ある推定では2万人ものヘラート市民が死んだという.
 多くの兵士は軍隊を脱走して二度と戻らず,元士官イスマーイル・ハンの下で,豊富な武器を持つ前線をこの地域に形成した.
 おそらくこの時点で,侵攻についてソビエト政府は考え始めたのだろう.

――――――Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P.,抜粋要約
 これら〔タラキ政権による社会主義的施策〕の諸措置の内,住民から特に大きな抵抗を受けたのは,布告第6,7,8号である.
 地方での高金利の廃止は,零細農民からは喜ばれはしたのだが,これまで播種期に彼らに種子を貸し付けていた大農主達はそれ以後,種子を貸さなくなった.
 また,土地改革で大地主や聖職者〔原文ママ.ムラーのことか?〕の土地を取り上げたことによって,これら大農主らの反感を買ったのは当然としても,土地を貰った農民も,政権が交代すれば,貰った土地を再び取り上げられるのではないかという不安を感じた.
 これに,種子の入手難,土地の区画の不明確さなどが加わり,相当広い範囲に渡って休耕地が現れた.
 その影響で,1979年の小麦の生産減は50〜80万トンに上ったと伝えられる.
 こうして土地改革は行き詰まり,政府は予定を半年も早めて,79年7月に土地改革の実施を中断してしまうのである.

朝日新聞調査研究室著「アフガニスタン事件」(朝日新聞社,1980/4/15),p.19-20

〔タラキー政権は〕社会改革に向けて急進的な方針を次々と発表したため,国民の反発を招いた.
 この年〔1978年〕,ラッバーニーのイスラーム協会とヘクマティヤールのイスラーム党以外のムジャーヒディーンによる政党の殆どが結成されている(Amin: 11)のも,こうした反政府運動のうねりの一つと言えよう.

 反政府運動の要因として,社会改革が挙げられるが,特に教育政策では,識字率の向上を目指す「ジハード(聖戦)」を掲げたものの,公教育にイスラーム教育が含まれなかったことが,イスラーム復興運動グループの不満を増長させた.
 急激な社会改革の中で特に問題となったのは,農村の改革だった.
 小作人の解放を訴え,地主は自分の土地を小作人に渡さねばならなかった.
 この政策には地主のみならず,小作人も反発した.
 農耕以外の生活に関しては地主に世話をしてもらうことが当然となっていた,言わば「持ちつ持たれつ」の関係を続けてきた多くの農村にあっては,与えられた土地を利用できるほど技術も意識も芽生えていない農民達自身が,地主側に味方した(金:17)のである.
 それは伝統的な安全保障体制を,外から「よかれ」と思って解体しようとした圧力に対する反動を生んだ.

 ただし,この動きは横断的広がりを持つものではなく,地域に限定されたものだった.
 対ソ連戦争時,「ゲリラ戦」と呼ばれた散発的な戦闘の中には,このような地域レベルでの抵抗運動が含まれていた.

山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.24-25

〔1984年〕3月8日には一般徴兵法でカーブル駐屯兵の任期を3年から4年に延長する改正案を出したために,政府軍兵士が反乱を起こし,ハルク派とパルチャム派の間での衝突に発展した.
 派閥間抗争はその後も続き,7月10日には両派の閣僚同士で銃撃戦が発生した.

山根聡 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.37

 〔略〕
 PDPA党内の分裂は根の深いものだったが,PDPAとその他民衆との間の広い隔たりの前では,それも色あせてしまうほどだった.
 PDPAはその役割を「レーニン主義の先導者」としており,嫌がる国民を社会主義に引きずり込もうとしていたが,党と人民との間のギャップは,共産党が統一できた他国の事例と比べても,明かに大きかった.

 1978年には,アフガン人の大多数が,ハルク派の計画を今や外国の「不信心者」の手先となった政権による反イスラム行動であると見なしていた.
 土地は差し押さえられ,集団農場や小農に与えられた.
 イスラムの緑色の国旗は,ソビエトの赤に変えられたが,このような象徴的な行為に関しては,広く反対を巻き起こすことになった.
 農場経営は国営になり,農業の大半は麻痺してしまった.
 アフガン風の教育や家庭生活は,カブールから送り込まれた党の活動家たちによって村単位で「改善」されたが,農民が怒りを暴力に訴えるようになり,犠牲者が増え始めた.
 陸軍ではハルク派の将校は少数派に過ぎず,カブールから送り込まれた,村人を軽蔑するような血気盛んな若者に向かって引き金を引いた者を捜すのに不本意な様子を見せるようになった.
 カブール政府がイスラムに対して見せた敵意は,全国的規模のレジスタンス(ばらばらに起きたとはいえ)を引き起こす触媒だった.
 このようなことはこれまでアフガニスタンでは,いや南アジアや中央アジアでも見られることはなかった.
 〔略〕

デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.28-29

 〔略〕
 1953年,カブール市内にソビエトの援助で近代的なパン工場が建設された.
 シーロ(Silo)工場がそれである.
 ソビエト製機械や設備を導入したこの工場には,約1400人の従業員が働く.
 〔略〕
 この近代的工場で大量に作られたパンは学校給食,病院,軍隊に運ばれるという.

 工場内で生産されるパンは,白パンと黒のコッペパンに大きく分けられる.
 後者のパンをここではナンと呼ぶ.
 イースト菌の入らない伝統的なパンと形が異なり,ふっくらとした大きなパンである.
 値段は白パン(800g)が10アフガン(1アフガンは約5円)で,黒パン(1kg)は9アフガンとなっている.
 バザールで売られているナンは200〜250gで平均して6アフガンである.
 大量生産によるコスト・ダウンが計られている.
 しかし,伝統を重んじるアフガニスタンの市民は,果たしてこのパンを好んで食べているのであろうか.
 仮に食べるとしても大量の格安パンが市場に出回った場合,バザールの伝統的なナン工場はどうなるのであろうか.
 〔略〕

飯田健一著『アフガニスタンはいま』(日本放送出版協会,1984.5.20),p.47-48

 全然ダメじゃん,PDPA……


 【珍説】
 マスコミは,1979年12月のソ連の友好的な軍事支援を「侵略」と呼び,これが,こんにちアフガニスタンに混乱・困窮をもたらした元凶にして,全ての出発点であるかのように言い触らした.
 大部分の人々はこうした虚報を丸ごと受け入れ,以来,ソ連を悪の権化と見るアフガニスタン像が定着した.
 しかし現実には,この時代のアフガニスタン人民は,アフガニスタン史上最も近代的・民主的な生活を享受していた.
 とりわけ,イスラムの戒律と封建的父長制に厳しく縛られていた女性の権利は,それ以前とは比べものにならないほど大きく拡大した.基本的には男女平等・同権である.
 ブルカを脱ぎ捨てた彼女達は,街を嬉々として歩き,工場,病院,学校,バザールなどで男性に伍して働いていた.国際会議に出席する代表団の中にも女性達がいた.
 ソ連の軍事支援は,4月革命,すなわちこの近代的・民主的な人民の暮らしを守るために,人民民主党が要請したものである(前掲「年報」).

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.237)

 【事実】
 まず,
>この時代のアフガニスタン人民は,
>アフガニスタン史上最も近代的・民主的な生活を享受していた.
というのは,事実に反します.
 一党独裁であったその体制は,ザヒール・シャー時代の議会政治にも劣りますし,サウル革命以後の「改革」が農村に混乱をもたらした事は,本書でも別の場所で(渋々)認めているところです.
 そればかりか,秘密警察によって逮捕者が刑務所に溢れていたとする証言もあります.
 ドリス・レッシング著「アフガニスタンの風」(晶文社,2001.11)には,拷問された女性の証言すら登場します.
 そもそも,アフ【ガ】ーニスタン紛争は,反政府デモに対する弾圧が直接のきっかけです.

――――――
 アフガニスタン全体でどのくらいの政治犯がいたのか,定かではない.
 しかし,1979年3月に現地調査をし,9月にその調査結果を発表したアムネスティ・インターナショナルによると,カブールのプレ・シャルキ刑務所にいる政治犯だけで少なくとも1万2000人.
 これらの政治犯は一人も裁判にかけられておらず,正式に起訴された者も,ほんの僅かしかいなかった.
 これら受刑者の入獄前の職業は,閣僚,外交官,学者,医師,実業家,公務員,学生,ジャーナリストなどである.
 アムネスティの担当者と会見したアミン党中央委書記は,
「何故彼らをいつまでも裁判しないのか?」
と聞かれ,
「裁判をすると殺さなければならないからだ」
と答えたという.

――――――朝日新聞調査研究室著「アフガニスタン事件」(朝日新聞社,1980/4/15),p.18-19

▼ また,以下の記述によれば,一介の音楽家を拷問死させるような体制だったわけで,今日,一般的に理解されるような「民主的な体制」からは程遠かったことが分かるだろう.

――――――
 〔略〕
 一般に音楽家達は,人々の深い愛情に支えられておりながら,社会的な地位は低い.
 夕刻テレビの芸能番組中で擦弦楽器スルンギィを演奏した男が,夜のカラチを流して歩くのについてまわったことがある.
 街の人々がそのスルンギィ弾きに示した反応は,ただの流しの芸人に対するものだった.
 〔略〕

 しかし音楽家が自作の詩を唱って人々の心を打つ時,彼は,時の為政者よりも大きく高い存在となる.
 最高の音楽家は,同時に最高の詩人であらねばならないのである.
 そんな音楽家は,即興も交えて生命の限り人々に自らの詩作を伝えようと務めるのである.

 人々は,詩への絶対的な尊敬を持つから,評価は当然厳しく高度である.
 神業に近い演奏も耳をくすぐる美声も,心にしみとおる詩を伴ってこそ人々に受け入れられる.
 そして,そんな最高の音楽家は,常に人々の側にいなくてはならないのも当然のことである.

 平和な時期のカーブルで,シャイダァは温厚な王のようだった.
 場末のホテルの結婚式で5時間,笑みを絶やさず唱い続けた彼を忘れられない.
 彼の歌は,布に包まれ介添えの娘達に支えられた花嫁を迎え,若者達は高々と手を取り合って輪を作り,揺れながら踊っていた.
 そのシャイダァは自らが引き起こした交通事故で,アフガニスタンの今日の悲劇を見ずに世を去った.

 サラハングは,さまよえる帝王だった.
 人々は彼をオスタード(師)と呼んだ.
 招かれれば,どんな場末のチャイハナにでも出向き,胸に当てた右手を宙に伸ばし,また戻し,夜明けまで唱った.
 その詩と旋律は,大地の起伏そのものだった.
 私の邪悪,おお,お前の邪悪,そうかお前もあそこから来た者か……その名は邪悪の地,その地の名は「我が邪悪,ハラーバタム」……彼の歌に人々は泣きながらうなづいていた.
 サラハングは,国賓のように迎えられたデリーのコンサートで倒れ,私の街で死にたい,とソ連軍と政府軍に掌握されていたカーブルへ無理に帰国,80年代の始めに死んだ.殺されたともいう.

 アマハング,焼殺.
 シェール・ガズナウィ,バスと共に焼殺.
 私の知人だった無名の楽師達の多くが,射殺され,拷問死した.
 誰もが,人々の側で自らの詩を唱って死んでいった.

 先年,パキスタンの国境の古都,ペシャーワルで会ったひとりのアフガニスタンの学生は,サラハングのカセット一巻だけが荷物だった.
「僕は身体が弱いし,戦いも恐ろしい.家族は皆,死にました」
 青ざめた顔のその青年は,同族である難民出身のカーペット屋のラジカセでそのテープをかけてもらいながら,いつまでも泣いていた.

――――――『神・泥・人』(甲斐大策著,石風社,1992.2.20),p.41-44

>女性の権利は,それ以前とは比べものにならないほど大きく拡大した.
というのも,非常に怪しいと言わざるを得ません.
 前掲「アフガニスタンの風」には,アミル・モハマディ(ハリカト党指導者)による,
「ソ連侵攻前だって女性は自由になりつつあった」
という証言があります.
「本当に解放された唯一の女性は,カルマル夫人である」
と揶揄する言葉も残っています.

 第一,
>友好的な軍事支援を「侵略」と
呼ばないとしたら,ヴェトナム戦争もアメリカによるヴェトナム侵略とは言えなくなってしまうわけですが,佐々木はこれを是とするのでしょうか?

ソ連が撮影したアフ【ガ】ーニスタン紛争



 【質問】
 ヘラート事件とは?

 【回答】
 1979/3/21,ヘラートで起きた反共産デモが,市の支配権を奪った事件.
 鎮圧に送り込まれた政府軍は多くがデモ隊側に寝返り,銃撃戦と爆撃とで5000人以上の死者が出た.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.29を参照されたし.


 【質問】
 「アラー・アクバルの夜」とは?

 【回答】
 1980/2/21,カーブルで起きた反ソ暴動.
 夜明けにソ連軍と政府軍とがデモを攻撃し,少なくとも300人が死亡.
 5000人余りが逮捕され,その多くが後に処刑された.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.36-38を参照されたし.


 【質問】
 ソ連軍のアフ【ガ】ーン侵攻は,国際世論からはどう見られたのか?

 【回答】
 特にイスラーム圏を中心に,ネガティヴな反応を引き起こしたという.
 以下引用.

――――――
 国際世論も,今のところ〔アメリカの〕味方につけたと言ってよかろう.
 その一つは,1月15日の国連緊急総会で,賛成104票対反対18票という圧倒的大差で,アフガニスタンからの外国軍即時撤退が決議されたことであり,もう一つは,パレスチナ問題等を巡って,これまで米国に好意的とは言えなかったイスラム諸国36ヶ国の外相がパキスタンに参集,1月29日,ソ連非難の決議を採択したことである.

――――――朝日新聞調査研究室著「アフガニスタン事件」(朝日新聞社,1980/4/15),p.75

アフガーンのソ連軍


 【質問】
五輪不参加でヘビに生殺しされた選手たち

 いちばんの被害者は,モスクワ五輪出場が決まっていた選手たちです.
 「ダメだろう」とは思いつつ望みは消えないわけですから,モヤモヤ気分のなかでも練習は続けなきゃいけない.
 悲痛な訴えをする選手の報道記事もあり,今改めて見れば痛々しくてかないません.

 ちなみに,西側諸国がこぞってボイコットしたように見えるモスクワ五輪ですが,英国やフランスなどは入場行進をボイコットしただけで,競技には参加しています.
 みんながみんな,アメリカの言うとおりにしたわけではなく,国ごとに自主的な判断をしていたのですね.
 このことも,案外,忘れられているような気がします.
(英国,フランス,イタリア,オーストラリア,オランダ,ベルギー,ポルトガル,スペインなどは参加した)

 【回答】
 確かに選手には気の毒ですが,ソ連の隣国が併合,蹂躙されている時に,ソ連に接している日本がオリンピックに参加したら,能天気を超えて大うつけです.
 それこそ大恥と,取り返しのつかない汚点を,世界中に晒したでしょう.
 あれは参加しなくて正解です.

 実際に,WTO(ワルシャワ条約機構)と隣接していた国で,参加したのはオーストリアやスウェーデン,ユーゴスラビアなど,いずれも中立国です.
 当時,米国側に属していた国でソ連と隣接していた国で,モスクワに参加した国は『一国も』ありません.

なお,参加した英国,フランス,イタリア,オーストラリア,オランダ,ベルギー,ポルトガル,スペインは,いずれもソ連と隣接していません.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 カルマル時代,ロシア人に対するアフ【ガ】ーン人の感情,アフ【ガ】ーン人に対するロシア人の感情は?

 【回答】
 以下のエピソードから推測するに,アフ【ガ】ーン人の対ソビエト感情は決して良くないが,反ソ感情を表に出して生きていくことは不可能なので,できる限りその存在を無視するようにふるまっていた様子.
 一方,ロシア人はアフ【ガ】ーン人を,いつ寝返るか分からない信頼できない存在と見ていた模様.

 〔略〕
 私はカブール滞在中,毎日少なくとも2回はこの放送局裏のたまり部屋に出入りしていた.
 〔略〕
 〔その真正面にある〕兵舎には20人くらいの小さな部隊が常駐していた.
 兵士たちはいずれも20歳前の若者たちで,一人だけ中年の将校らしい男でこれが小部隊を指揮する隊長のようだった.
 兵士たちの昼間の行動は全く単調そのもので皆退屈しきっているようだった.
 20人のうち常時3人が歩哨にあたり,自動小銃を肩にかけ,このときだけはちょっと真剣な表情をしていた.
 しかし残りの兵士たちは時折,戦車や装甲車を水洗いしたり,エンジンの整備をするだけで,あとはブラブラしているだけだった.
 〔略〕

 兵士たちは時々放送局のたまり部屋にやってきて,覚えたてのアフガニスタン語でほうきを貸してくれなどと申し入れる.
 彼らは兵舎内の掃除用具さえ持ち合わせていないのである.
 こんなとき,アフガニスタン人の間に微妙な反応が現れる.
 顔をこわばらせ,ソビエト兵に分からない早口で仲間に「断れ」と声をかける者がいる.
 多くの者は沈黙する.
 気まずい空気の中で,やはりこのままだと大変なことになると気遣う者もいて,結局ほうきを提供することになる.
 たまり部屋と兵舎の様子を見ていると,駐留ソビエト軍とアフガニスタンの一般市民との関係がよく分かる.
 いうまでもなく市民の対ソビエト感情は決して良くない.
 しかし介入後4年余を経た今,そうした反ソ感情を表に出してカブールで生きていくことは不可能である.
 彼らはソビエト軍が目の前にいても,できる限りその存在を無視するようにふるまっている.
 一方ソビエト軍もそのことを承知しているようである.
 兵士たちはアフガニスタンの市民が信用できない存在であり,いつゲリラ側に寝返るか分からないと見ているようだ.
 つまりソビエト軍もアフガニスタンの一般市民も,双方とも相手を信頼できる友人とか隣人とかは見ず,直接の接触を努めて避けているのだ.
 〔略〕

飯田健一著『アフガニスタンはいま』(日本放送出版協会,1984.5.20),p.49-51

 上記記述は直接の目撃証言であるだけに,信頼性は比較的高いと愚考する.
 証言者が何らかのイデオロギーにかぶれているらしき根拠も何も見当たらない.
 ただし見た目の印象からの推論であるため,この推論が間違っている可能性も否定できない.

ロシア兵と政府軍民兵?


 【質問】
 ソ連のアフ【ガ】ーニスタン侵攻で,10年の間にどれだけ双方に死傷者が出たのか?

 【回答】
 グラスノスチによって1989年8月12日に,ソ連国防軍参謀本部から公表されたデータによれば,以下の通り.

アフ【ガ】ーニスタン戦争におけるソ連の人的損害
士官 兵士 その他 総数
1979年 10 70 9 89
1980 199 1229 170 1598
1981 189 1033 155 1377
1982 238 1623 215 2076
1983 210 1057 179 1446
1984 305 2060 285 2650
1985 273 1552 240 2065
1986 216 1068 198 1482
1987 212 1004 189 1405
1988 117 639 106 862
1989 10 46 9 65
total 1979 11381 1755 15115
注) その他とは事故死者,戦病死者.
軍属,民間人の死者は含まれない.

 民間人について,正確な死者数は報じられていないが,その数は,ゆうに500名を越すものと見られる.
 なお,推計で,
航空機  1200機
装甲車両 2000台以上
輸送車両 1万台以上
の損害を出したとされている.

 それでは,対ゲリラ戦(Counter Insurgency ; Co-In)を戦うソ連軍は,どれだけのイスラーム戦士を戦死させたのであろうか.
 ソ連軍の高官の1人は,「1ヵ月平均3000人前後」,また,別の一人は「1年平均3万5000人」と述べている.
 別々の場所で別々な高官によって語られた数値はほぼ一致しており,ソ連軍としては1年間に3万5000〜3万6000人(1日当たり100人)のムジャヒディンと信じられる人々を戦死させたことになる.
 ソ連が駐留していた期間は3318日だから,ソ連軍とアフ【ガ】ーニスタン政府軍(DRA)軍は,30〜35万人の敵を殺した,と推測しているのであろう.
 一方,国連が推定した,この戦争のアフ【ガ】ーニスタン人の死者は,約100万人である.
 とすれば,死者の65-70%は民間人であった.

 詳しくは,三野正洋著『わかりやすいアフガニスタン戦争』(光人社,'98),P.299-300 & P. 310を参照されたし.

 ただし各種文献から推測するに,ムジャヒッディーンの戦死者数に関するソ連軍の統計は当てにはならないようだ.
 以下引用.

「ソ連軍がどんな公式を使って敵の被害を割り出しているか?
 敵軍に対して発砲した銃弾の総数を,国防省の専門家によって予め決められた因数で割り,それで得られた数が公式な敵の戦死者数になるのである.戦場で本当に死体が見つかったかどうかは関係ない.
 簡明にして理論的――しかし,完全に現実から遊離している」

(「ザ・メイン・エネミー」上巻,ランダムハウス講談社,'03,P379,抜粋要約)

 〔また,ソ連軍の犠牲者も〕実際の数字はほぼこの3倍と見ていいだろう.

(Sir M. Ewans 「アフガニスタンの歴史」,明石書店,P. 277)

 アフ【ガ】ーニスタンでは,量を示す数字は必ずしも信用できるものではないが(現地での経験で,数字はたいてい誇張されて伝えられることを,私は学んだ),物理的損失の概算は出ていて,それらの数字は,破壊規模を推し量るのには参考になる.
 〔略〕
 アフ【ガ】ーニスタンの1979年の人口調査は,戦前の人口を1305万人だったとしているが,遊牧民の数を考慮に入れれば,実際の人口はそれより少し多めの数字(1500〜1700万人)が妥当だろうという意見も多い.
 ノール・アハマド・ハリディによると,総人口の7%に当たる87万6825人が,戦争勃発後の最初の10年間(1978-87年)で犠牲になった.※4
 マレク・スリウィンスキイは,同時期に関してもっと高い数字を出している.戦前人口の9%,125万人が亡くなったとしている.※5
 シディエク・ノルゾイの算出した数字はさらに高く,同時期の戦争による犠牲者を171万人としている.※6
 ※4 Noor Ahmed Khalidi "Afghanistan: Demographic Consequences of War, 1978-1987," Central Asian Survey 10, no.3, 1991, 106.
 ※5 Marek Sliwinski "Afghanistan: The Decimation of a People," Orbis 33, no.1, 1989, 39-56
 ※6 M. Siddieq Noorzoy, "Some Observations on and Assessment of the Pupulation Losses in Afghanistan," WUFA, Journal of the Writers Union of Free Afghanistan 3, no. 3, 1988, 6-14

(Assistant Professor L. P. Goodson 「アフガニスタン 終わりなき争乱の国」,
原書房,'01,P.148-149,抜粋)


 【質問】
 戦争で不具になった人々は,どんな扱いを受けるか?

 【回答】
 一般に,可能な限り大事にされている模様.

「イスラーム世界では盲目者は特別な尊敬を受け,導師になる人が多い.盲目者は心で世界を見ていると考える.
 片腕,片足のハンディキャップを持った人々についても,五体満足な人間より心が占める要素が大きく,神の教えを守る人々であると考えよ,と教育される」

(甲斐大策 「アジア回廊」,石風社,1996/11/30, P.78)


 【質問】
 東郷隆氏ってたしかコンバットマガジン誌の編集者だった当時,ソ連が介入してたアフガンでカラシニコフで撃たれてませんでしたか?

 【回答】
 あの人,アフガンに入ってません.
 パキスタン側国境で撃たれて,中止にしてます.
 撮影した写真は全部パキスタン側のモノです.

 帰国後,アフガン入国した事になってテレビに出たりしてましたが,友人の口から漏れてばれ,wwpをやめてます.
 ずいぶん昔の話だね.

自営業 in 軍事板


 【質問】
 以下のような主張があるが,中国がアフガーニスタン共産政権を支援していたら,カルマルはムジャヒディンを負かすことが可能だったか?

 ベトナム戦争におけるアメリカの敗北の理由を考える場合,ベトナム人民の民族的・主体的な対米抵抗力の存在を別にすれば,そこには中国とソビエトのベトナム支援があった.
 〔略〕
 もしも中国が名実共にアフガニスタン革命を支持し,中ソが同盟関係にあったならば,状況は違った展開になったかもしれない.

 1975年,中国はベトナム戦争後,社会主義を目指すアンゴラ解放人民運動(MPLA)ドスサントス政権に敵対する勢力(UNITA=アンゴラ全面独立同盟)を,アメリカ,南アと共に援助した.
 中国のUNITAへの援助は,大きなものでなかったと思われる.しかしこの時期,中国の援助はアフリカの民族解放運動に負の影響を与えたのである.
 続いて中国政府は1976年7月,カンボジアにおけるポル・ポト政権の成立を支援した.
 また1979年2月,ベトナム領を攻撃し,侵入した.

 これら一連の中国の国際的活動は,アメリカ帝国主義その他を利するものであった.
 このような中国の党・政府の対外活動を規定する基本方針は,既に述べた毛沢東・ケ小平の「3つの世界論」である.
 このような覇権主義が繰り出す無原則かつプラグマティックな力の行使は,世界社会主義の歴史にとって,恥ずべき汚点の一つであったと言わざるをえない.
 アフガン革命へのソ連支援に敵対するばかりか,中国の誤った路線と政策は,自らを含む社会主義世界体制の崩壊に対しても,その責任の大きなウェイトを占めている.その責任は幾重にも重い.

(佐々木辰夫著「アフガニスタン四月革命」,スペース伽耶,2005/10/15,p.182-183)

 【回答】
 中国の支援を得たとしても,カルマル政権維持は困難だったと言わざるをえない.
 世界中のゲリラ達からゲリラ戦のバイブルとして読まれているチェ=ゲバラの『ゲリラ戦争』 (今は亡き北部同盟の英雄マスード将軍も愛読していた)の内容に照らせば,ムジャヒッディーンが勝利した理由がよく分かる.

 1.地元住民の積極的な支持と献身的協力.
 2.逃亡,休養,訓練,再編成などを安全に行う後背地(聖域).
 3.兵器や物資の安定供給を約束してくれる支援国家.

 カルマル政権崩壊当時のムジャヒッディーンはこれを完全に満たしている.
 これでは,例え中国の支援があったとしても,カルマル政権の寿命が多少延びただけで終わっただろう.

 ヴェトナムを持ち出すのであれば,カルマルと旧南ヴェトナムの腐敗政権の状況との酷似ぶりを,佐々木はまず見るべきである.
 そして,「革命自体は正しかった」などという,初めに結論ありきの態度では,およそ正しい考察は望むべくもないことを知るべきである.


 【質問】
 カーブル政府軍の兵力は?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,1978年時点で公称11万人,実数,約8万人.
 しかし1980年末までには2万人程度に減少.
 1988年までには,最大戦力3万5千〜4万人で,脱走,除隊,死傷などで年に1万人を失っていたという.
 脱走は後を絶たず,徴募された兵員の半数は機会があれば脱走するだろうと見られ,カーブル政府は徴募兵が脱走しないよう,故郷から離れた土地に派遣し,また,駐屯地の周りには地雷を数多く設置して脱走を防いだという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.139を参照されたし.


 【質問】
 カーブル政府の兵役制度は?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,当初3年の徴兵制.
 1984年3月にはこれが4年に延長され,これがもとで反乱が起きたという.
 徴兵は年齢や兵役経験とは関係なく強制的に行われたが,カーブル政府が人員を集めることができた地域は,都市部の他,ムジャヒッディーンを一掃した地域に限られていたという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.139を参照されたし.


 【質問】
 カーブル政府軍の編制は?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,各師団は地域後との司令部となり,国防省に従属している担当部門の地上軍の全てを指揮していたという.
 カーブル政府の歩兵師団は書類上では3単位制――3個大隊から成る歩兵連隊3個,砲兵連隊1個,戦車大隊1個――だったが,実際は各師団の編成は変則的なものだったという.
 そして師団はたいてい兵員が足りず,弱体な連隊程度の規模でしかなかったという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.141-142を参照されたし.


 【質問】
 共産政府側には,ソ連軍以外の外国軍は存在したのか?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,キューバ人,東ドイツ人,ブルガリア人がいたという.
 それ以外の国籍の者については未確認だという.

 以下引用.

[quote]

 戦争の初期の段階では,民間・軍人合わせて100人以上のキューバ人アドバイザーがいた.
 しかし1984年から85年までに大多数が引き揚げた.
 また,1980年代初めには,東ドイツの警察アドバイザーが100人以上いた.
 はっきりした人数は不明だが,ブルガリア人も関係していた.
 いまだ確認はとれていないが,キューバ軍,エチオピア軍,ベトナム軍,南イエメン軍,シリア軍が,ソビエト軍と共に戦闘に就いていたという報告がある.

[/quote]
―――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.112

 【質問】
 「【ハ】ッド」とは?

 【回答】
 カルマル政権の秘密警察.
 詳細は,以下参照.

 ソビエト軍の占領下で着々進められている「ソビエト化」の中で重要な役割を果たしているのが,アフガニスタンの秘密警察「ハッド」である.
 ハッド(KHAD)とは「国家情報機関(Khedamati-i-Etalaati-Bolati)の略語で,ソビエトの秘密警察である国家保安委員会(KGB)に対応する組織だ.
 〔略〕 今アフガニスタンを訪れる外国人は,カブール空港に到着したその瞬間からこの国を離れる瞬間まで一刻の休止もなくハッドの監視下に置かれているはずである.
 空港の出入国管理や税関にも当然ハッドの要員が詰めており,出入国者が外国人であれば特別厳しく目を光らせる.
 〔略〕
 あまりの検査のしつっこさに,回りで見守っていた税官吏たちや,私を迎えに来たバフタル国営通信の記者が,
「この日本人はテレビ委員会が身元を保証してやってきた人だから,もういい加減にしたらどうか」
ととりなしてくれたが,彼は頑として聞き入れなかった.
 それが自分の最も重要な任務だといわんばかりに書類や本の中身を調べた.
 日本の新聞のスクラップを取り上げ,どんな内容が書かれているか訳してみろと要求さえした.

 ホテルのロビーに張って私の行動を見守っていた中年の男は,自分がハッドの要員であることを隠しもせず,ホテルを出入りする私に対してそのたびごとに執拗に行き先を尋ねた.
 ときには出かける私のタクシーに乗り込んで,訪問先の日本人大使館までついてくる厚かましさである.
 この男は24時間ホテルに寝泊りしており,要するに今や数少なくなった外国人宿泊客の監視が役目である.

 〔略〕
 1978年4月のクーデターでダウード政権を倒して社会主義路線をとったタラキ政権は,〔略〕支配政党内部のハルク派とパルチャム派の内部抗争を抱えていたが,ハルク派のタラキ革命評議会議長らは反対派指導者を追い落とすために自ら組織した秘密警察「アクサ」を利用した.
 反対派であるパルチャム派は国内の軍隊に強い支持基盤を持っていたとされ,タラキ議長としてはこれに対抗するのに秘密警察の手を借りるほかなかったのである.
 タラキ政権発足後間もなく,旧王族や多数のテクノクラートが「アクサ」の手で逮捕された.
 前政権時代に高い地位にいたという,ただそれだけの理由で刑務所に入れられたのだが,そのうちに現政権内部のパルチャム派の幹部も次々に投獄され始めた.
 1979年3月,アムネスティ・インタナショナル(政治犯の釈放など人権擁護活動を行っている国際救援組織でロンドンに本部を持つ)がアフガニスタンで現地調査したところによると,当時カブールのプレ・シャルキ刑務所に政治犯だけで少なくとも1万2000人いたという.

 79年9月,突然の政権交代でタラキの後継者となったアミン大統領兼革命評議会議長は,まず第一に「アクサ」の組織を改編して新しい秘密警察組織「カム」を作った.
 すでにタラキ時代にハルク派の陰の実力者であったアミン(革命評議会副議長・副首相・人民民主党中央委員会書記)は,ゲリラ対策については,タラキを上回る強硬派として知られていたが,政権の座につくとパルチャム派の粛清を続ける一方で,反政府ゲリラの弾圧に一段と力を入れ始めた.
 このため新しい秘密警察「カム」を強化する必要があり,「カム」長官に従兄弟で女婿にあたるアセドゥラー・アミンをあてるなど,主要ポストを一族と友人で占めた.

 カルマル現政権下の「ハッド」はこうした「アクサ」や「カム」の流れを汲むものだが,2つの組織と違う特徴はソビエト,特にKGBの直接の指導を受けている点である.

 カブールの消息筋によると,ソビエトは軍事介入後1ヵ月して早くもアフガニスタンに派遣したKGBが中心になって,ハッドの組織強化に乗り出した.
 このためハッドに特別資金を投じ,東ドイツの情報機関の専門家たちをカブールの警察学校の指導官に任命する一方,ハッドの将校らをソビエト,ブルガリア,チェコスロバキアに送って訓練した.
 ハッドの調査機関にはソビエト製の嘘発見器が提供されたり,KGB第3局と同じような防諜専門の特別局が,ハッドの中に設けられた.
 1983年現在(米国務省報告『アフガニスタン.占領4年』 1983年12月,特別報告第112号),ハッドの要員は1万5000〜2万人で,このほかカブール大学,外国貿易機関はじめ多くの機関や施設に置かれている情報提供者を含めると,ハッド関係者は正式要員の数倍の数にのぼるものと見られている.
 首都カブールは182の行政ブロックに分けられ,それぞれのブロックに100人以上の情報員を置いてハッドのネットワークを張り巡らしている.

 ハッドは法政上はアフガニスタンの閣僚会議,つまり政府機関の一つだが,実際にはカブールのソビエト大使館にいるKGB事務所に全て報告を行うことになっている.
 ハッドの本部はカブール市内の軍クラブの裏側にあり,57人のソビエト人顧問が常駐している.
 カブール以外にもアサダバード,ジャララバード,ホストにハッドの支部が置かれ,地方のゲリラ勢力の動静や難民の動きを追っている.

 アフガニスタンの「ソビエト化」に果たすハッドの役割のおもなものは,介入後大学,専門学校,小中学校など教育機関で義務付けられるようになったとみられている思想教育,政府軍における政治教育,それに地方の人民民主党員に対するロシア語教育などである.
 例えば1981年9月,人民民主党員の子弟や戦争孤児を対象にした特別教育施設が造られた.
 これらの子供たちは7歳から基礎的な政治教育を受け,さらにソビエト国内に送られて実習を定期的に受ける.
 ハッドとその背後にいるソビエトは,こうした教育部門の活動を重視しており,ハッドの長官であるナジブ博士自らこの部門の指揮を取っている.

 1982年からは,ハッドによって10代の青少年を民警(治安警察)的な組織に編入する動きが進められている.
 私自身,この青年民警隊が深夜のカブール市内の武装パトロールを行っているのを取材したことがあるが,彼らは政府軍の兵士や一般の警察官と比べると政治意識が高く訓練も良く受けているため,治安維持の上でははるかに信頼度が高いようであった.
 ハッドの青少年教育の狙いの一つは,これらの若い世代をイスラムの伝統に包まれたアフガニスタンの民族的な環境から引き離し,マルクス・レーニン主義的で親ソ的な世代に変えていくことであり,長期的に見ればこれこそアフガニスタンの「ソビエト化」,ソビエトの勢力圏への組み入れの最も有効な手段であると言えよう.

 ハッドはもちろん秘密警察としての本来の任務も持っている.
 ソビエトのKGBと同様未だに国民の間に人気がないどころか,いつゲリラに狙撃されるか分からないカルマル議長ら,カブールの指導者たちの身辺警護,反政府ゲリラに情報員を潜入させての情報収集,政府軍や党,政府組織内部の情勢把握,さらにカルマル政権にとって頭の痛い宗教(イスラム)対策や民族対策などである.
 しかし前掲の米国務省報告(1983年12月)は,これまでのところKGBの懸命の梃入れにもかかわらず,ハッドの作戦の成果は十分にあがっていないという.
 その理由の一つは,ハッド内部にも依然存在するパルチャム派とハルク派の分裂である.
 両派の対立がハッド内部に疑心暗鬼を生み,反政府勢力側に情報が漏れるケースが続出している.
 ハッド内部でも優勢なパルチャム派はしばしば反政府勢力に情報を流して,ハルク派幹部を暗殺させているといわれる.

飯田健一著『アフガニスタンはいま』(日本放送出版協会,1984.5.20),p.52-56

 なお,デビッド・イスビーによれば,KHADは後にWAD(国家安全省)と改名,ナジブッラー政権時代には親ハルク派の警察や一部の陸軍部隊とによる暴力行為がはびこっていたため,1986〜98年にかけて再び党内部でいざこざが起こる原因を作ったという.
 また,WADは不正規軍も担当しており,1986年以降は軍部に対する支配が強まったという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.147を参照されたし.


 【質問】
 共産政府軍の不正規部隊について教えられたし.

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,1988年においては5〜10万人.
 カブールとの経済的絡みや,近隣諸族や,ムジャヒッディーンとは不仲のパシュトゥン人部族が,その構成員.
 また,政府管轄の工場や集団農場では,PDPA支持者や傭兵から成る独自の民兵を擁していたという.
 買収や指導者への不満からムジャヒッディーンから寝返った民兵は,共産政府軍よりも恐れられる,最も戦闘能力のある存在だったが,全体的に見れば,金だけ受け取って何もしなかったり,ゲリラを支援する民兵のほうが多かったという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.154 & 156を参照されたし.


 【質問】
 「ギラム・ジャム」とは?

 【回答】
 ジョージアン州出身のウズベク人とトルクメン人の傭兵への蔑称.共産党政府側で闘い,軍規が乱れているため恐れられた.
 以下引用.

――――――
 彼らは北部のジョージアン州出身のウズベク人とトルクメン人で,いたるところで盗賊として恐れられながら,戦争の間じゅう共産党政権を支援していた.
 〔略〕
 逃亡によって兵卒が激減したせいで,アフガニスタン軍は空港やダムやトンネル,砦や橋といった戦略上重要な地点を守るため,戦闘に強いジョージアン人を必要とした.
 彼らは,強奪し,レイプし,人を殺す権利を得るためだけに闘う傭兵なのだ.
 一般のアフガニスタン人はジョージアン人のことを「ギラム・ジャム」と呼んだ.その言葉は北部では,賭け事で身代をつぶし,カーペットさえ失ったウズベク人の軍閥を指した.南部では,「絨毯泥棒」という意味の,ウズベク人のために用意されたあだ名だ.

――――――「『私を忘れないで』とムスリムの友は言った」(C. Kremmer著,東洋書林,2006/8/10),p.36

 侵攻軍が,少数民族の傭兵を使うのは,戦争ではしばしば見られる現象.
 彼らは多数民族が支配する政府に不満を持っていることが多く,侵攻軍の側で高い忠誠心を期待できる.


 【質問】
 「サランドイ」とは?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,国防省管轄外の不正規軍で最大のもの.
 親ハルク派が支配する内務省の管轄下にあったが,ナジブッラー政権時代には親パルチャム派のWADが,その作戦をしばしば指揮したという.
 サランドイは旧憲兵隊を引き継ぎ,徴兵制で,標準的な歩兵兵器および歩兵支援兵器を装備していたという.
 1985〜86年は主にカーブル防衛に当たっていたが,1987年には,各省により多くの兵力を展開するようになったという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.147-148を参照されたし.


 【質問】
 PDPA自身に武装組織はあったのか?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,「革命防衛団」と「民主青年団」というものがあったという.
 前者はPDPAの援助によって結成された民兵であり,ハルク,パルチャミ両派の青年たちが参加.
 質にはばらつきがあり,士気は政府軍よりもさらに低かったが,共産党政府の影響を最も強く受けていたために,大量の死傷者を出したという.
 後者は殆どがパルチャミ派から成り,1987年のジャッジ大攻勢に加わったという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.158を参照されたし.


 【質問】
 カルマル政権時代,報道管制はあったのか?

 【回答】
 官僚的硬直性が見られるものの,かなり徹底したものが外国報道関係者に対してあったという.
 以下引用.

 〔略〕
 外国報道関係者に対する扱いもソビエト流が徹底してきた.
 カブールに一歩,足を踏み入れると,その瞬間から外国報道関係者の受け入れ機関として一元的に責任を持つことになったらしい国営バフタル通信の監視下に置かれる.
 ちょうどソビエトの場合,国営タス通信と並んでもう一つノーボスチ通信という通信社が存在し,こちらが外国報道関係者の取材協力機関になっているのに似ている.
 バフタル通信の記者と称する男が,カブール空港到着以後この国を出国するまでの1ヵ月間,私に絶えず付き添う監視役となった.
 記者であるはずなのに国際情勢はもちろん,マスコミ関係者が当然持つはずの知識,関心を全く持ち合わせていない様子だった.

 検閲のシステムも厳しくなった.
 私の要望リストの中から念入りに選び抜いて撮影を許可したはずなのに,撮影が済むと検閲官が一本一本のビデオ・カセットをチェックし,細かな撮影リストを作成した.
 リストはテレビ委員会の幹部と情報省に送られ,問題の個所が見つかると,再度チェックが行われた.
 政府軍の訓練風景がカットされた.
 私達が撮影したものではないが,カブール・テレビがニュース番組で放映した山岳地帯でのゲリラ狩りのシーンを,私のカセットに録画してあったが,これもカットされた.
 要するに私の取材カセットから軍事色のあるものはできるだけ抜き取ろうというわけである.
 「アフガニスタンは正常化し,平穏である」と印象付けるのに,軍事訓練や戦闘の場面は不要なのだ.
 〔略〕

飯田健一著『アフガニスタンはいま』(日本放送出版協会,1984.5.20),p.23-24


 【質問】
 阿片に対する共産政府の姿勢は?

 【回答】
 デビッド・イスビーによれば,政府は阿片の栽培・販売を奨励し,民兵に行わせたという.
 一方,ムジャヒッディーンの側では宗教的理由から,大規模には行われなかったという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.156を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1980年の戦況は?

 【回答】
 ソ連軍とカーブル政府軍は,
2,3,5,9,11月にクナール峡谷,
3月にパクティア,
4,9,10月にパンシール峡谷,
5〜6月にガズニ,
6月にカーブル近郊,
7〜8月にバーミヤン,
11月にワルダク省
などで攻勢をかけたが,大量の死傷者を出し,多くは農業を壊滅させただけに終わった.
 ガズニ,ワルダクではゲリラ一掃には成功した.
 パクティア戦では政府軍第7師団は大量の脱走者を出して敗北した.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.38-41を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1981年の戦況は?

 【回答】
 前年の教訓から,ソ連軍は空爆を定期的・集中的に行うようになったが,地上攻撃の結果は不満足なものだった.
 4月のロガール攻撃ではゲリラに敗北.
 4,9月にはパンシール,
6〜7月にはナングラハールのトラ・ボラ,
7月にはカーブル北部のパグマン,
10月にはカンダハールを,ソ連軍と政府軍は攻撃したが,不首尾に終わった.
 トラ・ボラとカンダハールでは人口が激減し,農業も壊滅した.
 この間,カーブル〜ガルデズ間の人口を減らす作戦も,1982年まで行われた.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.41-45を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1982年の戦況は?

 【回答】
 1月には,パルワンにおいて,ソ連軍はヘリボーンを併用した大規模な地上掃討作戦を行い,レジスタンスを包囲してほぼ全滅させた.
 カンダハール近郊とヘラートでも同様の攻撃が行われた.
 4月のパクティア攻撃では,初めてレジスタンス各グループが共同して戦い,政府軍1個師団を壊滅させた.
 同月にはファラー省丘陵地帯,マザーリ・シャリフにもソ連軍の攻撃があった.
 4,5,9月にはパンシールを攻撃,これは同紛争中,最大の攻勢だった.
 この戦いでは,マスード部隊の兵員は1割失われただけで攻撃は失敗した.
 5月にはカーブル北部のゴルバンド谷でムジャヒディンの反撃があり,政府軍は敗れた.
 一方,ガズニ周辺をソ連軍は攻撃した.
 6,10月にはパグマンを攻撃して,同地をほぼ無人の荒野に変えた.
 10月,サラン峠トンネルの爆発事故があったが,これは偶発事故と見られている.
 11月にはカーブル東部のラグマン谷でムジャヒディンの反撃があり,政府軍は敗れた.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.43-45を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1983年の戦況は?

 【回答】
 ソ連軍は,重要な地域の人口を減らすため,村村を空襲し,ヘリコプターによる攻撃と地上からの攻撃の組み合わせを多用するようになった.
 一方,ムジャヒディン側の待ち伏せ攻撃も,武器支援増加により増えた.
 1月のロガール攻撃では,ソ連軍は大きな成果を上げた.
 3月,カーブル政府はマスードと休戦協定を結んだ.
 同月,カンダハールをソ連軍・政府軍は攻撃したが,4月にはムジャヒディンに同市は占領され,ソ連軍は反撃を行った.
 春と夏には,パクティア省・パクティカ省に対してムジャヒディンは攻撃をかけ,ジャッジやコーストで政府軍に対して勝利した.
 6月,ガズニをソ連軍・政府軍は攻撃したが,成果は上がらなかった.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.45-47を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1984年の戦況は?

 【回答】
 ソ連軍による空爆は,これまで以上に集中的になった.
 1月には,空挺特殊部隊を積極活用することで,ソ連軍はウルグンを占領した.
 3月,ムジャヒディンはサラン・ハイウェイで大規模な待ち伏せ攻撃をかけることに成功した.
 4月,ソ連軍は第7次パンシール攻勢をかけたが,大した成果は上がらなかった.
 6月,ヘラートとカンダハール近郊でソ連軍は,道路破壊を目的とした攻撃を開始.
 7〜8月,ソ連軍はロガールとショマリ谷を掃討.ヘラート近郊でも戦闘再開.
 8〜10月,ソ連軍は,包囲下にあったパクティア省のアリ・ケール砦を救援.
 同年後半にはパグマンでもソ連軍は攻勢.
 同時期,マザーリ・シャリフ一帯の主要指揮官ザビオラーの死亡により,マスードの影響力は拡大した.
 8月,カーブル〜サルビ・ダム間の送電線をムジャヒディンは破壊.
 9月,第8次パンシール攻勢.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.47-53 & 60を参照されたし.


 【質問】
 パンシール第7次攻勢とは?

 【回答】
 1984/4/21から始まった,パンシール峡谷での戦い.
 ソ連軍の攻撃準備態勢を知ったマスードの先制攻撃により,火蓋が切られた.
 これに対し,ソ連軍は兵力2万を投入.その殆どが,第104空挺親衛連隊等の空挺部隊だった.
 カーブル政府軍も6000人が投入されたが,少年兵や老兵ばかりで役に立たなかった.
 政府軍最強とされていた第38コマンド旅団は,前年に露払い役をさせられたことへの不満から,数百人の脱走兵を出した.
 マスード暗殺も試みられたが,パンシール側の二重スパイにより,暗殺チーム23名は逮捕された.

 ソ連軍は,ヘリコプターで空挺部隊を主力前方に投入する「ストップ・グループ」戦術を繰り返し用い,ハンマーと金床作戦を実行したが,準備したような決戦にマスードを引きずり込むことはできなかった.
 幅が狭く曲がりくねった谷にヘリコプターや装甲車を進攻させることは不可能だった.
 ゲリラは,周囲の山々から攻撃しては退却するという戦法を繰り返した.
 期待した戦果を上げられないまま,いくつかの谷の砦に守備兵を残置して,共産軍は6月末に撤退を開始した.
 それらの砦では,1987年の陥落まで戦闘が続いたという.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.48-51を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1985年の戦況は?

 【回答】
 ソ連軍は砲兵と航空機を使い,人口削減作戦を続けた.
 ムジャヒディンは輸送妨害を数多く繰り返した.
 ソ連側もパキスタンからムジャヒディンへの物資の流れを分断する戦術も試みた.
 1〜2月,クナールにおいて政府軍は,包囲されていたバリコート要塞の救援を試みたが失敗.
 5〜6月,再度のバリコート救援作戦を政府軍は行い,今度は成功した.
 夏には共産軍はヘラート,ロガール谷を共産軍は攻撃.ロガールでは特殊部隊が多用され,住民が大量虐殺された.
 ラグマンやヘルマンド谷へも,農業壊滅を狙って共産軍は攻撃をかけた.
 ヘルマンド・ダムでは,ムジャヒディンの攻撃に対してソ連軍は特殊部隊を投入して空陸両方から反撃し,レジスタンス側は大量の死傷者を出した.
 パンシールでは空挺部隊により第9次攻勢が行われたが,マスードは峡谷上流を掌握し続けた.
 パクティア省のアリ・ケール,コースト両要塞は夏の間,ハッカニを指揮官とするムジャヒディンの攻撃に晒された.
 共産軍の反撃は,アリ・ケールを救援できたに過ぎなかった.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.55-60を参照されたし.


 【質問】
 第2次クナール大攻勢の共産側参加兵力は?

 【回答】
 1万人以上.

 共産政府軍の第9,第11歩兵部隊(師団?)
 第73,38特殊戦旅団.
 および2個歩兵連隊,1個国境警備旅団,義勇兵.

 ソ連軍は航空兵力,および1個自動車化狙撃部隊,旅団もしくは連隊規模の空挺部隊1個,スペツナズ大隊少なくとも1個以上.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.54を参照されたし.


 【質問】
 第2次クナール大攻勢の目標は?

 【回答】
 第1次攻勢同様,ジャララバード〜チャガ・サライ間を開通させ,側面に哨所を設置し,レジスタンスの補給ルートを閉鎖すること.
 また,ペク・ダラ,アスマール,バリコート一帯のレジスタンス拠点を破壊して,バリコートを救援すること.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.54を参照されたし.


 【質問】
 第2次クナール大攻勢の戦闘結果は?

 【回答】
 1985/5/23夜明け前に戦闘開始.
 ジャララバード〜チャガ・サライ間の高速道路を確保し,チャガ・サライに到達.
 その後,カブール政府軍に任せてソ連軍は前哨地点から撤収.

 次に,ペク・ダラ方面,アスマール方面へ攻撃.
 しかし空爆が結果的にはレジスタンス側に増援を呼び寄せる時間を与えることになったため,ペク・ダラ強襲は頓挫.
 先遣部隊のソ連空挺軍はレジスタンスと激戦を展開し,死傷者多数を出して撤退.
 主隊はナライ一帯で激戦.
 スペツナズはレジスタンス領域深奥部に投入され,義勇兵が側面を掩護.

 一方,レジスタンスはバリコートを包囲しつつ,小グループで補給部隊を攻撃したり,敵陣夜襲を繰り返した.
 共産軍は包囲するゲリラに大規模空爆を行うと共に,ヘリボーンで谷を下る包囲陣突破攻撃をかけ,両軍死傷者多数.

 6月中旬には弾薬欠乏により,レジスタンスは撤退したが,ソ連軍が同地域から引き揚げると,再びバリコートとアスマールを手中に収めた.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.54-56を参照されたし.


 【質問】
 1985/8/21からの第2次パクティア大攻勢の目的は?

 【回答】
 (1) アズラ,ジャッジ,チャムカーニ,コースト周辺にあるムジャヒディンの要塞を孤立させ,壊滅させること.
 (2) パクティア省アリ・ケールの包囲攻撃の支援
 (3) 潜入・補給ルート遮断
 (4) コーストの包囲を解き,封鎖された道路を打通すること

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.57を参照されたし.


 【質問】
 第2次パクティア大攻勢の共産軍側兵力は?

 【回答】
 1万5千人以上.

カブール政府
 軍第3軍団(第11,12,25師団)
 第7,第8師団の各連隊
 第1,2,8国境警備旅団の各分隊(分遣隊のことか?)
 第203偵察大隊
 第37,38,466特殊戦旅団
 義勇兵部隊

ソ連軍
 2〜3個連隊(自動車化狙撃兵または空挺)

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.57を参照されたし.


 【質問】
 第2次パクティア大攻勢の戦闘結果は?

 【回答】
 カブール〜ロガール,ヒスラック,カグローニ,ワシリーアズラに大規模空爆・砲撃をかけ,しかる後に諸兵連合部隊が同時攻撃をかけた.
 クルド・カブール,ロガール,アズラでは住民虐殺が行われた.

 アズラ方面では戦闘は5日間続いたが,レジスタンスはソビエトの非常線を突破できず,援軍を送れなかった.
 数多くの村を壊滅させ,レジスタンスの多くを分散させ,アリ・ケール砦を立て直した後,共産軍はヘリで撤退.

 ジャッジ,チャムカーニ方面では,パキスタン国境に近いため,戦闘の間中レジスタンスは増加し続け,ソ連軍の進撃は阻止され,9/10にガルデズまで退却.
 アズラ周辺の部隊も同時に撤退.

 コースト方面にも空中機動で展開したが,ザワールから1000mの距離まで達したところで,9/11退却.

 9月末までには目的未達成のまま攻撃は終了した.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.57-59を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1986年の戦況は?

 【回答】
 ソ連はパシュトゥン族を煽動しようとしたが,パキスタンの政治圧力を強めるだけに終わる.
 共産軍はザワールからパキスタン国境方面に進んだが,軍事的勝利にも関わらず損害も大きく,ゴルバチョフをして外交的解決を図るきっかけとなった.
 北部ではマザーリ・シャリフを分断.
 1月にはナイザン谷攻撃をカブール政府軍は行ったが,失敗.
 クンドゥス=ファイザバード高速道路に沿ったソ連軍の進撃は,3月には阻止さる.
 8月にはロガール谷をソ連軍は攻撃したが,ムジャヒディンの防空網に苦戦.
 9月26日のナンガルハール省での戦闘では,ソ連軍ヘリ4機編隊の内,3機が,スティンガー・ミサイルで撃墜さる.
 以後,ソ連軍機の損害は増大.
 11月にはソ連軍第66自動車化狙撃兵旅団がファリャブ省攻撃を行った.

 ムジャヒディン側では,マスードが120人規模の機動部隊を幾つか展開し,バグラム空港,サラン・ハイウェイを襲撃した他,ファカールの政府軍要塞を奪取.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.60-67を参照されたし.


 【質問】
 1987/5/22から始まったアーガンダブ戦における共産軍側兵力は?

 【回答】
カブール政府軍
 6000人.
 第15師団からの支隊
 増強された第7戦車旅団
 義勇兵

ソ連軍第70自動車化狙撃兵旅団

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.64を参照されたし.


 【質問】
 アーガンダブ戦の戦闘結果は?

 【回答】
 カンダハールから10kmの距離にあるアーカンタブのレジスタンス側要塞に対し,おきまりの空爆・砲撃に続いて,5/22から攻撃が始まったが,すぐに激しい反撃を受けた.
 ムジャヒディンはアーカンタブ近郊に退避壕を数多く作っていたためだ.
 共産軍のヘリがスティンガー・ミサイルによって撃墜されることが多くなったため,空からの掩護は制限されるようになり,政府軍の士気を挫いた.
 政府軍の内1200人以上が,武器を持ったままムジャヒディン側についた.
 6月末までには攻撃は立ち消えになり,共産軍側損害は軍用機5〜16,戦闘車両30以上,死傷者500人以上に上った.
 ムジャヒディン側損害はそれ以下だった.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.63-66を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1987年の戦況は?

 【回答】
 ナジブッラーは和解促進のため,一方的停戦を宣言.
 しかしムジャヒディン側には対して受け入れられなかった.
 一方,ソ連軍機による国境攻撃は続けられた.
 4月,バグランのムジャヒディン基地を攻撃.
 しかし同地域に置かれた政府軍前哨拠点の大半は,1ヵ月後には奪取さる.
 5〜6月のアーカンダブ戦では激戦の後,政府軍は崩壊.
 バグラム空軍基地ではアフガーン人パイロットの暴動が発生.
 パクティア省ジャッジ地区への攻撃,カブール西方マイダン地区へのソ連軍による攻撃も失敗.
 その後,ソ連軍は孤立した大隊や小拠点を撤退させて大きな陣地地域に集結させ,残りは政府軍に任せることにした.
 年末,コースト救援のため大攻勢.

 ムジャヒディン側は3月,ソ連軍に対して何度か越境攻撃.
 これはクンドウズ省とタハール省へのソ連軍の報復攻撃へ繋がり,一般市民に死傷者多数.
 6月,カーブル〜ジャララバード間の幹線道路を遮断.
 10〜11月にかけてクナール谷,コーストにて攻撃.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.67-77を参照されたし.


 【質問】
 ジャッジ大攻勢とは?

 【回答】
 1987/5/20から始まった,パクティア省ジャッジ地区への攻撃.
 アリ・シェール要塞を救援することで,ムジャヒディンのルートを封鎖し,監視ポストを主要な高地に設置することを最終目標とした.
 しかし,国境に近付くにつれてムジャヒディンの反撃は増大,アフ【ガ】ーニスタン紛争でも最大級のムジャヒディンの集結となった.
 パクティアのムジャヒディンにはスティンガーやブロウパイプ・ミサイル相当数が配備されており,ソ連軍は空爆よりも火力に頼らざるを得なかった.
 スティンガーの射界の下に入ろうとしたヘリは,重機関銃やRPG-7の砲火を浴びることになり,結果的には損害はより多くなった.
 そのため,ソ連軍特殊部隊は戦術機動にヘリを使えず,前進するために高地でアフガーン人と戦うことを余儀なくされた.
 政府軍兵士の多くが寝返り,ソ連軍は前進できなかったためにムジャヒディンとの間に停戦を結び,攻撃開始24日後にソ連軍は退却した.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.68-69を参照されたし.


 【質問】
 カラフガーン攻撃とは?

 【回答】
 1987/7/14,アフ【ガ】ーニスタン北部タハール省カラフガーンで,マスード部隊によって行われた,政府軍要塞への攻撃.
 マスードは同要塞を詳しく偵察し,政治的根回しを行い,15日かけて十分に軍事的な準備をした上で攻撃を実行した.
 要塞の方でも密告者などから情報を得ていたが,いつもの小規模な攻撃だろうとたかをくくっていた.

 午後5時,107mmロケット砲の集中砲撃により,政府軍の重火器は制圧された.
 ソ連軍砲兵基地と要塞の間の道路には大量の地雷を仕掛け,伏兵を置いて,ソ連軍の救援行動に備えた.
 ムジャヒディン側の損害はほとんどないまま要塞は陥落.
 ムジャヒディンは日没後,鹵獲した兵站品や武器を全て運び出して戦場から引き揚げた.

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.72-74を参照されたし.


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンにおける1988年の戦況は?

 【回答】
 ジュネーブでの和平交渉が活発化し,政治のほうの動きが目立つようになった.

 ソ連軍による昨年末のコースト解放の影響は,数週間しか続かず.
 3月には共産軍は,パクティア省ウルグン砦を救援するための攻勢.
 4月,ソ連軍撤退準備のため,カンダハール〜ガズニ間の幹線道路を確保するため進攻.

 ムジャヒディン側では,北部ではマスードによる政府軍前哨拠点攻撃が続き,1月にはブルクア奪取.4月には政府軍の砦を奪取しながらパンシールに向かって進撃.
 北部クナールとパクティア省の駐屯地,アリ・ケール,チョウニ,チャムカニは陥落し,バリコートも4/22に政府軍が放棄.
 4〜6月にはコースト包囲を再開.
 10月までにはクナール谷およびパンシールを奪回.

 南部でも3月にカンダハールの西で,ヘラートへの幹線道路上の都市パンシュアイを奪取.ダルワズグイ,ザブール省アスグル,カンダハール近郊マルフなども陥落.
 6/18,カラト陥落.(その後,ムジャヒディンはこれを放棄)

 西部では,ソ連軍はヘラートおよびシンダンドの空港まで撤退.
 4/4,シンダンド近郊カキ・サフィドの政府軍要塞陥落.

 5月,ジャララバードのソ連軍はソ連本国への撤退開始.
 

 詳しくは,デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.77-85を参照されたし.


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