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◆◆地上戦
◆米軍侵攻以降
アフ【ガ】ーニスタンFAQ目次


 【質問】
 ソ連軍の二の舞になると考えられたアフガンの地上戦を,なぜアメリカは圧倒的な勝利で終わらせたの?
 俺はアメリカはベトナムのようにすぐ負けると思った.

 【回答】
 第1に,アメリカ軍が主体となって大量の兵力を送り込むのではなく,現地の反政府(当時)武装勢力の連合を支援する形にし,米軍は航空爆撃と特殊部隊を主体にし,地上軍は少数を送り込むに留めた.

 そもそもターリバーン政権は,その特異なイスラーム思想が支持されていたのではなく,買収や地縁・血縁等に拠って立っていたに過ぎないので,同じことを米軍や北部同盟が行えば,比較的容易に切り崩しが可能だった.
 マスードらがそれをできなかったのは,パキスタン諜報機関ISIやアル・カーイダに支援されて資金潤沢だった頃のターリバーンに比べ,単に資金貧弱だったからに過ぎない.


 第2に,既存政権を崩壊させた後に新政権を樹立させ,一応,傀儡政権のレベルを脱した新政権を発足させた.

 第3に,新政権発足後の国内治安の主体は現地の新政府軍を主力にし,米軍自体はあまり積極的に国内で活動しない.
(航空攻撃と特殊部隊による活動はまた別)

 そもそも米軍のアフ【ガ】ーンでの活動の主目的はビン・ラーディン捕獲にあり,治安維持任務については熱意がなかったばかりか,捕獲作戦の過程で軍閥軍に兵器を与え,DDR(武装解除プログラム)の障害となっていた,という側面もあるが.

 第4に,基本的にはアメちゃんがいろいろな意味で強くて,ソ連ができなかった空輸をバンバンできたので補給路切断無効.アフガンゲリラ涙目(笑)

 ただし,今もアフガンはあまり安定はしていない.
 新政権の統治がしっかりと及んでいるのは首都の周辺だけで,後は実質的に新政権に参加している各勢力の自治領化してるし,相変わらずテロも多い.
 現在はタリバンは,アヘン栽培解禁を謳って支配地域の人心をつなぎ留め地道なテロ活動をつづけてます.

モッティ ◆uSDglizB3o(黄文字)他 in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アフ【ガ】ーニスタンで米特殊部隊はどんな活動をしたのか?

 【回答】
 元グリーン・ベレーのマーク・Wによれば以下の通り.

 ・FOB(前方展開作戦)を徹底し,同国の内々に入り込んだ.
 FOBとは,現地に溶け込み,住民と密なコミュニケーションを取りながら,物心両面で彼らを支援して信頼を勝ち取るものであり,グリーン・ベレーが最も得意とするもの.
 ・ビン・ラーディン追跡とアル・カーイダ殲滅は,グリーン・ベレーがCIAと連携して行っている.現在は,グリーン・ベレーがUW(不正規戦)訓練を施した,アフガーン陸軍精鋭部隊が協力して任務に当たっている.
 ・デルタ・フォースやSEALsのような対テロ特殊部隊は,FOBが不得手なため,担当していない.
 ・バクティア州トラボラ地区での作戦は,反ターリバーン勢力を信頼しすぎたため,敵に情報が漏洩してビン・ラーディンや多数のアル・カーイダ兵の逃亡を許してしまった.
 ・その反省を活かし,同州ガルデス地区では少数精鋭のアフガーン人を起用し,300人以上のアル・カーイダ兵を掃討する事に成功した.その際DA(直接戦闘)を行ったのはデルタとSEALsだった.

 以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.52-53.
 ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.

アフ【ガ】ーニスタンの米特殊部隊員


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 【珍説】
 ブッシュの対アフガン・テロ戦争はチグハグ.
 その証拠に,ブッシュがアフガンに送り込んだ地上部隊は,NYの警官の数(約9000人)よりも少なかった.

(マイケル・ムーア「華氏911」,2004年)

 【事実】
 軍事に無知な人ならコロッと騙されてしまいそうなセリフですが,アフ【ガ】ーニスタン国内には大規模な軍事拠点も無ければ,クウェートやサウジアラビアの様な大兵力の展開に応じてくれる隣国もありませんでした.
 こんな状況で短期間に万単位の米軍地上部隊をアフ【ガ】ーン国内に送り込むのは,兵站的に極めて困難です.
 仮に無理をして兵員だけ多めにアフガンに送り込んでも,大規模な陸上・海上輸送ルートが無ければ,せっかくの大軍も補給不足で戦力を発揮できません.
 それどころか,充分な後方支援や補給を受けられないまま,対テロ戦争に米軍を向かわせていれば,米兵の損害を無意味に増やす結果にしかならなかったでしょう.

 「NYの警官より少ない云々」と言うのは,軍事的には全く意味の無いスリカエでしか無いのです.

軍事板


(画像掲示板より引用)


 【珍説】
 アフ【ガ】ーニスタンではアメリカはゲリラ戦に遭い,第2のヴェトナムと化す.

 【事実】
 世界中のゲリラ達からゲリラ戦のバイブルとして読まれているチェ=ゲバラの『ゲリラ戦争』 (今は亡き北部同盟の英雄マスード将軍も愛読していた)の内容に照らせば,2001年10月からの米軍・北部同盟軍の攻撃に,ターリバーンが敗北した理由がよく分かる.

 1.地元住民の積極的な支持と献身的協力.
 2.逃亡,休養,訓練,再編成などを安全に行う後背地(聖域).
 3.兵器や物資の安定供給を約束してくれる支援国家.

 1980年代にソ連軍と戦ったムジャヒディン達は,航空戦力など皆無だったが,上記3原則を完全に満たした結果,見事勝利した.
 21世紀にアメリカ軍と対決したターリバーンは僅かながらも航空戦力を保有していたが,上記3原則 を一つも満たせなかった結果,無様に敗北した.

 今回よく引き合いに出されたベトナム戦も全く同様.
 「第二のベトナム」などと安易に口にする輩を,もしボー・グエン・ザップが見たら失笑することだろう.
「我々がアメリカやフランスに勝利するためにどれだけの努力と根回しをしたか知らないのか」と.

 そして現状であるが,

1 ターリバーンはパキスタンからの越境攻撃に殆ど頼っており,また,最もターリバーン支持者の多い南部パシュトゥン人地域においても,基本的にはカルザイ政権支持であることから,2003年現在,積極的支持や献身的協力をターリバーンが受けられる可能性は低い.
 アフ【ガ】ーニスタン人の多くは,ターリバーンを外国人(パキスタン)勢力と見なしているという.
2においては,パキスタン過激原理主義勢力支配地域に一応の確保ができているようである.
3においては,パキスタン過激原理主義勢力のみの援助にターリバーンは頼っている.

 結論として,パキスタン次第ということが言える.

 また,ターリバーンが息を吹き返しているという情報もある.
 しかし,アル・カーイダが主戦場をイラクに移したことで,ターリバーンにとっては痛手となっている模様だ.

 息を吹き返したタリバンには,この1年で何百人もの元兵士が戻ってきているという.一度は故郷の村に帰ったものの,米軍とカルザイ政権に協力的な地方軍閥からひどく迫害されたからだと,タリバン筋は言う.
 アメリカの情報当局筋も同じ見方だ.
「抑圧的で親米派の軍閥は,戦士調達の最高の機関だ」
と言うのは,かつてタリバン政権に勤めていたラフマン・ホタキ.今はワジリスタンで活動するホタキによれば
「軍閥のおかげで,故郷でぬくぬくしていた元兵士たちが,一緒に戦うために戻ってきている」.

 アルカイダがイラクに行くのはタリバンにとって痛手だと,ホタキは認める.
「アルカイダの専門家,とくに爆発物や軍事技術に詳しい人間が必要だ.外国からの資金援助なしでは戦えない」
 だがタリバン側の情報を信じていいなら,もはやビンラディンは彼らへの同情を失っているようだ.
 宿敵ブッシュと同様,ビンラディンもまた,イラクを主戦場に選んだのだろうか.

サミ・ユサフザイ,ロン・モロー & マイケル・ハーシュ
ニューズウィーク日本版 2003年12月17日号 P.14

 残党掃討戦は2005年現在も続いており,司令官クラスの戦死も伝えられている.
 また,ターリバーンはアル・カーイダのように過激化して自爆テロに走っている.
 以下引用.

28 Suspected Rebels Killed in Afghanistan

 アフガニスタン南部の各地で戦闘があり,タリバンと思われる28人が死亡した.
 来月の重要な議会選挙を前に暴力が激しくなっている.

 国防省の声明によるとザブール州で14日,アフガン軍が過激派と思われるグループを攻撃し16人を殺害,1人を拘束した.
 死者には地元のタリバン指揮官Mullah Nasirが含まれる.

 これとは別に,多国籍軍・アフガン軍を狙った地雷を過激派が誤って起爆,過激派1人が死亡,1人が負傷した.

 同日,隣接するウルズガン州Dehrawud地区では,アフガン兵と過激派の銃撃戦で過激派5人が死亡した.
 州知事によると,隣りの地区TirinKotでは,警察が高速道路の検問所を攻撃したゲリラと思われる6人を追跡し殺害した.
 また,同地域の掃討で,過激派とされる9人が拘束された.

 何れの戦闘でも治安部隊に被害はなかった.(以下略)

(USY!ニュース/AP,2005/8/15)


 【質問】
 タロカンはなぜ陥落したのか?

 【回答】
 タロカンのターリバーン側司令官が空爆後,北部同盟側に寝返ったためという.
 以下引用.

「私はパキスタンのマドラサで学んでいた」
と,疲れたような甲高い声だった.
「そして,タリバンが結成されると,それに加わり,彼らと一緒に,溢れんばかりの純粋なイスラム精神でアフガニスタンにやってきた.
 当初,私達が抱いたこの精神は素晴らしいものだったが,最近になって,タリバン司令官の中には,私が疑問を感じ始めた者もいる」――彼は暗にビンラディンの外国人部隊のことを言っていた.――
「それから,アハマド・シャー・マスードが巡視し,外部からの干渉やテロリストがこの動きに関わっているのに私達は気付いた.
 だから,祖国のために北部同盟につくことを決めた」
 彼と部下の2人の指揮官――2人は同席していて,彼がそう言ったとき,私に頷いてみせた――と5,600人の戦士がタロカンに残り,ダウド〔北部同盟側司令官.タロカン再占拠を指揮〕に寝返った.
 タリバン残党はクンドゥズに退却した.
 シャビル・アハマドの話では,彼は町の安全を確保するために残留,自らダウドを訪ねて,タロカンに入る道は安全だと彼に告げた.
 それが北部同盟のタロカン奪回の顛末であった.

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.99-100


 【珍説】
 カーブルで大規模な市街戦が起こらなかったのは,市民に被害が及ばないようにと,ターリバーンが自主的に撤退したもの.

 【事実】
 ターリバーンの潰走であったことは,カーブルで取材していたジャーナリストが証言している.http://www.mvision-italy.com/report/afghan/afghan7.htm

 それは何故か?

 マスード暗殺直後,ターリバーンの部隊が北部同盟支配地に侵攻している.
 普通に考えれば主力部隊を最前線に出すのが普通.最前線以外には予備兵を置く.

 では最前線はどこか?
 最近のターリバーン側の攻勢はクンドゥス方面からの攻撃が多かった.
 故にクンドゥスとその後方のマザリシャリフに主力部隊を揃えていたと見る.
 米軍の空爆と,それに先立つ北部同盟の攻勢が始まってからは,わざわざ兵をいれかえる余裕は無かっただろう.道路を移動すれば,いい標的となって,それだけで壊滅する危険性が高いからである.
 故にターリバーンの主力部隊はこの北部部隊だったと推測される.
 そのため,主力部隊はマザリシャリフ陥落により孤立.
 カーブルには義勇兵や錬度の低い兵隊しか居なかったから,あっさり敗走した,ということであろう.

 要するに,ターリバーンの完全な戦略ミス.


 【珍説】
「ウズベキスタン側国境の町テルメズの西側政府関係者はマザリシャリフで10日夕,同市に進攻した北部同盟によって,ターリバーン側の600人以上の少年兵が処刑された,との情報を明らかにした.
 少年兵の多くは17〜18歳とみられるが,処刑の詳細は明らかでない.『兵士は若く,戦闘中ではなかった』という」
 このニュースから見ても,北部同盟の本性は明らか.

 【事実】
 少年兵という日本語訳が,まずおかしい.17〜18歳は,兵士としても適齢.実際,原報告じゃ「若い兵士」程度の意味だ.

 また,北部同盟側の発表および続報では,「戦闘による死亡」とされている.

http://www.sankei.co.jp/html/1115side057.html
 【ニューヨーク14日=共同】十四日付の米週刊誌タイム(電子版)の十四日付の電子版によると,北部同盟がマザリシャリフに進攻した際,五日間にわたって抵抗したのはパキスタン人やウズベク人,チェチェン人のグループだけで,ターリバーン勢力の幹部はいち早く逃走,同勢力の兵士は寝返ったという.
 マザリシャリフに入った同誌記者が,北部同盟の複数の司令官のインタビューをもとに伝えた.
 特に,パキスタンからの義勇兵九百人は同市内の学校に立てこもり,三日間にわたる降伏説得に応じなかった.最終的に七百人余りが戦死したとみられ,捕虜となったのは百七十五人だけだった.
 北部同盟の司令官達は,外国からターリバーンに参加した兵士を「旅行者」と呼んでおり,司令官は「ターリバーンは消滅した.“旅行者”だけが残っている」と,同誌に述べている.

 結論:パキスタン義勇兵が降伏勧告にも応じずに戦い続けた結果の戦死だった.

上の記事の元記事(タイム)はこれです.
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,184498,00.html
 これによると,ドスタム,アタ,モハキクの3司令官が,3日間説得したが,彼らは投降しなかったと述べたされています.(この3人が,この間マザリシャリフにいて説得を自分で行ったかどうかは,ちょっとはっきりしない)
 バザールは開いており,路傍の串焼き屋から羊肉を焼く煙が立ち上り,黄色いタクシーが往復しているとのこと.
 産経の記事で「ターリバーンは消滅した」と語った司令官はアタ・モハメドで,驚いたことに彼がマザリシャリフの非公式市長になっていて,各地から集まる部族長や使者の応対に追われているそうです.
 ということは,今のところドスタム領にはなってないようですね(笑).

 補足.このタイムの記事によると,捕虜処刑に関しては,アタはまだ行われていないと述べています.
「ターリバーンの囚人は裁判にかけられ,追放されるだろうと彼は述べたが,しかし処刑の可能性も排除しなかった.(略)「おそらく我々は数人は処刑しなければならないだろう.民衆はこれらの旅行者を殺すことを求めている」とアタは述べた」(HN "533")

Eyewitness: The Taliban Undone

TIME.com Exclusive: TIME's Alex Perry was the first journalist into Mazar-i-Sharif. Its Northern Alliance commander told him how the city fell  

By ALEX PERRY/MAZAR-I-SHARIF

Wednesday, Nov. 14, 2001
When the Taliban lost this capital of northern Afghanistan, they set the pattern for the war. After days of relentless pounding by American bombers, the Islamic militia simply had no stomach for a fight.

The Northern Alliance attacked in earnest on Friday night, and the Afghan Taliban soldiers immediately switched sides, while their commanders jumped into pickup trucks and sped south. Only the "tourists" ? the term Alliance soldiers use for the foreign zealots who make up the most committed of their enemy's ranks ? chose to make a stand. Pockets of Uzbeks, Chechens and Pakistanis held out for up to five days before they were overcome or picked off by snipers.

Around 900 Pakistanis were surrounded in a girls' school, Sultan Razinya, in the southeast of the city. Over three days, the Alliance commanders ? Ustad Mohammed Atta, General Rashid Dostum and Haji Mohammed Mohaqiq ? say they tried to persuade the Pakistanis to surrender. The Pakistanis refused. By Tuesday afternoon, the commanders had exhausted their patience, and warned civilians living in the area to move away. Then they attacked, and the fighting lasted four hours. The Alliance took just 175 prisoners.

Tonight, the occasional burst of gunfire still rings out in the city, but order is fast returning. Alliance soldiers patrol the streets and monitor traffic at checkpoints. AK-47s slung over their shoulders and sacks of RPG rockets in the back of their high-powered pickup trucks. But in a country that has been at war for more than two decades, armed fighters are merely part of the scenery.

The bazaar is open. Streetside shashlik stores send plumes of the thick smoke of lamb fat into the air, and yellow taxis ply their trade. The Alliance leader Ustad Mohammed Atta has become the unofficial mayor of Mazar, sitting cross-legged on the floor of his new home, receiving a stream of visits from town elders, tribal leaders and messengers from the frontlines.

The frontlines get further away by the day as local commanders defect from the Taliban in a domino procession. To the southwest, Herat has fallen due to a spontaneous uprising by the Shiite Muslim population against their Sunni Taliban rulers. To the south, Kabul and Jalalabad have gone. And now the fight is for Kandahar, where the Taliban was born and which has remained its administrative center.

"The Taliban is finished," says Atta over a meal of flat bread, apples and qabeli, the traditional mound of rice, mutton, carrots, onions and raisins that is a staple of Afghan cooking. "Only the tourists remain."

Talk is already turning to the future government, even elections. The plan is to call a Loyat Jirga, a national gathering of all Afghanistan's tribal chiefs to debate the shape of the country's new order. Atta says all the commanders are anxious to avoid a repeat of 1992 when, after defeating the Soviets, rival commanders turned on each other and fought pitched battles on the streets of the capital. "This time we want to have democracy," he says. "We have to keep the people with us."

The Taliban prisoners, he claims, will be tried and eventually expelled, although he does not rule out the possibility of executions. In this desolate battle-scarred landscape of dust and desert, barren mountain peaks and rusted, blown out Soviet tanks, killing is given little thought. "Maybe we will have to execute a few people," says Atta. "The people want to kill these tourists."

 【反論】
 北部同盟の一方的な発表なんて全く信じられない.
 交戦の末の殺害だとすると,北部同盟にも同程度の被害があるのが普通ではないのか?
 【再反論】
 ランチェスターの二次法則というのがある.

兵数に差のある時の戦力差は,√{(A軍の二乗)−(B軍の二乗)}

という式.
 報道では,2000人で攻撃をかけている.
だとすると,√(2000×2000−100×100)=1997.5
ですので,北部同盟側の推定死者数は約3名と計算されます.
 相手が新兵で練度が低いであろう事を考慮すると,戦闘であったとしても, 殆ど虐殺状態だったでしょうね.
 投降するタイミングを間違えれば,全滅は当然でしょう.

 【珍説】
「金で裏切れ!
 金で魂を売り渡せ!
 それが資本主義の『原理』だ!
 信仰を踏みにじって金で良心を売るんだよ!
 それがおれたちアメリカの原理主義だ!」(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』 p.22)

 【事実】
 他項で述べられているように,買収して寝返らせる戦術は,ターリバーンや,それ以前の時代にもよく行われていたことで,「アメリカ原理主義」(笑)とは関係ありません.
 例えば,マザリシャリフをターリバーンが陥落させたのは,守備側ドスタム派司令官の一人を買収して寝返らせたからであり,カブールを同じくターリバーンが陥落させたのは,守備側マスード派司令官の一人を買収して寝返らせたからです.(A. ラシッド「タリバン」他)

 マザリシャリフの例の詳細を,以下に引用しましょう.

――――――
「国際社会からの任地を目指すターリバーンは,1997年5月に,最後に残った都市マザリシャリフ占領に向けた攻勢を開始した.
 この裏には,ドストムの側近マリク・パルワーンのターリバーンへの裏切りがあった.
 マリクは,専制君主のように振舞うドストムが,自分を殺害するのではないかと恐れており,その心の隙にターリバーンによる買収の手が伸びた.
 マリクの裏切りで,イランから再びアフガニスタンに戻って反ターリバーン活動を続けていたイスマイル・ハーンが捕らえられ,ターリバーン側に引き渡された.

 このマリク反乱には,当然ながらパキスタンが深く関与していたと見られている.
 それを裏付けるかのように,マザリシャリフで戦闘が発生する前日の5月23日に,パキスタン領事館の職員が突然パキスタンに帰国していった.
 その翌日,ターリバーンがマザリシャリフを占領してドストムがウズベキスタン経由でトルコに亡命したのを確認してから戻ってきた.
 そして手際のいいことに,5月25日にはパキスタンがターリバーン政権を承認し,それに続いてサウディアラビアとUAEも承認した」

――――――(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from 「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.44-45,抜粋要約)

 また例えば,1989年2月に,反共ムジャヒッディーンの間で「暫定政権」を選出するためのシューラが召集されましたが,ISI(パキスタン軍情報部)の手が露骨に動き,その上ふんだんに投入されたサウジ資金で買収が行われ,総額2600万ドル,代議員1人当たり2万5千ドル,あるいはそれ以上が動いたと言われています.

 ナジブラ政府もまた,ソ連から供与された資金の多くを用いて,政府や部族やゲリラのリーダーを味方につけ,あるいは少なくとも静観の約束を取り付けた,とされていますし,カルマル時代には,KGBを模して〔共産政権時代に〕組織されたKhADが,ムジャヒディン集団に侵入し,部族や個人を買収することに長けていったとされています.買収された人々の多くは親政府系民兵を結成しました.

 さらに歴史を遡れば,1920年代,アマーヌラーは国境地帯の部族を煽動し続け,デュランド・ラインのインド側の不満を抱く部族長達に金銭を与え,煽り立てたりしています.

 以上の例は,M. Ewans著「アフガニスタンの歴史」,明石書店より.

▼ 同じことは英国もやっています.

――――――
 従来の〔英国インド政庁は,〕国境地帯の主部族に対して部族給与 Tribal Allowance と呼んで定期的に給与を与えていた.
 これは政庁からも部族からも明かに買収費と見なされていた.

 〔1899年に着任したカーゾン提督は,〕これを改めて,対部族機密連絡費と名称を変更して,ペシャワール市にこれらの部族の有力者を招いて,
「インド政庁が諸君ら関係部族に支給している給与は,諸君が住んでいる地方の道路や峠をいつも開放し,各自の地方の安寧を保つことに対する代償である」
と説明している.
 この趣旨に反する者には支給せず,従来,給与による収入に慣れていた彼らを脅かし,彼らが抱いていた「部族給与」に対する考え方を一新させた.

――――――木村郁夫 in 『ヒンズー・クシュ,カラコルム研究誌』(高木泰夫編,日本ヒンズー・クシュ,カラコルム会議,1980/12/10),p.123-124

 以下は対ソ戦時代の例.

[quote]
 ソビエトおよびカブール政府は,レジスタンスのリーダーを買収して特定の地域への攻撃を中止させたり,地域的な休戦を決めたりすることのほうに,より多くの成功を収めていた.
[/quote]
―――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.91

▼ 以下はハッジ・アブドゥル・カディールがパキスタンに買収された例.

――――――
 ターリバーンは〔1996年〕8月に入るとパクティアー州のHIH陣地を占領し,9月初めにはナンガルハール州の州都,ジャラーラーバードに迫ってきた.
 同地の東部評議会の意見は分裂していたが,議長であるハッジ・アブドゥル・カディールはパキスタンに買収されてしまった.
 9月10日には,そのカディールがパキスタンに亡命し,翌日の11日にはターリバーンがジャラーラーバードを占領した.
 そして26日には,すでに反ターリバーン勢力が撤退したカーブルに入城したのであった.

 なお,カディールは後に,親族がターリバーンに逮捕されたのを契機に,反ターリバーン勢力に参加していった.

――――――柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.59

 なお,アフ【ガ】ーン人がすぐに寝返る理由としては,次のような説明があります.

 私は彼に,私達が最近目の当たりにしてきた,あらゆる寝返りについて説明して欲しいと言った.なぜアフガニスタン人はいとも簡単に変節するのか?
「アメリカや他の国々では」と,シャハムラト〔タロカンの地主の息子.村の長老で村長〕はためらいがちに言った.「国民が祖国は大切なものだという考えを持っている.
 しかしアフガニスタンでは,兵士はそんな考え方は持っていないし,貧困のせいで,権力者であれば誰にでも与する」

Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.118

 小林のアフ【ガ】ーン関連著述は,ペシャワール会の中村医師の引き写しが殆どのよう――独自の部分が全く見られない――ですが,
「カネ社会の浸透」
「エロ写真氾濫」
は,内戦の頃にも「そうだった」と中村が主張していたことです.
 以下に引用します.

 アフ【ガ】ーニスタン国内では1992年4月に共産政権が倒れ,戦場は農村部から都市部に移った.
 前後して農村部難民200万人が独力で帰り,郷土復興が自力で開始されたが,地域によっては「食べる作物」よりも「売れる作物」に熱が入った.

 「共に食べる農業」を支えてきた伝統的相互扶助意識が色あせ,村落共同体そのものが分解し始めるという悪循環を生み出した.

 主に農業に依拠してきた鍛冶屋・石工などの職人達は失業し,「復興援助」によって膨れ上がったトラック台数は,駱駝や驢馬による中小運送業を駆逐した.
 これらが人々の心に微妙な変化をもたらした.
 自動車輸送網の及ぶところでは,人々はよそ者に対してだけでなく,互いに猜疑心を向けて,牧歌的な共同体が崩れ始めている.
 カネ社会の浸透が,これを揺るがしたのである.

(ペシャワール会・中村哲医師 from 「学び・未来・NGO」,
新評論,2001/4/1, p.148,抜粋要約)

 アフガニスタンの内乱に伴って,ゲリラ本部はペシャワールに置かれ,ヤクザの抗争紛いの激しい争いが日常化した.犠牲者は数知れない.
 〔略〕
 日本製のビデオも一部の階層の間には普及し始めており,いかがわしいフィルムも密かに出回りつつあるという.

(中村哲 from 「アフガニスタンの診療所から」,筑摩書房,1993/2/10,抜粋要約)

 偶然にしては,あまりにできすぎている気がしますが…….


 【質問】
 マザリシャリフでの捕虜暴動は何故起こったか?

 【回答】
 英ガーディアン紙によれば,米軍の一連の誤りが暴動を引き起こす環境を作ったという.

(前略)
 ガーディアンは今週の出来事に関する細部の証言を組み合わせた.その結果は,ターリバーン兵士がクンドゥズ陥落後に北部同盟の手に落ちたそもそもの最初から,破局的な一連の誤りが重なったことを示唆している.

 昨日ガーディアンは降伏交渉にあたった反ターリバーン勢力の司令官にインタビューしたが,彼は主としてアメリカの誤算のために物事が悪い方へと転がっていったと述べた.
 今年初めに反ターリバーン勢力に寝返ったパシュトゥン人司令官のアミル・ジャンは,クンドゥズで投降した主としてアラブ人, パキスタン人,そしてウズベキスタン人などの外国人兵士は,正式な投降の段階ではアフガニスタン北部の主要都市マザリシャリフに行くことを決して想定されていなかったと述べた.
 外国人はクンドゥズの12マイル西の山がちな前線地域であるエルガナクで捕虜となる予定だった.
しかしその代わりに彼らは夜間砂漠を横切り,マザル郊外の砂漠と電柱しかない荒地に着いた.土曜の午前3時のことだった.

 クンドゥズのターリバーン司令官であるファイザル師は外国人兵士に武器を捨てるよう告げたが,
 しかし,彼らが拘束されるだろうということを告げるのを怠ったことが,アミル・ジャンの発言から明らかになった.
「外国人たちは北部同盟に投降したあとは自由の身になると思っていた.彼らは投獄さ れるとは考えていなかった」
と彼は述べた.

 デザート・カーキの服を着た米軍兵士が衛星電話のセットアップをしている間,北部同盟の軍閥ラシッド・ドスタム配下の兵士たちは攻撃態勢を取っていた.
 3,4時間の交渉の後,ターリバーン兵士は再度降伏に同意した.しかしそれはただアミル・ジャンへのみ降伏するというものだった.彼らはアミル・ジャンがパシュトゥン人であることとターリバーンにいたことで信頼していた.
 ドスタム将軍の兵士はそこでターリバーン兵士の武装解除を始め,武器を緑色のトラックの荷台に積み上げた.

 ドスタム将軍は捕虜をマザリシャリフにあるソ連が作った大きな空港に連行するよう手配したが,米軍の特殊部隊がこれを拒否し,滑走路は軍事作戦に必要になるかもしれないと述べたことをアミル・ジャンは明らかにした.
 その代わりにドスタム将軍は捕虜をマザル郊外の泥土の広がる場所にある私的な要塞カライジャンギに連行した.
 これに先立つ2週間,米当局者がこの構内に秘密裏に長時間滞在していた.彼らはそこが重火器でいっぱいであることを知っていた.
 それにもかかわらず,彼らはドスタムの即席の計画に賛成した.
 午後半ばまでに捕虜たちは5台のトラックに分乗させられた.
 ドスタム将軍の保安局長サイド・カマルは,最初の3台のトラックにいる捕虜の身体検査は行った.
 しかし黄昏が近づいてきたので,残り2台については検査を行わないまま隊列は出発した.
 これは破滅的な結果をもたらすことになった.

 ドスタム将軍が軍の大部分とともにクンドゥズ方面に発ったため,護送車列は別の道を通ってカライジャンギに向かった.
 そこには比較的少人数の護衛兵が残されていた.
 ドスタム将軍の警察局長ナデル・アリは午後遅くに捕虜が到着した後,再度武器を検査しようとした.
 所持品検査をされそうになった1人のターリバーン兵士が隠し持っていた手投げ弾を爆発させ,自分とアリ,それにもう1人のドスタムの幕僚を殺した.
 死にかかったアリが運び出される間,兵士たちはターリバーン兵士を構内の北方にある馬小屋区域に連行した.武器検査は取りやめになった.

 その夜,ターリバーン兵士の8人が捕虜収容所の貯蔵室で自爆したとアミル・ジャンは言った.
 それによってターリバーンの少なからぬ数がまだ手投げ弾で武装していることが判明した.
「これが起きたあと,私は彼らが強硬派で危険であると判断した.我々は彼らの手を縛って地下室に放り込むのがよいだろうと意見が一致した」
と彼は付け加えた.

 翌朝護衛兵はこの新しい命令を実行する準備にかかった.
 そのころ,北部アフガニスタンの国際赤十字委員会の委員長であるサイモン・ブルックスは,白い赤十字の車でカライジャンギに入っていった.
 彼はドスタムの保安局長サイド・カマルから,捕虜たちは人間的に扱われているという保証を得たいと思っていた.赤十字はまた捕虜の名前を記録し,家族への伝言を言付かりたいと考えていた.
 しかしブルックス氏がアラブ人,パキスタン人,チェチェン人の抑留者に関心を持つ唯一の人間ではなかった.

 2人のCIAエージェント,ジョニー“マイク”スパンと“デイヴ”も,オサマ・ビンラディンのアルカイダ・ネットワークと関係がありうるターリバーン兵士を選抜するよう命令されていた.
 デイヴは遠くからアフガンを見ていた.彼はドスタムの兵士がしゃべるウズベク語を話すことさえでき,長いコートの下にシャルワー・カミーズを着ていた.
 しかし角刈りの髪のために,正体がアメリカ人であることがわかってしまった.

 ロイターと独ARDの2つのテレビクルーも要塞にやってきた.彼らは捕虜収容所でデイヴやマイクといっしょの場所にいた.
 デイヴたちは被疑者の尋問を始めていた.

 午前11時25分,ターリ